【承前】こうした意味では、非西洋圏では人権思想や民主主義はある種の「暫定協定(Modus Vivendi)」としてもっぱら機能してきたと考えるのが、おそらく妥当である。それは不可譲という意味で絶対的な価値ではなく、状況次第で変化するほかのさまざまな価値とのバランスのなかで差し当たり採用された、条件つきの価値である。状況によって諸価値の関係性とバランスは変化し、プラグマティックな調整過程のなかで、人権も民主主義もときに最優先の地位から引き下げられる可能性があるということである。いわば「その程度のもの」としての人権であり、民主主義なのである。実際的には、多くの場合、否ほとんどの場合にこれらの基本的諸価値はできる限り擁護されている。それでも、原理的には、それらは不可譲で無条件の価値としては擁護されていないのである。
言論の自由という価値の絶対性――シャルリ・エブド事件のケース
シャルリ・エブドの襲撃事件は、この問題を考えるうえでよいケースである。その後2015年11月により大規模なパリ同時多発テロが発生したために、1月のテロ事件もこれと併せて、国際社会が今後テロの脅威にどう対峙していくかという文脈へと還元されて見られるようになった。けれども、シャルリ事件が、こうした文脈とは別に、日本である種の驚きと違和感をもって受け止められてもいたことはあまり記憶されていない。ヨーロッパの知性にとって言論の自由のような基本的価値がどれほど大きな意味をもつのか、日本のジャーナリズムや文化人はじつは把握しきれていないのではないかという戸惑いが、あのとき一部には見られたのである。
日本で多く見られた反応は、たしかにイスラム原理主義者の狂信的なテロリズムは当然非難されてしかるべきであるが、同時にあのような異文化への敬意を欠いた下品な風刺も言論の自由の名の下に正当化されるべきではなく、自業自得の面もあるのではないかといったものだった。いくら近代社会の根本にある基本的権利とはいえ、どんな内容でも等しく表現する自由があるわけではなく、自由や権利の行使にも節度と自己抑制が求められるはずだと、少なくない日本人は考えたのだといえよう。テロリストたちが狂信的であるように、シャルリの風刺画家や編集者たちも、日本人の目にはどこか狂信的に映ったのである。そこまではいかないにしても、彼らの主張が頑なで偏屈なものだと多くの人びとが感じていたのは否定しがたい。
他方、ジャーナリズムや言論界に身をおく者たちの多くは、言論・報道・出版の自由という理念の名の下に、シャルリへの連帯を表明した。けれども、恐怖によって報道の自由を抑圧しようとするテロリズムを断固非難するという基本的なポーズは共有するにせよ、はたして自分がその立場だったら、テロの標的となるかなり明確な危険を冒してまであのような風刺画を描き、出版し続けただろうかと、おそらくは考えてしまっただろう。言論人も、風刺画を描き続けることに、命を危険にさらすまでの価値がはたしてあるのだろうかと考えて、立ち止まってしまうのである。実際こうした場合にほとんどの日本人が暗に示すのは、さまざまな価値やそのときどきの具体的な状況を総合的に判断して、できる限りは基本的自由や平等・民主主義といった価値を優先しつつ、場合によっては一定の譲歩も必要であるというプラグマティックな態度だろう。
しかし興味深いのは、シャルリの関係者がテロの危険をかなりの程度まで覚悟したうえでなお風刺画を出版し続けていたということである。日本人がどこか狂信的とさえ感じてしまう彼らの言論・表現の自由に対する固い確信は、いわば確信犯的なものであり、そうしたリスクをとってでも彼らは表現をやめようとはしなかったのである。
この意味で、彼らにとって言論の自由は譲り渡すことのできない絶対的な価値であり、価値のネットワークの全体的なバランスに配慮してときに制限されるといったものではなかった。言論の自由とは、フランスの知識層にとって、初めから当然のものとしてそこに存在していたのではなく、命を賭して守り、闘い、勝ち取ってきた権利であった。ある面ではそれは自己の個別的な生命を超えた人類に共通の価値であって、こうした価値の絶対的で超越的な性格が、宗教的な背景、つまり一神教の伝統というバックグラウンドと深く結びついていることは想像に難くない。
「私はシャルリ」のプラカードを掲げて行われた事件直後のデモ行進も、多くの人びとは再度のテロの恐怖を明確に念頭におきながら、それでも街頭に姿を現した。これもある種の使命感に突き動かされた行動だというほかはなく、生命を奪うような手段など行使するはずもない日本政府に対して行われる平和で「楽しい」デモとは比較すべくもない(もちろん両者の優劣を論じているのではない)。
こうして、この事件には、「神々の闘争」という共約不可能な価値の対立の次元を見出さないわけにはいかなくなる。リベラルな寛容を説く日本の知識人はこうした事態を「文明の衝突」として描くことを忌避する傾向にあるが、しかしながら、シャルリ事件を含む今日の国際情勢の問題状況が、その重大な一側面として文明の衝突という要素を含みこんでいることをまずは直視しなければ、問題解決の糸口を見出せないところまで事態は切迫しているのである。そこに認めるべきは、中立的な正義によって統制されるべき世俗の公共領域に、本来私的空間にとどまるべき宗教的価値が侵入してしまったというような事象ではない。ここにあるのは、世俗化された絶対的価値と宗教上の絶対的価値のあいだの(原理的には)調停不可能な対立である。
翻って、日本ではここまでの文明の衝突は生じにくい。ただし、それはよいことばかりを意味するわけではない。雑種文化としての日本文化は軟体動物のような融通無碍さを有し、さまざまな異文化を相対化しつつ受容してみずからの構成要素としてきたとされる。しかし、ニュートラルでどんな文化にも排他的ではないとされた西洋由来の近代的諸価値の体系が、実際には一神教的な絶対的なものへのあるコミットメントを密かに要求しているとしたら、従来のハイブリッドでプラグマティックな「日本的方法」だけに頼っては、近代的価値の核心部を理解し実践することはできないということにさえなるのである。
当然、もはやポストモダン的な気軽さを謳歌できる状況にはなく、「日米同盟」を基軸として日本は国際社会と価値を共有し、責任ある行動主体として積極的に世界の諸問題に関与していくという方向へと、外交上決定的な舵は切られてしまっている。しかし、ここに論じてきた問題をふまえれば、国際社会と共有すべき基本的な価値というものが、実際には決してミニマルな「薄い理論」にとどまらないことは明白であり、とりわけ不確実性と危機の時代を迎えた今日では、求められるコミットメントはきわめて大きなものとなりつつある。21世紀に入っての日本の政治過程では、それだけの覚悟をともなうことなしに、なし崩し的に国際情勢の大きな渦に飲み込まれてしまっている感は否めないが、そうだとしても、西洋文明に由来する近代社会というものの深層構造、あるいはそれが密かに要請する文化的諸条件という水準まで掘り下げた分析と研究が、今後ますます必要となってくることに変わりはないだろう。
上野大樹