第2回 アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめ

 

先日行われた第2回アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめです。例によって浅野個人による主観的なまとめですので、補足や修正があればお願いします。

*今回はUstream中継動画の録画を公開しておりません。どうしてもその録画を見たいという方がもしもいらっしゃいましたらお問い合わせください。

就活の「くだらなさ」

前半は自己紹介から就活の「くだらなさ」へと自然に話が移行しました。振り返ってみれば、就活にうまく乗ってきましたという人が参加者の中にはいなかったように思います。まぁそれもこのようなテーマを掲げたのだから仕方ないかもしれません。

就活の「くだらなさ」とは、今就活を経験している人や少し前に経験した人に言わせると、大学3回生のある時から「就活ヨーイ、ドン」と号砲が切られて、スーツを買え、就活サイトに登録しろ、どのような仕事をしたいか考えろ、と一斉に急き立てられることです。そしてその流れに乗って企業にエントリーシートを送ったり面接を受けたりしても、よくわからない基準で落とされ続けると嫌になります。就活の「くだらなさ」とは画一的な競争を煽られることであり、しかもその競争の勝敗の基準がはっきりとしないことです。受験競争も画一的な競争ではありますが、まだ勝敗の基準ははっきりとしています。

この就活の「くだらなさ」を採用する側から見たらどうなるのでしょうか。今回の場では企業の採用に携わるなど様々な経験をされてきた方が採用活動の裏側を惜しげもなく披露してくださいました。それによると、不動産の物件と同じで、そもそも好条件の仕事は関係者のコネなどですぐに埋まってしまい、就活サイトに出されているものはその残りだということです。積極的に人を集めようとする企業は従業員が定着せずに辞めていくからいつも募集をかけているわけであり、就活サイトにお金を払って自社を美しく飾ってもらって人を集めているのです。虚飾が少ないという意味では、労働条件を明示することなどを法律で義務付けられている職業安定所(ハローワーク)のほうがよほどマシです。

このような状況ではあっても、就活サイトで募集をかければ履歴書の束が数センチにもなるほどに応募があるそうです。その内容を全て吟味することなど到底不可能で、採用担当者の目に留まりたければ履歴書を芸術作品にするくらいのことをしなければならない、と採用担当を経験した参加者は言っていました。しかも採用担当者にはバカな人もいるわけだから、なぜわざわざそのような枠に入ろうとするのか理解できないとも付け加えられました。採用の現状がこれなのですから、「こうすれば就活で採用される」などという一般的な解などないのです。

その代わりに、研究室の先生に推薦してもらう、製品の展示会などで役員と意気投合する、などして個人的なつながりをつくるとスムーズに事が運ぶとのことです。いきなりそのような形で関係を作るのが難しければ、どこでもいいからいったんアルバイトとしてでも関連企業に入り込み、技術を磨きながらお目当ての企業役員や採用担当と知り合う機会を探ればよいのです。これだけ就職が難しいと言われている時代であっても、特に中小企業の社長の中には後継者を探しても見つからずに困っていて、日夜出歩いている人も多いそうです。

あるいは人に雇われる道ではなく、自分で独立して仕事をするという道もあります。そして仕事がなければ創り出せばよいのです。最近の言葉では創職やノマド、3万円ビジネスと呼ばれている路線です。岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学のまとめと感想も参考にしてください。昔からの言葉で広く含めるならフリーランスですね。

ここまで話が進んで私はふと疑問に思いました。就活に乗れず、かといって会社の偉い人と仲良くなるような要領のよさもなく、独立して仕事ができるほどの能力も創職するほどのガッツもない人はどうすればいいのかと。この議論の場では仮に「草食」や「まったり」と呼んでいた人たちです。

就活の「くだらなさ」を超えた先は創職なのかそれとも草食なのか。休憩をはさんで後半に入りました。

「くだらなさ」を超えて

前半では、大学の3回生くらいから一斉にスーツを着て専用のサイトに登録し、企業の選考を受けることを就活(就職活動の略で「シューカツ」とカタカナ表記されることもある)と呼んで、その「くだらなさ」を指摘してきました。そうすることによって今まさに就活で苦しんでいる人の心の救いになることが考えられます。しかしそこに留まっていては生産的ではないので、就活の「くだらなさ」を超えてさらに進もうというのが今回のアカデメイア・カフェの目標でした。

就活の「くだらなさ」を超えて進むのだといくら力を入れても、就活の存在を前提にしていてはなかなか話が進みません。こういうときは歴史の力を借りて就活を相対的に眺めてみましょう。

大雑把に言って、江戸時代以前の封建的な中世の社会では、原則的に職業は世襲でした。職業選択の自由がない反面、親の跡を継げば仕事はありました。そこでは大多数の人が農民で、職人や商人、武士が少数いました。明治以降の近代社会では工場や事務所などで働く賃金労働者が増加しました。この傾向は現在でも続いていると言えそうです。

そうした賃金労働者がどのようにして集められたのかと言えば、中学や高校を通して新卒者が企業に紹介されることが多かったと推測されます。私の世代(1980年代前半生まれ)でも、高校に来ている求人から選んで応募するという光景は思い浮かべることができます。大学でも、特に実験系の研究室では、学校推薦で就職するという形が残っています。

そのような状況から現在の就活へと移行するのにはインターネットが大きな役割を果たしました。それまでは高校や大学によって応募できる企業が限定されていたのですが、就活サイトを通すとたくさんの企業に応募できるようになりました。そうは言っても大学生が企業のことを詳しく知っていることは少ないでしょうから、有名さやイメージで応募する企業を決めるということになりがちです。毎年人気企業ランキングが発表されますが、そこに登場する顔ぶれは大体同じです。このようにして前半で指摘した雇用のミスマッチが起こったと考えられます。

