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「教養」ってなんだろう。

【956】 ばく 2012/12/15(土) 17:08:18 削除

いま、京大では「国際高等教育院」構想が問題になっていますが(ブログに経緯を書きましたhttp://d.hatena.ne.jp/kyotoacademeia/20121208)、この問題はみんなで「教養とは何か」「われわれはどのような教養教育を望んでいるのか」ということを議論するいい機会だと思います。そこで、みんなでそれぞれに「教養」の定義を書いてもらえませんか。いろんな定義のしかたがあっていいと思います。

ちなみに僕なりの「教養」の定義は、
「実用的には役に断たないけれども、世界や物事の見方を広げ、われわれの人生を豊かにしてくれる学問」
です。

いわゆる「無用の用」という定義の仕方に近いかもしれません。あるいは趣味・道楽的な要素が強いかもしれません。それは人文系の良くないところかもしれませんが、自分にとって一番しっくり来るのは、この定義かなと思います。
皆さんなりの「教養」の定義を教えてください。

【957】 ばく 2012/12/15(土) 21:10:42 削除

補足です。
一番下に「パスワード」という欄があるのですが、これは書き込み削除用に使うものだそうです。なので、皆さん自分の好きなパスワードを決めて打ち込んでもらえれば何でもいいです。(そのパスワードを使って後から削除が可能です。)分かりにくくてすいませんが、よろしくお願いします。

【958】 酒井 敏 2012/12/16(日) 16:24:57 削除

私にとって、教養はスティーブ・ジョブスの言葉そのもの。

未来に先回りして“点と点を繋げる”ことはできない。
できるのは、過去を振り返って繋げることだけなんです。
だからこそバラバラの点であっても、
将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと
信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、
とにかく信じること。
点が繋がって道となることを信じることで、
心に確信を持てるのです。
結果、人と違う道を行くことになっても、
信じることで全てのことは、間違いなく変わるのです。

今、この言葉を信じて、アメリカでは多くの若者が先の見えない時代と戦っています。
予測できない時代には、信じるしかない。

そして、あまりに有名だけど、

Stay hungry, Stay foolish.

こんな短い、たった3つの単語で、
こんなに多くの人の心を奮い立たせた言葉もないだろう。

【959】 内藤 陽子 2012/12/17(月) 00:53:05 削除

まだまとまっていませんが、今考えていることをつらつら書いてみます。

私にとっての「教養」とは何だろう。
自分の世界を広げてくれるもの。
それは楽しみでもあるけど、生き抜くための助けにもなるもの。
知識、ものの見方、考え方、習慣、などいろいろ。
仕草とか所作のように、体に染みついたものも含まれるかも。

思い浮かべたのは「マスター・キートン」。
彼が出くわす困難は非日常的かもしれないけど、私たちの日常でも、
意外なものが意外なところで意味を持ってくることはよくある話。

出くわす困難は物理的なものだけじゃない。
退屈に打ち勝つ方法、とか、怒りを鎮める方法、とか。
いろいろな場面で、「見方を変える」ことが自分を救うことがある。

そういう、自分が生きていくうえで自分を助けてくれるもの。
火事にも洪水にも泥棒にも奪われることのない、目に見えない財産。

「教養」ってそういうものなのかもしれない、と思います。

【960】 削除されました 2012/12/17(月) 07:31:04 削除

この内容は削除されました

【962】 削除されました 2012/12/17(月) 07:37:01 削除

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【961】 削除されました 2012/12/17(月) 07:37:01 削除

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【963】 おおくぼ よしお 2012/12/17(月) 07:37:25 削除

教養は、ある種の植物が虫を捕らえることに似ている。

ウツボカズラやハエトリソウなど、虫を捕まえて食べる食虫植物の仲間は、以外にも虫を食べなくても生きていけるそうです。にもかかわらず、かれらは、その効果に対してアンバランスとも思えるほどの周到な準備とエネルギーを仕掛けのために費やしています。

このことと教養とは少し共通している部分があるように思います。教養については、ヨーロッパではリベラル・アーツ(自由のための技藝)の伝統がありますが、その意味は文学から論理の構成方法、算術から天文、音楽にわたる普遍的な学知を身につけることで人間として自由な存在になることを目ざすということでしょう。

たしかに、日々の研究や学びはごく局所的で些細なことでしかないのかもしれない。しかし、そのためには非常に広範でかつ深い教養を身につけていなければならない。あるいは翻って考えるなら、わたしたちは日々の地道な学的な営みを通じてはじめて、普遍的な真理や知識とつながることができるのではないでしょうか。

「備え」としての学び、これが私にとっての教養の定義です。


【964】 酒井 敏 2012/12/17(月) 10:00:51 削除

教養を語ると「無用の用」、「なくてもいいけど、なければならないもの」とか「普遍的に価値のあるもの」とか、なぞなぞっぽい話になってしまいます。これは、「教養」がある程度わかった人には「そうだよね」と伝わりますが、これから「教養」を得ようとする人には、全くわかりません。

問題は、具体的にどうしたらよいのか、さっぱりわからないところです。「たとえば、こんなもの」と言われてみても、それが「ほんとに、役に立つの?」と思ってしまうし、それに対してはっきりとした答えを返すこともできない。

