吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ” に1件のフィードバックがあります

  1. 百木

    僕は昨年、吉見俊哉先生の講演会にコメンテーターとして参加し、この本のテーマについて吉見先生のお考えを直接に聞く機会がありました。そこで僕が一番面白かったのは、「近世で大学は一度死んでいる」という吉見先生の主張です。

    12~13世紀にヨーロッパ各地で大学が連鎖反応的に生まれたことはよく知られている。しかし大学制度は現代に至るまで連綿と続いているわけではなく、歴史上では「断絶」があったと考えられる。16~17世紀に活躍した近代哲学や自然科学の祖たち、例えばホッブズ・ロック・デカルト・スピノザ・ニュートン・コペルニクス・ケプラーなどはいずれも大学教授として学問を深めた人ではない。むしろ彼らは、当時の王族や貴族がパトロンとなるかたちで研究や思索を行っていた人たちがほとんどなのです。

    なぜ近代哲学・自然科学の基礎が作られたこの時代に大学が力を失っていたのか。それはグーテンベルクが開発した活版印刷技術の普及によって、多くの知識人が大学に頼らずとも、独自に勉強・研究をすることができるようになったからだと吉見先生は考えておられます。大学の歴史についての記述のなかでも、この事実が指摘されることは少ないのではないでしょうか。

    浅野さんが記事のなかでも書かれているように、大学がもう一度力を取り戻すのは18~19世紀以降です。なぜ大学が力を取り戻したかといえば、それは「国民国家(主権国家)の勃興」という歴史現象があったからです。各国家は、国力を増強させるために優秀な人材を必要とし、それゆえ高等教育制度に力をいれるようになった結果、再び大学が知識の王道に返り咲いたといえます。

    そのことから翻って現在の大学の苦境を考えてみれば、次のように考えられるでしょう(以下は僕個人の意見であり、講演会で吉見先生にコメントの際に質問したことです)。現在、なぜ大学が再び力を失いつつあるのか。それは「インターネット」という活版印刷技術に代わる新たなメディアの登場によって、大学の知的権威が揺らぎ始めているからではないだろうか。吉見先生は大学をひとつのメディアとして捉えることを提唱しておられますが、まさに活版印刷やインターネットの新しいメディアが登場した時に、大学というメディアは危機に晒されることになるのです。

    この仮説が正しいとすれば、これからの大学は16~17世紀の大学のようにますます力を失い、形骸化していくことが予想されます。逆に「新しい学問知」は大学以外の場所で、富裕層のパトロン制度のもとで探求されるようになるのかもしれません。実際に、大学教授などの肩書きをもたないジャーナリストやブロガーなどが論壇をリードすることも最近の日本では珍しくなくなってきました。また新しい時代におけるパトロン制度は、かつての王族・貴族のような富裕層によって担われるのではなく、ソーシャルメディアを通じたマイクロファイナンスとして多数の一般大衆によって担われることになるのかもしれません。岡田斗司夫さんや玉置沙由里さんなどの実践はその先駆けかもしれません。

    浅野さんが最後に指摘されているように、この本での主張「あくまで大学の知的権威を守るべき」が本当に実行可能なのか、インターネット時代にそのような知的権威のあり方が正しいのか、という問題は改めて問い直される必要があると思います。僕個人としては、京都アカデメイアのような活動をしつつ、将来は大学講師を目指しているので、どちらの方向性に立つべきか微妙なところではあるのですが、大学という知的権威と大学外での素朴な知的探求が共存していける知識社会が実現されるのが最も理想的だろうと考えています。

    今後も京都アカデメイアでは「大学と学問のこれから」を問い続けていくことになるでしょうから、その思考の一助として吉見先生のこの力作はきっと役立つものになると思います。

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