就活に関係したもう一つの最近の変化はグローバル化にともなう雇用環境の変化です。その筋には有名な、日経連が1995年に出した「新時代の『日本的経営』」を参考にすると、企業が正社員として雇用するのはごく一握りの管理職だけにして(「長期蓄積能力活用型グループ」)、残りは非正規雇用にする(「高度専門能力活用型グループ」と「雇用柔軟型グループ」)という方針がはっきりと見て取れます。非正規雇用の人たちはずっと雇うわけではないのですから、日本人に限定せずその都度人件費の安い人を採用すればよいということです。この路線で考えると正社員の新卒一括採用を前提とした就活は前時代の遺物に過ぎません。

このような変化の末路を幾分誇張するなら、一方には正社員で待遇が保障されているけれども過労死するほど働かされる人がいて、もう一方には仕事がなかなか見つからず見つかっても待遇の悪い非正規雇用だという人がいることになります。過労死か失業か——というどちらを選んでも悲惨な状況です。

思い起こせば日本でバブルが崩壊した1990年代以降は、多少の浮き沈みはあってもずっと就職の難しい状態が続いてきました。バブルの頃は企業が応募者の交通費を負担するのは当たり前で海外旅行などの接待までして採用しようとしていたと聞くのに、現在では応募者が涙ぐましいまでの努力をしてもなかなか採用されない有様です。いくら学力低下だと言われていても、たったの10年や20年でそこまで若者の学力が落ちることはさすがにないでしょう。コミュニケーション能力にしても、最近の若者はソーシャルメディアなどで熱心にコミュニケーションを図っているのですから、昔と比べて大幅にコミュニケーション能力が落ちたとも思えません。そもそもこの「コミュニケーション能力」という言葉は何を指しているのか曖昧ですけれどね。

現状を嘆いてばかりいても始まらないので、そろそろ就活の「くだらなさ」を超えた先を考えましょう。一つには前半にも話が出ていた創職(ノマド)路線です。良くも悪くもグローバル化は進行しているのですから、日本で仕事がなければ海外で仕事を見つけるか創るかすればよいのです。これまで日本国内で培われた知識や技術を必要としているところはきっとあるでしょう。物価にしても日本と比べて大幅に安い国がたくさんあるので、日本国内でいくらか資金を貯めていけば十分に事業を始めることができるでしょう。

そうは言っても草食(まったり)路線の人たちは海外に出ることを選ばないでしょう。日本で生まれ育ったという事実は消せないのですから、その経緯を無視して海外に行けと強制するのは乱暴です。こうした人たちの最後の希望の綱は生活保護です。仕事がなければ生活保護を受給すればよいのです。生活保護と言うと抵抗があるなら、今時風にベーシックインカムと言ってもよいでしょう。

海外で創職するか日本で生活保護を受給するかというだけでは両極端なので、もう少し中間的なあり方を考えましょう。生活保護の前には失業給付などがあります。しかし日本の生活保護以外の福祉的制度はかなり貧弱ではあります。非正規雇用であれ働いているのなら、労働組合に入って待遇をよくすることも可能です。よくよく調べてみれば非正規雇用でも有給休暇は当然に発生しますし、期限の定めのない雇用なら簡単に解雇することはできません。そして何より2人以上が集まれば労働組合を作ることができ、労働組合が団体交渉を申し入れると使用者が断ることはできず、使用者が無茶な応対をするなら、労働組合は刑事上も民事上も免責される団体行動に打って出ることができます。ただし労働組合と一口に言っても内実は様々で、特に非正規雇用であれば企業内組合よりも地域のユニオンに相談したほうが親身に対応してもらえる可能性が高いと思われます。

もっと別の道を探るなら、自分たちで共同体を作ることも可能かもしれません。何も企業に雇用されて賃金を得るだけが生きる道ではないのですから。衣食住さえ確保すればどうにかなるかもしれません。日本の地方部では過疎化が深刻だと聞きます。住むところを見つけて、農作物を作りながら、必要に応じてお互いに助け合ったり物々交換をすれば立派な共同体になります。しかしそうした生活を捨てて都会に出てきた人たちが過去にたくさんいたわけで、ましてや今の時代にそうした生活が本当に可能なのかという疑問は残ります。そこまで厳密に考えずにできるところから始めれば案外できるものなのかもしれませんが。

このように就活の「くだらなさ」を超えて大きな展望を描こうとすると政治の領域に踏み込まないわけにはいきません。雇用環境や福祉などの社会制度を決めるのは政治ですし、地方と都市の問題にも政治が大きく関わっています。決められた枠の中でいかに立ち回るかを考えるだけでなく、その枠そのものを疑うことがあってもよいと思います。

教育という観点を導入しても面白いでしょう。現在ですと、高校や大学でフリーターはいかに損かということが教えられ、就活サイトや企業の合同説明会に参加することが勧められます。しかし今回の議論を踏まえるなら、創職(ノマド)の基本的な技術が教えられてもよいはずですし、生活保護の受給の仕方や労働組合の使い方が教えられてもよいはずです。共同性を育むということも重要な課題です。

ということで少し強引ですが、教育について考える場として、3月10日(土)の13:00〜15:30に山の学校で行われる次回の第3回アカデメイア・カフェ「今、教育を考える」をよろしくお願いいたします。Ustream中継は行いませんので、ご都合が許されましたらぜひ直接足をお運びください。

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