ジョブズは「将来、それが役に立つのか?また、自分の人生において、それが、どういう意味があるのか?」などということは、考えなくてもよい。ということを言っています。

それは、あとになってわかることであって、あらかじめわかるものではない。だから、最初にそれを考えて迷うのはナンセンスだということです。

じゃ、どうすればよいのか。「自分の内なる心の声を聴け」
自分自身に何が必要なのか、それは、なぜか君自身がすでに知っているのだ。

純粋に心から魅せられたものに、全精力を注ぎなさい。それでよいのだ。自分の心を信じなさい。道はあとからついてくる。

これが、大学を中退し、自ら設立した会社を追放され、最後はガンで命を奪われようとしている男からのメッセージです。

そして、自分の内なる声に従うこと、これは、すべての「教養」の定義を包含するのではないかと思います。

【965】 浅野直樹 2012/12/17(月) 13:47:21 削除

教養の直接的な定義にはなりませんが、「深く狭く」と「浅く広く」というよくある対立軸では後者の「浅く広く」に当てはまると思います。

今のような状況では、学問の世界で評価されようとすると「深く狭く」のほうが有利でしょうが、その他の場面では「浅く広く」が役立つことも多いです。例えば生活上の相談に乗るという場面でも、「浅く広く」教養を身に着けていると真に迫ることができることがあります。厳しい雇用環境のせいで精神を病んでいるなら医学的、心理学的アプローチに加えて、社会的アプローチも必要になります。

本来は学問をする上でも教養が生きると思うのですが、短期的、数量的な評価にはなじまないとも思います。

話は変わりますが、総合人間学部出身でおもしろい人は多いですね。玉置沙由里さんとか、phaさんとか。

教養が何かとはっきりは定義できませんが、少なくとも総合人間学部に集まってくる学生はおもしろいという実感はあります。

【966】 ばく 2012/12/17(月) 14:32:20 削除

皆さん、書き込みありがとうございます。
「人生の視野を広げて豊かにしてくれるもの」「(自分が大事だと感じたものを)信じること」「自分の内なる声に従うこと」「楽しみでもあるけど、生き抜くための助けにもなるもの」「「備え」としての学び」など、いろんな定義が出てきました。

酒井先生がおっしゃるように、「無用の用」「なくてもいいけど、なければならないもの」といった抽象的な理念を唱えているだけではダメだと僕も思います。一番良いのは、教養の面白さ・良さ・楽しさを知っている者がそれを実践してみせることではないでしょうか。

「ほら、こんな風に考えたら世界が豊かに見えるでしょ?」とか「世界にはこんな面白いことがあるんだよ」とか「こんな風に豊かに人生を生きた人がいたんだよ」とか「こんな風に学問や知識が役立つこともあるんだよ」とか、実際にやってみせてあげれば、通じる人にはしっかりと通じるものです。

大学での「学び」とは、教科書に書いてることを先生が生徒にそのまま教えるというものではなく、上に挙げたような「学問の実践」を伴いつつ、教える側と教わる側がともにビンビンと知的興奮を味わうようなものであって欲しいと思います。大学に限らないかもしれませんが、それが僕にとっての「教養教育」のイメージです。

【967】 内海君 2012/12/18(火) 00:30:00 削除

全人教育のこと。
学問地図がここに載せられないので残念だが、
全学問は言語学→哲学の配下にある。
芸術は哲学の外にある感情と哲学以下の学問が融合したものであり、全人は芸術家であり科学者である。
学問の垣根をこえ、あらゆる学問や芸術に精通して体得している人間を作るのが本来の大学の目標であるが、あまりにもレベルが高いので京大でもできない。
ちなみに、今回松本紘が主張している「うん国際高等教育院」は知性がない。「国際」という造語は日本だけであり、
和文英語である。意味不明な用語で作られたコンセプトの
文字からは何も生まれない。不毛だけである。
Internationalに英語がしゃべれる人ぐらいしか考えていない松本紘は、しょせん電気工学の専門バカであり、全人でない。そういう男から全人教育をすることは不可能である。
松本は鴨川ヌートリアのエサにしたほうがいい。

【968】 削除されました 2012/12/18(火) 19:05:59 削除

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【969】 むらた 2012/12/18(火) 19:08:17 削除

残念ながらヌーたちは草食ですねー。>内海君さん
今調べたらば、貝を食うという話もあるようでありますが。


さて盛り上がっているようなのでわたしもお邪魔してみます。
教養というてもいろいろあるので、いろいろについて書きます。
このスレッドの立てられた直接のきっかけは、今回の京大総人どうなっちゃうの騒動のようですが、とりあえずそれとは関係なく書かせてもらいますね。


まず教養ということばのいめーじですが、大学に入ったころはこのことば苦手でした。
私は「教養がない」というのがコンプレクスでして、教養教養といわれるとどうも、たいして読みもしない文学全集を部屋に揃えた金持ちに「君は本当に教養がないね(ふっ)」と笑われるとか、ひげのえらそうなおっさん教授が「最近の若者は教養がなくて嘆かわ云々」とかいうてるイメージしかなく、「教養」という語を見るたびイヤーな気分になっておりました。
今ならば、そんな人らがいたとして、知は人を見下す道具とちゃうやろ、ボケが、とおもえるのですが。
だが己のなかにもそうしたアクセサリとして教養を欲する気持ちがないでもなく、複雑です。


次に大学で「教養科目」と呼ばれていた科目について。
わたしのときは1、2回生は主にパンキョー(一般教養科目)と呼ばれる授業を履修することになっており、これは専門に比べ退屈で無意義なものとされていましたが(そういう人は「楽勝科目」と呼ばれるやつを選んでとってた)、わたしはむしろパンキョーが楽しみで大学に入ったよーなものだったので、楽しい時間でした。文系でしたが、きのこを採取する授業とか、カエルの授業とか、そういうものをたくさん取っていました。これはわたしの専攻が文学だったということもあるのかもしれません。文学に関係ないものというのはないので、わりと「パンキョー」と「専門」の興味が直結していたのでした。
あと、いろいろ広く浅くべんきょうすることがけっきょく深みにつながることもあり、これは、むだに受験科目の多い京大の入試で知ったことでもありました(「この教科やってたらこの教科も解った!」「数学と同じ考え方が古文で使える!」みたいなやつ)


