月別アーカイブ: 2015年8月

伊丹敬之、加護野忠男『ゼミナール 経営学入門』第5章演習問題答案例

京都アカデメイア塾「論文の読み書き」クラスのために作成した、伊丹敬之、加護野忠男『ゼミナール 経営学入門』第5章演習問題答案例です。

 

第5章 企業構造の再編成
(演習問題)

1.
5章

2.
戦略第一、雇用第二という原則をきちんともつことのメリットは、雇用を維持するためだけに維持されている、企業全体にとっては不利な事業を整理して競争力を高めることができることであり、デメリットは雇用にまつわる紛争が増加したり残った従業員のやる気が低下したりすることである。この原則をきちんと守った企業構造を再編成しようとするときは、従業員にその事業が不必要なことをきちんと説明し、割増退職金を用意するなどして本人が納得した上で雇用を整理するという手配りが必要とされる。

3.
企業合併で融合に成功するための条件は当事者が合併の必要性を真に認識して時には妥協もしながら協力しあうということであり、必要と思われる具体的手段として合併後の企業での指揮系統をはっきりとさせることが要となる。90年代に合併が発表されたみずほ銀行の合併は、こうした条件が満たされておらず、たすき掛け人事にこだわるなど合併前の旧企業の枠組みに囚われすぎてしまい、大規模なシステム障害を発生させてしまった。

 

中山元『フーコー入門』:「美容整形は何が問題なのか」問題に迫る


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大窪善人
 




(1970年01月01日)

 
北条かやさんの『整形した女は幸せになっているのか』を取り上げた先日の「批評鍋」では、参加者から「美容整形は何が問題なのか」という疑問が共通して出されました。つまり、一人ひとりが自分の意思で望んで整形しているなら、そこには何も問題ないのではないか、ということです。では美容整形はOKなのか。

しかし、ここにはもう一段深い問いが含まれているように思われます。それを理解するには、フーコーの議論が手がかりになります。

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批評鍋 北条かや『整形した女は幸せになっているのか』

 
8月9日 京アカ批評鍋#14 をニコ生にて放送しました。
テーマ本は、北条かや『整形した女は幸せになっているのか』(星海社)です。

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出演:
浅野直樹さん
新倉純樹さん
岡本竜樹さん

北条かや さん(skype・特別出演)

大窪善人(司会)
 
内容:
・容姿や美容整形は人それぞれが判断すればOK?
・本書の主張・論点は?(浅野) 「キレイになってハッピー」ではない。
・整形問題を考えるときの構え →いったんは肯定的に見ないと深く考えられない。
・整形は社会の問題かそれとも個人の問題か? 自己啓発、就活と整形。
・整形する人は誰のためにするのか? 自分基準か男性基準か?(岡本)→整形医師は男性が多いので男性基準になりやすい。
・ 前著『キャバ嬢の社会学』とのつながるテーマ性。
・整形して得た顔は”属性”なのか”能力”なのか?(大窪)
・もしみんなが整形したらどうなるのか?(視聴者コメント)
・美の評価軸は”相対評価”か”絶対評価”か?(浅野) 美の格差問題は解消可能か?→ 「美人=白人」というグローバル・モデルという問題。
・顔の”所有”問題→「私」の顔は「私」が決める。ではその「私」の根拠はどこにあるのか?
・サイボーグ的な身体-もし「攻殻機動隊」の世界が実現したら? 身体と精神との関係。
・男性の身体コンプレックス。→男性にも押し寄せる美の社会的要求。
・整形と幸せとの関係→見田宗介版 疎外論から考える。個人の実存から構造へ。
 
今回はなかば女性vs男性のような構図で、著者の北条さんにこちらが疑問質問をぶつける形になりましたが、後半では北条さんから逆に質問が飛んできてスリリングでした。とはいえ、今回は”男性”目線からの問いや議論になりがちだったかなと思うので、やはりあらためて”女性”からはどう読まれたのかが気になるところではあります。

美/醜の問題は個人(とりわけ女性)の実存に根深く突き刺さりうる問題だから、それとどう付き合っていくのか、あるいはどう距離をとるのかは難しいけど重要な問題だと思いました。この本の問題提起から、個々人にとって”幸せ”や”自由”が何なのか、といった問いがより深められていくとよいのではないかと思いました。

文責:Y.Okubo

 
<関連動画>
京アカ 批評鍋 #09 『キャバ嬢の社会学』
 

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」を開催しました

 
8月4日、山の学校で「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」を開催しました。ご参加いただきありがとうございました。

告知エントリ

宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」を題材に、社会の中で生きるということについて考えました。

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「銀河鉄道の夜」は、幻想的な寓意に満ちた作品です。「銀河」「鉄道」「どこまでも行ける切符」「駅」「ほんとうのさいわい」「離陸」「帰還」… それはさながら、線というよりは点の布石が、やがて図形になったときの驚きに似ています。そして、物語をこえて想像力が惹起されるのは、線と線との思いがけない繋がりを見つけたときです。

IMG_3971tなんと、教室の上に賢治の「雨ニモマケズ」の書が掛けてありました(!)

賢治の生家は熱心な真宗の家系だったといいます。また後年には日蓮宗の信仰に入ってきます。たしかに賢治の作品には、端々に一種の宗教的な信仰を見て取れます。では、賢治の作品はひとつの宗教的なメッセージを伝える作品なのでしょうか。

ところで、「銀河鉄道の夜」には「ここが自分の降りるべき駅だ」と言って汽車を降りていく人たちが描かれます。社会学者 真木悠介=見田宗介さんは、「ひとつの宗教を信じることは、いつか行く旅のどこかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ」と言います(『自我の起原』)。しかし物語の主人公であるジョバンニの切符は、終点のない「どこまでも行ける切符」なのです。

ある宗教を信じるということは、ここではない「彼方に」ほんとうの答えを描くということです。しかし、ジョバンニの旅は、その「彼方」さえも越えて行こうとすることではないでしょうか。「いまここ」や「彼方」には答えはない。しかし、「ここではないどこか」という否定的ヴィジョンにおいては、ほんとうの答えがあるかもしれない、と。

「銀河鉄道の夜」の、そして賢治の作品の魅力は、そんな宗教すら越えていこうと探求する心にあるのではないか、そんなふうに思います。

 
<関連記事>
映画『誰も知らない』から「幸いとは何か」を考える