京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅱ期)

聖書読書会担当者からの報告をアップします。

 

今日はコリント後書の2章~3章まで。意外と時間がかかり、Ⅱ期の終了は次回になりそうです。今日の範囲で気になったのは2章の14節の「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」というところ。思想(知識)を匂いに例えることって、結構あるなと思います。こないだ見たツイッターの誰かのつぶやきでは「お前は人権の臭いがする」と言われた、というものがありましたし、キリスト教の雰囲気を「耶蘇臭い」、仏教の雰囲気を「抹香臭い」などと表現するのも聞いたことがあります。これらの例はともに非難めいた文脈での用法ですが、いろんな宗教の儀礼においても、お香を焚くなど、信仰を嗅覚に訴えて伝える要素が多く見られます。聖像(視覚)や音楽(聴覚)と宗教というテーマはそれなりに研究の蓄積があると思われますが、嗅覚と宗教というテーマは案外未開拓の領域ではないでしょうか。

 
あと、今回もやはり「聖霊」って何よ、よくわかんないね、ということが話題にな…りました。偶像化しえない超越神がいて、それをこの世に媒介するためにイエスとして受肉した、というところまでは分からないではない。だけど、さらに聖霊という媒介まであるのはなんでだろ、という疑問です。いろいろ事典などで調べてもすっきりしないのですが、今日の読書会で自分たちなりに考えてみました。そもそもキリスト教ではイエスという人のかたちで神がこの世に姿を現し、しかも彼が全人類の原罪を担って十字架で死ぬことにより我々を救った、ということになっています。ところが、そう言われて「そうなんや!ありがたいことや!」と思える人と「なんじゃそりゃ」とただのヨタ話としてしか聞かない人とがいるわけです。前者が信仰のある人、後者がない人、ということになるでしょう。この違いはどこから生まれるか。その説明原理として「聖霊」の働きというものがあるのではないか。つまり、十字架でのイエスの死が人類の救済であることを、ヨタ話ではなく「真理」として受け取らしめる作用に「聖霊」という名前が与えられているのではないか。今日はとりあえずそんなふうに考えてみたところで終了しました。

 

次回は3月15日(火)10:00~@京大中央生協。次回こそ第Ⅱ期最終回となりそうです。皆さまご参集ください。

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