さいごに、じぶんにとっての教養というかのぞましい教養のありかた、みたいのんですが、いろいろな考え方に触れること、とかいうとあまりに月並みではあるのですが、わたしは元来、憂鬱や暴力性・攻撃-被虐性などの暗い各種情緒・衝動が強く、それに呑み込まれがちな性質であるので、なんかわからんままにもよもよ漂っていたそれらを、整理し論理化するための防具として、色んな領野からの見方や議論や色んな人が書いたものに触れることというのは、けっこう切実に必要やったのでした。
たとえばですが、「今のこのおれの憂鬱は自分のものだけでなくこういった普遍的問題や社会的問題と関わっており歴史的にもあれやこれや議論されてきたのかー!」とかそういうことに目を開いてくれるもの、というか。いうたら防衛のツールなのですが。


こういう切実さをもっている人は他にもいるとおもうので、それらはべつに大学でなければ学べないというわけでもないのですが、私は主に大学時代にそれらに触れたので、せっかく大学というもんがあるからにはそういうもの(=教養←もうちょっとええことばがあったらいいんですが)に触れられる場所としてあってくれるといいのではないかな、とおもいます。


長くなってしまつたうえに上で皆さん言うてはることとほぼかぶってしまいました。

【970】 内海君 2012/12/18(火) 22:26:18 削除

彼はSPSを宇治でウジウジ作っていればよかったのに
iPSに予算をとられてしまった。
それで、ウジウジ「うん国際高等教育院」を、妄想している。
「教養なき強要」それが松本紘のしていることである。

【971】 酒井 敏 2012/12/19(水) 11:59:45 削除

私は、他の人が言っている「教養」の定義が、私より「抽象的」だとは思いません。むしろ、具体的すぎて、あまり的確な表現になっていないと思います。

教養は特定の知識の集合を指すものではなく、むしろ、個別の知識同士をつなぐ力みたいなものだと思います。つなぐ相手が何であるかは、あまり意味がない。この力は、個別の知識を身につける際にも重要で、その知識がその奥に、どれだけの広がりをもつものか、直感的に感じる力になります。この奥深さを感じることができることが「面白い」のです。

教養とは何か、という言い方をすると、結局「過去に見つけた一例」になってしまって、本来の広がりを失ってしまいます。

また、「浅く広く」というのも違うと思います。単に博識というのは、私は教養があるとは思いません。教養は、様々な知識の、ある程度深いところで共通点を見出しているということで、一見つまみ食いのように見えても、ある側面で本質的な所を鋭く捉えているものだと思います。

【972】 削除されました 2012/12/20(木) 02:39:42 削除

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【973】 削除されました 2012/12/20(木) 02:43:54 削除

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【974】 アリス 2012/12/20(木) 03:36:10 削除

「教養」という言葉はかなり中身のない言葉だと思います。そして一般教養教育とは、教養を教えるものではないと思います。具体的になにかあるべき教養なるものを考えて、それを教えるのが一般教養教育ではないということです。
中身がないとはどういうことか。第一に、ここでは何らかの教育制度について議論されているはずです。そこで、教養教育なるものが実現されるためには、制度的にどのような制約が生まれるか、ある教育機関で「教養教育を行え」と言われた時、その教育機関は具体的にどの程度現行の教育の実施の仕方を変更する必要があるかを考えます。多分、ほとんど変わらないと思います。そのかわり、現行の教育のこれこれこういう部分が教養教育なのだというような、教養なる言葉の都合のいい解釈が返ってくるはずです。これは、「教養」という言葉に対する具体的な共通見解の幅がかなり広く取られていること、むしろ、「教養」が自分の主張に効果的に装飾を施すための言葉であることを示していないでしょうか。
第二に、ある人が「これが教養である」と主張したとして、それが恣意的な決めつけでないためには反論可能でなければならないはずです。反論可能とは、正当な論拠を示した場合にはその主張が覆されうるということです。「からすは黒い」は、からすをたくさん調べて黒であればあるほど強度を増すし、黒でないからすを見つければ反駁される、というように反論の手段がすぐに思いつきます。では「~が教養である」という主張に対してどのような反論方法があるか。その人が深くそう思っているのならそれ以上のことはあまり言えない気もするし、適当に言っているからといって「もっと深く考えなければだめだ」と要求するのも的外れだと思います。そもそも、教養とは何かについて意見を戦わせ、共通認識に至ることがそこまで意味のあることでしょうか。
第三に、教養という言葉の多義性というか、文脈依存性が激しすぎるように思います。教養がある、教養がない、と言われて、それは何があって何がないことなのかを具体的に、もしくは別の言葉ですぐに語れるでしょうか。その「教養がある」の前後の文脈をくんで、ここでいう教養とはこういうものなのだ、というように解釈するところから始めないと話がつながらないと思います。ここでも、ある・なしのほかに、教養を目的語に取る動詞が触れるとか生(活)きるとか欲するとかありますが、あったりなかったりする教養、触れる教養、生きる教養、欲する教養…が、同じものを指している、そうでなくても何かある程度共通するものがあると思えるでしょうか。
「教養教育」という言葉から、教養を教える、その教養の何たるかを明確にすることによって教養教育をどう実施するかが決まる、その実施に問題があるのは何を教えるかが明確になっていないからである…というように類推するのが、おそらくはこの議論の共通の前提にあると思うのですが、この前提自体「教養教育」という言葉に振り回されているように思えてなりません。たとえば、そもそも教養とは教えるものなのか、教養を教育するということは成立するのか、と問うこともできてしまうと思います。ならば「一般教養教育」という言葉自体、かなり空疎なものではないでしょうか。その空疎な言葉のもとに、実際には何が行われているのか、というところが興味のあるところだと思います。

