書名:暴走する資本主義
著者:ロバートライシュ
訳者:雨宮寛、今井章子
出版社:東洋経済新報社
出版年:2008

この著作における筆者の問いは、序章に出てくる次の言葉に集約されている。

「なぜ資本主義はこれほどまでに成功を収め、民主主義はこれほどまでに弱まってしまったのだろうか?」(6頁)

 邦訳タイトル「暴走する資本主義」の原語はSupercapitalism、つまり「超資本主義」のことだ。

 過去数十年間の間、資本主義の力は極めて強力になった。このことは間違いなく、消費者や投資家としての私たちに豊かさをもたらした。しかしその一方で、強力になった資本主義=超資本主義Supercapitalismは、労働者や市民としての私たちを不安に陥れている、というのが筆者の主張だ。

 つまりこの数十年の間に、民主主義democracyは「暴走する資本主義」を抑え込む力を失ってしまったということだ。

 その証拠として筆者が挙げているのは、経済格差の拡大、雇用不安の増大、地域コミュニティの崩壊、環境問題、海外における人権侵害、人々の弱みに付け込もうとするさまざまな商品やサービスの氾濫などだ。筆者は、超資本主義がもたらすこれらの弊害の実例を具体的に数多く挙げて説明している。

 筆者の主張のなかで興味深いのは、上記のような弊害をもたらしたのは私たち自身の欲望である、という主張だ。つまり、一部のグローバル企業が貪欲であるためにこれらの弊害がもたらされたのではない。むしろ、日常生活を営む一般庶民の我々の欲望や何気ない行動こそが、これらの弊害を引き出しているのだ。

 例えば、筆者自身の経験である次の例は印象的だ。

 筆者は地元の個人経営の書店を何年も前からひいきにしていた。筆者はこうしたローカルでこじんまりした書店を好み、その書店にくる客が減っていることに胸を痛めていた。しかし筆者はあるとき、自分の部屋の書棚を見て、自分がもっている本のほとんどが都市部の大書店やアマゾンなどで買った本がほとんどであることに気付いた。しばらくして筆者が、その地元の書店を訪れると、その書店は閉店していた。

 この書店が閉店したことの責任の一端は、筆者の消費行動にある、と捉えることができる。この消費行動の結果を私たちはどのように受け止めれば良いのか。

 例えば、アメリカにはウォルマートの出店が地域コミュニティを崩壊させてきたことを批判する人々がたくさんいる。しかし実際に彼ら自身の近所に地元の個人商店と郊外の量販店があって、量販店のほうが比較的安く物を売っている場合、彼らの多くは週末に自動車に乗って量販店に買い物に行くのだ。

 では我々は、この「超資本主義」を前にして何をすべきなのか?

 筆者の答えは、「民主主義を強化し、超資本主義を規制すること」である。

「私たちの内なる市民が、内なる消費者・投資家に打ち勝つ唯一の道は、購入や投資を個人的な選択ではなく社会的な選択にする法律や規制をつくることである」(174頁)

 具体的には、

 ・賃金保証や職業訓練とセットにした雇用保険の延長

 ・最低賃金の保証

 ・国民皆保険の実現

 ・金融派生商品取引の規制

 ・地域社会保全のための大型量販店の出店規制

 ・より厳しい環境保護法の設置

 ・人権擁護のためのより強力な国際ルールの設置

などである。

 私たちが市場の自由競争において選択する結果は、必ずしも私たちにとって望ましいものではない、というのが筆者の基本的な認識だ。むしろ市場における自由な競争と選択は、私たちの社会と民主主義の基盤を掘り崩す傾向がある。

 それゆえ、あらかじめ民主主義によって強力な資本主義に一定の規制をかけておく必要がある。そのことによって、私たちはあるべき民主主義と資本主義のバランス関係を取り戻し、資本主義の「暴走」を抑えることができるだろう。以上が本書における筆者の主張である。

 この本を読むと、欧米のリベラルな知識人が民主主義という政治システムにいかに厚い信頼を置いているかがよく分かる。「民主主義の力によって資本主義の力を抑え込む」という論法は、近年多くの欧米知識人が採っている戦略である。例えば、ジャック・アタリやアントニオ・ネグリなども同じような主張を行っている。もちろん彼らの間に思想的な相違はあるけれども、その結論は極めて似通っているのだ。

 しかし本当に民主主義の力によって強力な資本主義を抑え込むことは可能だろうか?極東アジアの島国に住む自分としては、そこまで民主主義の力を信じきれないところがあるのだが、そこに期待を寄せてみたい気持ちもある。Supercapitalismとdemocracyの関係の行く末をこれからも見守っていきたい。

(評者:百木 漠)

更新:2012/05/28