フランクフルト学派:その通底するテーマとは?

大窪善人

 

本書はフランクフルト学派についての入門書。学派の輪郭を平易な文章で描き出している好著です。これ一冊でフランクフルト学派のおおまかなことは押さえられます。

「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」

これはフランクフルト学派を代表する哲学者 アドルノの有名な言葉です。「アウシュヴィッツ」とは、第二次世界大戦中にヒトラーに率いられたナチス・ドイツがポーランドに建設した「絶滅収容所」を指します。アウシュヴィッツでは、ユダヤ人や少数民族など、何百万人もの人々が殺戮されました。文字どおり、ナチスが行った「ホロコースト」の象徴的な施設です。

アドルノの言葉は、こうした、言語を絶するような歴史的な出来事に衝撃を受けて書かれたものです。つまり、ベートーヴェンやブラームス、あるいは哲学者 カント、ヘーゲルといった、合理的で豊かな教養・文化を生み出してきたドイツが、なぜこのような野蛮へと落ちいってしまったのか、と。

そして、アドルノ自身も祖国を追われたユダヤ系のドイツ人でした。だから、戦後のフランクフルト学派の使命は、ナチズムや全体主義が生み出された原因を明らかにし、社会の全体を批判的に考察することになるのです。

『啓蒙の弁証法』のテーマ

アドルノ(と同僚のホルクハイマー)の代表作は『啓蒙の弁証法』という書物です。とても難しい本ですが、基本テーマは「文明と自然との宥和」です。もちろん、背景にはナチスの経験があります。

なぜ人類は真に人間的な状態に歩みゆく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでゆくのか?


人類は、理性の働きによって自然を開発し、自然の猛威や恐怖から自らを解放してきました。「理性」を表すギリシャ語の「ロゴス」には「ことば」という意味もあります。「ことば」によって自然に意味を与え、支配しようとする働きは、人類が無知な状態から明るくなるという「啓蒙」の重要なプロセスだったのです。

ところが、自然の恐ろしさを克服したはずの人類は、いまやその理性自身の働きによって、再び「野蛮状態」へと逆戻りしてしまった。これがアドルノたちの認識でした。かつては文明の外側で自然を支配した理性は、今度は文明の内側にいるわれわれ自身の内面へと差し向けられるようになった。それをアドルノは「内的自然」の支配ということばで表現しています。

それでは、理性による「外・内的自然」の支配からいかにして逃れることができるのでしょうか。アドルノの結論は、決して明るいものではありません。まず気をつけるべきなのは、安易に「自然」を持ち出そうとする態度です。なぜならそれは、かつてナチスが「血と大地」とか「民族」のような理性以前の根拠によって、ホロコーストを正当化したことと同じになってしまうからです。だから、理性や合理性を手放すべきではありません。しかし、同時に、理性は自然の支配を生み出した張本人でもあります。

ではどうすればよいのか。アドルノは、シェーンベルクの音楽やカフカの文学などを高く評価します。たとえばカフカに描かれている物語は、「わたし」が「わたしではないもの」になってしまうという経験です。そこでは、「理性を使う主体とその客体」という対立は無化されることになります。結局、アドルノは、哲学にではなく、芸術や美的経験の内に、かろうじてありうるかもしれないわずかな希望を託すのです。

通底するテーマ:文明と自然との宥和

フランクフルト学派のメンバーとして、アドルノの後継者と目されている人物がいます。ハーバーマスです。ハーバーマスはドイツだけではなく、今も世界的に活躍し続けている知識人なので、知っている人も多いでしょう。じつはアドルノとはだいぶ毛色が違うところがあります。なので、両者を同じ「フランクフルト学派」としてまとめることに反対する意見もあります。

しかし、本書は、アドルノとハーバーマスとのあいだには、ある連続性、通底する問題関心があるといいます。「自然」概念です。

フランクフルト学派は…『啓蒙の弁証法』というその代表作において、自然と文明の宥和という大きな課題を提起していました。ハーバーマスにいたると、そういう大きな物語は後景に退いてしまうと一般には理解されています。…しかし、生活世界とシステムをめぐる問題は、やはり自然と文明の宥和という大きな問題設定と無縁とは私には思えません。むしろ、…自然と文明の宥和という問題は、ハーバーマスにおいて、システムと生活世界という問題として、きわめてアクチュアルに設定しなおされ、問いなおされている側面があるのではないでしょうか。


ハーバーマス自身は、アドルノとは違って、芸術や美的経験なかで、文明と自然とを宥和させるような傾向はほとんどありません。たとえば生命倫理の問題にしても、あくまでも、いまの学問的議論のなかで充分に通用するような堅実な議論を展開します。ハーバーマスは、いかなるユートピア的なヴィジョンも描こうとはしません。しかし他方で、近年、ハーバーマス自身が、自然主義や宗教の研究に集中していることは興味深いことです。今後、どのような議論が展開されるのかが注目されるところです。

関連する本

bensyouhou

啓蒙の弁証法―哲学的断想
ホルクハイマー ,アドルノ
(岩波文庫) 文庫 – 2007/1/16

habamas2

自然主義と宗教の間: 哲学論集
ユルゲン ハーバーマス
(叢書・ウニベルシタス) 2014/10/17

habermas1

公共圏に挑戦する宗教――ポスト世俗化時代における共棲のために
ユルゲン・ハーバーマス (著), チャールズ・テイラー (著), ジュディス・バトラー (著), & 6 その他
単行本 – 2014/11/27

フランクフルト学派:その通底するテーマとは?」への4件のフィードバック

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  4. アラー

    ネットで調べると以下のようなことが書かれていましたが、どちらが真実ですか。

     

     「革命を成功させるには、長い年月を費やしても古い価値(伝統・文化)を根絶させ、新しい価値を創造し中産階級に刷り込む『文化テロリズム』を実践することである」とした『フランクフルト学派』思想である。その文化闘争の武器に『批判理論』を編み出した。

    【批判理論】

     定義…伝統・文化の主な要素を嘘でも捏造してでも、完全否定する批判を繰り返す。

    キリスト教(日本では天皇)、資本主義、権威、家族、家父長制、階級制、道徳、伝統、性的節度、忠

    誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習、習慣、保守主義など何から何まですべて批判し、

    自説の敵には、たとえ嘘でも捏造しても「ウソも100回言えば本当になる」と繰り返し主張して、ファ

    シスト、ナチ、ユダヤ人排斥者、差別主義者、右翼、精神病などのレッテルを貼り貶め、無視をして言論

    を封じてゆく。自己の責任は、他に転嫁し責任逃れをする。

    フランクフルト学派の主張
    ・立ち上がれ女たちよ、男女別姓、妊娠出産は、女の自由だ
    ・性を解放せよ(自由恋愛思想)
    ・過激な性教育の実施
    ・不満をもつ若者よ世間に反抗せよ
    ・犯罪者の人権を擁護せよ
    ・戦え少数民族よ、テロリストよ。国家は敵だ
    ・愛国心なんか価値はない
    ・歴史と伝統を破壊せよ
    ・伝統宗教を捨て去れ

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