【975】 テレス 2012/12/20(木) 04:04:15 削除

掲示板の流れにあまり協力的でないことを書いたので、今度は協力的なことを書こうと思います。
教養について、学問のさまざまな分野の知識を結びつけるとか、「全人教育」とか言われています。ここでもし究極の教養人がいるとしたら、それは現在存在するすべての学問に通暁し、それを本質的に関連付けているもの、ということになるでしょう。そこで、「全宇宙の働きを計算したラプラスのデモン、高速粒子と低速粒子を選り分けて熱力学第二法則に反抗したマクスウェルのデモンの想像にある意味があるとすれば、私の脳をいわば自由に仕立てるデモン」に「欺く神」にちなんで「デカルトのデモン」と名付けた大森の顰に倣って、すべての学問をどこまでも専門的に細大漏らさず把握し、さらにそれらを有機的に関連付けて学問全体(近似的には京都大学で行われている研究の全体)の本質的体系を作り上げる存在を、「万学の祖」にちなんで「アリストテレスのデモン」と名付けることにします。
アリストテレスのデモンとは、普遍的な学知を知り、全ての世界のあらゆる物事の見方を知り、芸術家であり科学者であり文学者であり言語学者であり・・・するところの究極の哲人であります。学問がどこまでも多様化した現在、これは人間では不可能でしょうがそのような境地は想定される。このアリストテレスのデモンに近づこうとするタイプの教養観が、ばくさんの世界や物事の見方を広げ、われわれの人生を豊かにしてくれる学問や、極限的な無用の用、「深く広く」(本質をともなった「広く浅く」)、おおくぼさんの普遍的な真理や知識、内海君のいう全人と言ったものになると思います。
アリストテレスのデモンはすべての人に共通するのかもしれないし、個人個人の中で目指されるべき究極の存在、理念、として描かれるのかもしれません。
それに対して、このアリストテレスのデモンの境地を否定するのが、酒井さんの「自分の内なる心の声を聴け」ではないでしょうか。外に開いていくより、自らの内側を突き詰め深めていくものを教養と考える教養観です。知識の量や幅ではなく、その寮や幅が限られていてもその結びつける力や能力をを評価する、といったことも含まれると思います。
こういう整理の仕方はどうでしょうか。

【976】 棚田 2012/12/20(木) 15:21:53 削除

未だ教養人ならざる身として思うところを述べます。
何が教養か理解したうえで教養を身につける人はいない
と思います。自分が面白いと思うものを知ったり体験する
ことを繰り返すことで、「教養」なるものの輪郭が見える
ものだと私は考えています。そして、人の興味の移ろいは
予測不可能である以上、「教養」を体系的に教育すること
など不可能であり、我々が為すべきはただ、自由な学びの
空間を維持し続けることでしょう。

【977】 吉川 2012/12/21(金) 04:39:30 削除

棚田さんの意見には賛成です。

「教養の体系化」というのには違和感しか覚えません。教養はこういうもので、それは「身に着けて」それで完結してしまうものではないと思います。

さらには「教養人」という言葉も受け入れがたく、
これこれこういうものを持っている人が教養人、といったことはないと思っています。
それは知識や経験に対する意識の問題であって、少なくとも「自分は教養がある」と思っている人は僕の思う教養の姿勢とは相反する考えの持ち主であると考えています。

自身のブログにも書きましたが、
「教養」というとき、一般に歴史や哲学や政治などに関して、「物知り」で、その知識を引用してものを語れることが教養だといわれています。

それは貴族が和歌の技巧を競っていた時代、古典を「知っていること」が学があることの証明であったことを振り返れば、その時代から引き継がれてきた日本的教養の価値観でもあると思います。


しかし僕が総人で得たもの、総人の先生方から学んだ教養観はまるっきり違います。

教養は開かれているものであって、その知識で完結したら教養とはなり得ない。 例えば、得た知識から自分の関心を広げ、情報をキャッチするアンテナを張っていくこと。自分が知っていることに結び付けて何かが得られること。 開かれた知識をもつこと。知識を開けること。それを他に結びつけられること。
そういう姿勢、意識が教養につながると考えています。

こんなことをツイートする中で偶然見つけたのですが、
東京大学教授、斉藤希史先生は

「教養」と名詞にするから何か得るべき知識があると思われがちだが、教養=cultivationを動詞に開いて「cultivateすること」と捉えてみると、自らを耕していくイメージがしっくりくる

という文脈で次のようにツイートしておられました。

「そもそも教養とは「身につける」ものなのか。「教養」は、何か身につけるべき知識群があるように思わせてしまうが、むしろ、 これまでは知らなかったこと、 気にも留めていなかったことに目を向け、それを知り学ぶことで自分自身を耕して豊かにすること、それが教養ではないか。」


それを踏まえてブログでは、

教養は何かある知識をインストールすること、それで完成されるものではなく、いうならば自身をアップデートしつづけていくことに近い、

自らを開拓していくこと。
これは知識の得方にとどまらず、関心の広げ方にも通じていると僕は思う。

経験に関連することに興味が湧くのは、自然なことで。
逆に自分の経験したことがないものは理解が難しく、理解できないものには興味が湧きにくい(もちろんわからないことが興味をそそるきっかけになることもあるが)例えば数学。
難しい証明のように、字面の上では一応論理を追えても、それはハッという実感には程遠いが、自分が経験した(学習した)問題や考え方と関連付けられると、すっと頭に入ってきたりする。

専門家がその手の知識を持たない一般の人に向かって、例え話を使って説明するのは、聞き手の経験に関連付けて理解させるというテクニックではないか。

アンテナを広げること、それはただ注意を向けることではなく、雑多な経験を通じて自分の中に網を広げていくことによって、情報を自然にキャッチすることだと考える。
関心のなかった授業もとってみることで、関心を広げ、視野を広げることができる。すると思わぬつながりや発見がある。
学外でも経験を積めば、その経験に関連したことに関心が芽生え、新たに関心を広げていくことができる。

