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マックス・ウェーバー著、 中山元訳
 『職業としての政治』

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書名:職業としての政治

著者:マックス・ウェーバー

訳者:中山元

出版社:日経BP社

出版年:2009


 

 ウェーバーの名講演「職業としての政治」。何回読んでも感動的です。

 最も有名で、僕が一番好きな箇所をまとめておきます。後半部、ウェーバーが政治家に必要な資質について語る箇所です。



 以下、まとめ。

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 ウェーバーは、政治家にとって重要な資質が三つあるという。それは(1)情熱と(2)責任感と(3)判断力である。



 まず(1)「情熱」とは、政治家が仕事にふさわしい情熱をもってその仕事に献身するという意味である。情熱といってもそれは「不毛な興奮」(ジンメル)のことではない。それがどれほど純粋な情熱であっても、たんなる情熱では十分ではない。



 (1)「情熱」が「仕事」に役立つものとして、仕事への(2)「責任」というかたちで、行動の決定的な指針となるのではなければならない。そしてそのためには(3)「判断力」が必要なのであって、これは政治家に決定的に必要な特性である。この判断力とは、集中力と冷静さをもって現実をそのまま受け入れることのできる能力、事物と人間から「距離」をおくことのできる能力のことである。



 「距離を失うこと」は、それだけでどの政治家にも致命的な欠陥になる。ここで重要なのは、熱い情熱と冷徹な判断力を、一人の人間の魂のうちでどのようなに共生させうるかということである。ウェーバーによれば、政治とは頭脳で行うものであって、身体やその他の器官や魂のなすべき行為ではない。



 また、政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる、瑣末で、あまりにも人間くさい「敵」と闘い続けねばならない。その敵とは「虚栄心」である。虚栄心は、すべての仕事への献身の、そしてすべての距離の不倶戴天の敵となる。

 もちろん虚栄心は、政治家だけでなく誰にでも見られる特性である。学者や教養のある人々の間では、虚栄心はある種の職業病のようなものになっている。ただし、学者の虚栄心は、どれほど鼻持ちならないものであっても、比較的無害なものであるといいうる。

 いっぽうで、政治家の場合にはそうはいかない。政治家は、いわば〈避けられない手段〉として権力を追い求める。その意味で「権力本能」とよく言われるが、この本能は政治家にとってごく当たり前の素質である。



 政治家という職業の〈聖なる精神〉にたいする罪が始まるのは、この権力の追求が仕事への献身とはかかわりなく、個人的な自己陶酔の対象となるときである。

 ウェーバーによれば、政治家という仕事には二種類の大罪がある。それは(a)仕事に献身しない姿勢と(b)無責任さであり、この二つは同一のものではないとしても、しばしば重なって現れてくるものである。虚栄心とは、自分ができるだけ脚光を浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの二つの大罪の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑される。



 民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮に入れなければならないだけに、この誘惑はきわめて強いものとなる。民衆政治家は(第一の大罪である)仕事に献身しない姿勢のために、ほんものの権力ではなく、権力の輝かしい〈見かけ〉だけを追い求めるようになりがちである。また、(第二の大罪である)無責任性のために、権力の内容となる目的を考えることなく、権力のための権力を享受するようになりがちである。



 政治的な行動が最終的にもたらす結果が、その最初の意図にまったくふさわしくものとなったり、正反対の結果をもたらしたりすることが多い(というより、ほとんど常にそうなる)という真理は、歴史の根本的な事実である。だからといって、仕事に役立つ行動をしようという最初の意図がなくてもいいというわけにはいかない。この意図こそが、行動のその内的な〈支え〉を与えてくれるものだからである。

 政治家が権力を求め、権力を行使するのはこの〈仕事〉のためであるが、その内容がどのようなものであるべきかは、政治家の「信念」が決める問題である。良き政治には、必ず「信念」が存在していなければならないのである。



 続いて、ウェーバーは「政治と倫理の関係」に話題を移す。

 福音書の教える無差別な愛の倫理は「悪しき者に暴力で抵抗するな」と説くが、政治家に求められるのはそれと反対のことである、とウェーバーはいう。「汝は悪に向かっては暴力によって抵抗せよ、さもなくば悪が蔓延したことの責任を負わねばならぬ」。これが政治家にとっての倫理である。

 ウェーバーによれば、倫理的な行動には(1)「信条倫理的な」行動と、(2)「責任倫理的な」行動の二種類がある。このうち、政治が取るべきは(1)よりも(2)の行動倫理である。

 「この世のいかなる倫理であっても、多くの場合において「善き」目的を実現するには、倫理的にいかがわしい手段や、少なくとも倫理的に危険な手段を利用せざるをえないということ、こうした手段のために悪しき副産物が生まれる可能性があること、こうした副産物が生まれる可能性が高いこと」を、政治家は考慮に入れて行動せねばならない。そのような勇気と行動力を持ちうる政治家のみが、真に「職業としての政治」に値する政治家なのである。



 ウェーバーの締めくくりの言葉を聞こう。

 「現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほど愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでも私はやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命(ベルーフ)」〔天職〕をそなえているのです」

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 現代のすべての政治家に噛みしめてほしい言葉です。

(評者:百木 漠)

更新:2012/05/28