などと書きました。

そうして自分の関心を広げていき、情報をキャッチするアンテナが広げていき、そうして得た知識を生きたものとして他につなげられるようにしていく。

それが教養の姿勢だと僕は思います。

【978】 小木曽 哲 2012/12/22(土) 20:57:06 削除

総人地学の小木曽です。私の考える教養とは
「己の身の回りにある人間や社会や自然や宇宙に対する深い理解と洞察力」
かなあ、と思います。というか、理解し洞察しようとする心構え、の方が近いかもしれません。
そういう意味で、京大における教養の無い人の筆頭は松本総長だと思います。
でも総長は、教養の無い人が教養教育に口をだすといかに悲惨なことになるか、ということを示すことで、逆に教養の大切さを教えてくれているので、いつか総長に感謝状を贈りましょう。

【979】 内海君 2012/12/23(日) 08:07:02 削除

「国際」と「高等教育」って文字の意味が伝わってこない。
「国際的な高等教育」なのか?
その「国際」って何よ?
英語が話せること?
外国人と渡り合えるってこと?
英語なくても科学も学問もやれるのは日本が明治から欧米の論文や科学技術を日本語に翻訳して自分のものにしてこれたからで、その結果、英語に頼らなくても、あるいはすぐ自国語に直して使えるから逆に英語に疎遠になった経緯はあると思う。
それが悪いか?だったら、松本は日本語を廃して英語を国語にしろというところまで欧米奴隷思考だということだろうか?

【980】 ばく 2012/12/23(日) 20:29:52 削除

みなさん、たくさんの書き込みありがとうございます。

アリスさんの「体的になにかあるべき教養なるものを考えて、それを教えるのが一般教養教育ではない」という指摘や、棚田くんの「何が教養か理解したうえで教養を身につける人はいない」という言葉には、考えさせられるところがあります。

ある先生は「教養とはもともと定義不可能なものだ。その定義をあえて空白にしておき、いろんな人がその空白にそれぞれの人なりの教養観を当てはめられるようにしておくほうが良いのではないか」といった趣旨のことを仰っていて、なるほどと思ったことがあります。

「教養とは○○である」とは敢えて名指さずに、その○○にいろんな定義を当てはめられるような多様性を確保しておくのが良いのではないか。しかしその一方で、松本総長のようにその○○の部分に「グローバル人材の育成」という視野の狭い定義を当てはめられてこられると、それはさすがに違うのではないかな、と思ったりもします。

教養を明確に定義づけたうえで理念を主張するほうが良いのか、あるいは教養をあえて明確には定義づけずにその理念を漠然としておいたほうが上手くいくのか。なかなか難しいところだと思います。

個人的には、こうしていろんな人がそれぞれの専門の立場から「教養」について語っているのを聞くのが好きです。教養の定義の仕方は本当に百人百様で、それでいて何かしら皆の教養観に通底する何か大切なものが漠然と共有されているようにも思います。このように教養について語ること、いろんな人の教養観に通底する「何か」について考えてみることもまた、教養の一部なのではないでしょうか。

【981】 くろ 2012/12/24(月) 01:09:51 削除

人環は共生人間学専攻のM2です。

今回の構想が提起する諸論争では専門教育と教養教育の関係、また社会と大学の関係が論点となっていますが、教育課程全体における高等教育の位置づけも問題となっていると思います。つまり、高等教育課程では何が教授されているのか、あるいはされるべきなのか。そして目下問題となっている「教養教育」はそこでなされるもの(あるいはなされるべきもの)なのか。教養教育とは何か、そもそも教養とは何かという問いも含めて、これらの問いも論点を形成しているように思います。

自分なりに「教養」を定義するなら「ことに臨んで、それにもとづいて判断し行動するところの基盤」となります。ただしこの定義について理由を提示できるほど練れてはいないので、この定義にいたる経緯のみ提出します。
三、四年前、「在日朝鮮人は日本から出ていけ」と主張するデモ行進、およびこのデモに反対するデモ行進に街で遭遇し、「出ていけ」という発言の暴力性におびえ、ただ立ちすくんでいました。
しかし顧みるに、自分は「在日問題」と総称される数多の「問題」について知らなかったのではなく、したがって、無知であるがゆえに行動できなかったのではない。そうであるならば、自分が今まで学んできたことはなんだったのか、中学高校時代に持たれていた人権学習会で、あるいは歴史の授業で、あるいは大学に入ってから講義、それこそ全学共通科目の授業で、あるいは本を読んで、人に聞いて、講演会に参加して、学んだ全ての事柄、それはいったいなんだったのか、これらのことを知っているにもかかわらず、なぜ拱手傍観しているのか。
このような自分自身へたいする問いが先の定義となっています。

しかし、この定義を提出するにあたり告白しなければならないことは、恥ずかしながら、本構想への一連の抗議行動に参加するにあたり、自ら調べた結果いたった結論や就中自らの良心に基づいて対応しているとは到底言いがたく、総人・人環がなくなるのではないかという不安や自由な意見表明を保証する基盤が崩れていくことを目の当たりにしている恐怖にただ反応しているだけということでありましょう。

最後になりましたが経緯を説明するという必要上とはいえ、先の教養の定義にさいしまして苦痛を覚えられました方々に深くお詫び申し上げます。

【982】 アリス 2012/12/27(木) 07:14:54 削除

くろさんの、「先の教養の定義にさいしまして苦痛を覚えられました方々に深くお詫び申し上げます。」が印象的でした。例えば力を質量×加速度と定義するとき「苦痛を覚えられた方に深くお詫びします」というのは馬鹿馬鹿しいことです。何らかの考えを提示することも、それを批判することも、それとは違う考えの人や批判されている考えを述べているその人の人格を否定しているわけではなく、あくまで議論の内容を扱っているからです。ある考えの持ち主を深く尊敬した上で、それ故その考えを批判するのは議論のマナーだと思います。
ところが、教養を考えるときにはそうは行かない。教養が何であるかはその人の(大仰に言えば)人生と関わっており、下手に否定することはその人格の否定にもつながりかねないという危惧があるからだと思います。ここには、教養が何であるかについて話し合うことの難しさ、それが個々人の感想以上のものに発展することの難しさが現れていると思います。

【983】 テレス 2012/12/27(木) 07:57:22 削除

ばくさんの、「松本総長のようにその○○の部分に「グローバル人材の育成」という視野の狭い定義を当てはめられてこられると、それはさすがに違うのではないかな、と思ったりもします。」という意見には違和感を覚えました。
なぜ、総長の考える教養観は違うな、と思えるのか。それは「視野が狭い」からなのでしょうが、ではどのような定義が視野の広い教養観で、どのような定義が視野の狭い教養観なのか、教養とは○○である、という命題関数の○○には視野の広い何かを入れなくてはならないというのなら、そこには議論の手がかりがあると思います。それは感想で済むものではないはずです。
もう少し言えば、総長のグローバルな人材であるために必要なものが教養であるという定義、そのものに違和感を持っているわけではない。ただ、その総長の信念というか思い(込み)というか、そのような決して全員に同意がとれたわけでもなく、議論の場に提示されたわけでもないものを教養教育の方針という形で強制するのが、結果的に他の教養観を否定してひとりひとりの教養についての多様な考えを損なっている、そこに違和感を感じられるのだと思います。
しかし、兎にも角にも教養教育の場では何かを実践しなくてはいけないわけです。ところがそこで教えられるべき教養の何たるかは各人に委ねられており、それを強制することはできない。とすれば、各人の考えに基づいて教育を行い、各人の考えに基づいて教育を受けるのが教養教育となる、それ以上に何かを言えるでしょうか。
もしそうだというのであれば、それこそが教養教育のあるべき姿だ、と積極的に主張を展開できるはずだし、総長の言うとおりではないにしても何らかの制約があると考えるならやはり、単に多様性の尊重と突き放すのではない、もう少し制約のある教養観を突き詰めていく(例えば「視野が広い」とはどういうことか)ことが、教育の実践には必要だと思います。それができないのであれば、やはり、「教養教育」が何か意味のある言葉なのか、疑わざるをえないと私は考えます。

でももう少し嫌らしいことを言えば、この掲示板は総長の改革(改悪)に反対すべく、意見を出しあっているわけです。この場は総長の考えに反対することが前提となっており、それを確認するために教養の何たるかは個人個人で違っていいけれど、総長の考えはダメですよね、と念を押されたのだと思います。
もしこの場を総長の偏見を論う以上の場にするのであれば、では総長の教養観を裏打ちしているものは何か、その根拠にはどの程度賛成できるのか(総長の教養観も含めたいろいろな人の教養観に通底する「何か」)、考えて行かなければならないように思われます。

【984】 中川 2012/12/27(木) 09:32:55 削除

人環D2の中川です。

まずは、ばくさん、このような場を設けて頂いてありがとうございます。(現在京都に居ない身としてはとりわけ有り難いです。)

次に、先の多くの方々のご意見、それぞれなるほどと思いながら読ませて頂きましたが、「教養は体系化できない」「そのため、教養教育でできることは、自由な学びの場の確保だけである」とする主張にはとりわけ共感しました。違っていたら申し訳ないですが、先の主張を私は以下のように解釈して賛成します。
教育内容や教育目標、お手本となる人物、社会に求められている人物像が先にありきで、その鋳型に人間を当てはめていくのではなく、個人個人の経験やそれによって培われてきた考えや知的好奇心が先にありきで、それに合わせて、その人なりの教養が出来上がっていくということかと。それはその通りだと思います。

次に、みなさまのこれまでの議論の流れとどのように噛み合うかは整理できていないので申し訳ないのですが、以下に教養についての私見を述べさせて頂きます。みなさまのブレインストーミングのお役に立てれば幸いです。

教養とは
・飽くまで現実あるいは世界は総合的・多層的なものであるという認識のもと、そうした世界への個人的な愛情あるいは関わり―これもまた世界の多層性と自己の多層性故に無限の個々の形をもつだろうが―を、それぞれにそのつど知へと昇華すること そうして少しでも多くの視点を得ること
・自らの専門以外を他者に丸投げすることなく、できる限り全体像を見つつその事柄に関わろうとする自立的な知

教養は何のために
もしも教養が―直接的にであれ間接的にであれ―(学問の目指すところである)創造に繋がるものであるべきならば、
他人によって求められ想定された、短期的視野による、現状にとって「有意義な」、今すぐ使える一定の知識にとどまっていてはならないのではないか
というのも、創造とは予測を越えたところにある有意義性であると言いうるからであり、予測可能な範囲内にとどまっていては現在与えられていることを繰り返すことはよくできても、新たな領野や問題や解答を生み出したりすることは決してできないだろうからである
そして予測不可能なものというのは、個々人の経験や個性、そしてそうした人と人との出会いの中にこそあるのではないか
すなわち創造に繋がる教養は、偶然を含んだあるいは偶然としての教育の中でこそ育まれるものであり、そうした余地が土壌となるのである

教養という知の可能性
教養が総合的な知であるとするなら、一人の人間がいくら様々な分野に手を出したところで限界がある
それ故、一つの専門分野と自分なりの教養を両方兼ね備えた人々が集まり議論することによってのみ初めて、教養の一つの理想的な形が顕現するのではないか
すなわち教養は、一人一人の人間のものでもあるが、それと同時に個人を越えて人と人、分野と分野を繋げることによって初めて実現するような、「他者」に開かれた協同的な知としてもありうるのではないか


最後になりましたが、国際高等教育院の設置が決まってしまったことは誠に残念ですが、総人・人環がすぐさま廃止されるというわけではないため、総人・人環を守り立てるためにできることはまだまだあると私は考えています。こうした議論の場もその重要な役割を担っていると思います。冗長で申し訳ないですが、以上です。

【985】 安置 2013/01/05(土) 17:35:35 削除

教養を「専門外の事柄に対する、ある程度体系だった理解と知識」だと、私は考えています。
こう定義すると、教養は確かに普通の人が生活する上では不必要ですが、ある種の人には必要なものです。
それは支配者階級の人間です。
教養がある人間は専門馬鹿にはならず、世界を鳥瞰しやすいので、人の上にたちやすいのです。
専門馬鹿は自分の身の回りのことしかわからないから、教養のある人間よりも支配者になりにくく、奴隷になりやすいのです。
教養教育は支配者育成に必要な教育だと考えると、今日本で一番教養教育の進んでいる大学は東大でしょう。
そして、慶応や学習院に幼稚園児代からいるような、富豪や名家であるという特別なバックグラウンドを持つ子供たちは、家庭で教養教育を受けているのです。
総長は教養教育と英語教育を通して、日本や世界の支配者階級にいる京大出身者を増やしたいのでしょう。
今の総長はワンマンすぎますが、その発想には賛成しています。
無駄に文科省のお金を使う東大が憎くないのですか?
その取り分を京大にまわしたくありませんか?

京大のみんなが好き勝手にしているところはすてきですし、
あんまり自由すぎていろんな分野のつまみ食いが許されています。
しかし、いろんな事柄への理解や知識があっても、それが必ずしも体系的なものになるとは言えません。
体系的でないと、ある程度完成された教養にはならず、中途半端な雑学にしかなりません。
正直、京大には雑学はあるけど教養のない人間が少なくないと思います。
「あの人、面白いよね(『挙動不審』の親切な言い換え)。それでキャラ立ってるよね(『集団から浮いてる』のマイルドな言い方)」としか言われない人間は特にそんな人です。
誠に遺憾ながら、総人人環の部外者十数名に聞いたところ、今の総人人環のイメージがそんな感じらしいです・・・
教養の城のはずなのになあ・・・

面白くてキャラ立ってる「だけ」の人、つまり挙動不審で集団内で浮いているだけで、特に取り柄がわかってもらえない人って、集団の中で何かのターゲットにされやすいですし、政治や世渡りがへたくそな人が多いと思います。
誠に遺憾ですが、京大内の学部・研究科で言うと総人人環はそんなキャラです。悲しいですが、「だから総長一派の標的になったんじゃないのかなあ」とは思います。
しかも「ひまそうじん」なんてあだ名をちょうだいする上に、教員主催で映画見たりとか、楽しいですけど他の研究科からしたら「なめとんのか」と思われても仕方ないですよね・・・



【986】 ばく 2013/01/07(月) 06:02:35 削除

>中川さん

遅いリプで申し訳ないのですが、非常に丁寧にこれまでの議論をまとめていただき、ありがたく感じております。「世界の多様性」「他者への開かれ」「知の総合性」などが教養を語るうえでのキーワードになるのかなと考えました。

そういった要素を備えた教育や研究を実践していくうえで、京都大学(とりわけ総人・人環)は日本のなかでも独自のポジションを確保し、目先の利害にとらわれないユニークな教育・研究を続けてきたはずなのに、「グローバル化」や「大学改革」の波に押されて、その貴重なポジションを手放そうとしているように思えてなりません。

この掲示板で多くの人が語ってくださったような「教養」を守るために、いまわれわれに何ができるのか。われわれはどのような「教養」を大学に望み、それに対して自分は何ができるのか。そのことを改めて考え、行動していく必要があるのではないかと感じています。

【987】 削除されました 2013/01/13(日) 13:45:24 削除

この内容は削除されました

【988】 むらた 2013/01/13(日) 13:54:21 削除

むらたです。
安置 さまの書き込みを読んで、おお(ここでは)異色のご意見、と思いましたので拙レスをばつけさせていただこうと書き込みます。
どうもこのトピックは、総長の国際~院への反対ありきというところがありますんで(といいますかそもそもそれを契機に立てられたもので)、どうしても意見がそちらに傾きがちなもので、違うご意見書きにくかったやもしれず貴重とおもいます。

が、わたしはどうしても支配階級というおことばにひっかかりまして、違うニーズもあるよおーということを言いたくなりまして。

(以下の話は、今回の京大の話とはあんまり関係ない話として書きたいのですが、一応じぶんの立場――というほどのものでもないが――をあきらかにしておきますと、総長のやり方は「なんか気にいらんのう」という感じで、だが明確な対抗論理はもっていないといういわば「心情アンチ」です。 一方で、人環についても、いろいろ問題はあるとおもっておりますが、安置さんが挙げられている点(浮いているところetc)についてではありません……が所謂あかぽすを目指す人などにとってはそこは重大な問題であろうとはおもいます。総人のことはよく知っていません。)

まず、教養教育=支配者育成に必要な教育、という安置さんのご意見が、どうもわたしにはしっくりこず、いやそうした一面もきっとあるのでしょうが、わたしの個人的なニーズはそこにあったことがなかったので、そうした者もいるのである…ということを記しておきたかったのでした。むしろ、どちらかというと、支配者でない階級にこそ必要なもの、みたいなイメージをもってきたので。

まず、これは受けてきた教育や家庭環境のせいが大きいのかもしれませんが、「支配者階級」なるものになろうという発想がじぶんにはなく、よっていちおう大学に入った際にも、そのための教育をうけたいという要求はなかったのでした。
とここまで書いて、そもそもじぶんが、どんな意味で「支配者階級」と書かれたのかちゃんと理解してないかも……という不安がでてきたので一応ことわっておきますと、たとえば、企業のトップとか国家を動かす立場とか、そこまで行かんでも人を管理したり動かしたりする人、というイメージで受け取ったんですが、それでいいんでしょうかね? もし安置さんがおっしゃってるイメージと違うイメージでしたら、以下の文章はレスとしてまったく無意味になってしまうので無視してください、すみません。。


とりあえず、そのイメージで話を続けるとすると、わたしは、ある機器の部品を検品したり組み立てたりするというしごとを工場でしていたことがあって、各ラインの作業者(自分含む)がしている作業は、ほんまに細かい作業、なんかネジみたいなやつに傷がついてないか調べるとか、なんかをなんかにカチっとはめこむとか、そんな感じで、そのひとつのことを延々やるのです。そして、じぶんが調べたりカチッとはめこんだりしてるやつが、最終的にどのように組み立てられてどのような形になるのか、知らないのです。というのは、全体的な設計図は、ラインの一番後方(コンベヤーが最終的に流れつくところ)にあるんですが、そこだけブースになっていて、各作業員はそこに入れない(入ったら怒られる)ので。なので、みんなが全体の中で何をやっているのか・最終的に何が作られるのか、を知っている人は、ブースの中にいる監督だけということになっています。
まさにカフカの「万里の長城」でしたのです。
たぶん、この監督が「支配者階級」に当たる人で、そうでない人(われわれ)が「普通の人」と喩えられるのかな、で、全体を知るべき監督=支配者には教養が必要ということなのだな、(というイメージで理解して安置さんの文章を拝読したんですが繰り返しますがちがったらすみません、) とおもったんですが、そこでわたしは、ネジを検品したりするほうに「教養」が要らんとは思わぬのです。


むしろ、そこで、ネジを検品したりする側が、「はっ、分断統治されているっ」「はっ、支配者は全体を知っているっ」ということに気づけない場合もあるわけで、それで、それに気づくためというか、じぶんが置かれたもやーとした状況を整理して知るためのツールが、「教養」 である、というのがわたしのなんとなーくイメージしてきたところの「教養」であったのでした。
気づいてどうするねん、気づいて気づくだけか、というぎろんもあり(たとえばそのとき、「分断統治されている!」と気づいてどうするのか、ですよね。その統治に抵抗するのか、より適応するのか、とか。で、わたしはそのときは、気づいただけでふつうにネジを検品し続けた……ので、外から見たら、気づいたことは何の役にも立ってないわけです。)、ここはじぶんにとってもずっといろいろ思うているところではあるのですがちょっと今は措いておきます。まずは、気づくため、とだけしておきます。
※たとえそれが「気づくだけ」であっても、けっして意味のないことではなく、また、長期的には意味のあることであるはずだ、とわたしはしんじてはいるのですが。
※なんか「気づき」とか流行り言葉でちょっとイヤですが…他に適当な語を思いつけなかったもので。

こうした類の「教養」が安置さんのおっしゃる「体系的」な知識かそうでないものなのかは分からず、ひょっとしたらレスの形を借りてなんかぜんぜん別の話をしてるのかも… と不安になってきましたが、逆にわたしには、「支配者」の側に必要な教養、というものがどのようなものなのかちょっとぴんと来ていないので、お教え願いたいところでもあり。

あと、おもろいけど世渡りが下手なキャラ、みたいなのへの苛立ちは少し解るなあと思います(「ああもうちょっとうまくやればいいのになあ、勿体ないなあ」みたいな)が、それは、「教養」とはまた別の話であってほしいなあ、とじぶんは願ってはいます。

長文&読み辛いすみません

【989】 すみす 2013/02/01(金) 18:36:44 削除


 『話者の持っていない知識』という定義で、相当な範囲での教養という言葉の用法はカバーできるように思えます。

 たいていの場合、ある人は教養がある、と考えるのはその人が自分の持っていない知識を持っていたときということになります。

 その知識は人によって、「語学力を持ったグローバルリーダーの素質」であったり、「研究者として重要な、色々な分野の物事を、一定の理解のしかたによって結びつける能力」だったりするわけです。

 この定義には私が思いつくだけでもいくつかの問題はあります。議論の作法として「相手の尊厳を傷つけてはならない」という姿勢(知らないことを知らないと指摘することが尊厳を傷つけるのかどうかはわかりませんが)がひとつ。
 あとはいわゆる教養教育の中には、特定分野の基礎となる知識や技術の習得を目指すものもあり、これは定義の中に入らないのではないかというのがあります。


 教養ということばをただ使うだけでは、ただなんとなくいいもののように思えるだけで、いったい何の話をしてるのか分からなくなります。
 話している人も具体的にはどういうものなのかわかっているわけではないので、ただの想像の話であることも多いようなきがして、なんだかよくわからない説明になっているんだと思います。
 また、教養という言葉だけが持つ意味合いは、おそらく『話者の持っていない知識』程度のくだらない、役に立たない意味合いでしかないというのが私の考えでもあります。より限定された具体的な意味付けが必要で、それはきっとたとえばリベラル・アーツのような別の名前が付けられるものです。

 国際高等教育院のような、社会が実際に求めているとされる「語学に堪能で辞令ひとつで地球の反対側まで赴任するグローバルリーダー」を育成するという考え方も、
教養がなぜいいものなのか考えたうえで、それを確立できるような制度を整えるという観点では、合理的で受け入れやすいように思えます。
 逆に現在のシステムやコアユニットが、必ずしもみなさんの主張するような人間像を描き出してるようにも思えません。


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