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大澤真幸・宮台真司著、
 『「正義」について論じます』

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書名:「正義」について論じます

著者:大澤真幸・宮台真司

出版社:左右社

出版年:2010


 

大澤真幸と宮台真司の久しく待望された対談が、ついに実現した。名実ともに現代日本を代表する論客といってよいこの二人の対談のテーマとして選ばれたのは、「正義」である。もちろん、背景にはマイケル・サンデルのハーバード白熱教室がある。とはいえ、決して単に昨今のブームに便乗しただけではないことは、本書をわずか数頁読んだ段階で明らかになる。サンデルの「政治哲学」が、あの講義においてはほとんど道徳哲学・倫理学と変わらないものになってしまっていて、その今日的なインプリケーションが必ずしも見やすくはないことを鑑みるとき、この対談が、正義の問題をまずは歴史的で社会学的な文脈に置き直して解き明かすことからはじめている点は、特筆すべきである。以下、ごく簡単に対談の流れを追っていこう。

 前半では、正義という概念が注目を浴びるようになった今日にまで至る歴史的な流れを、比較的記述的に描いている。まず善と正義の違いという現代政治哲学の基本テーゼが、社会学史の文脈に引きつける形で再定位される。社会システム論から「複雑性の縮減」のタームを導入し、善と比較した場合の正義の縮減能力の高さを指摘すると同時に、その非自明性が併せて論じられる。すなわち、主張内容の正しさからは独立に、それが人々に受け入れられ社会的に通用するという位相が存在し(ウェーバーが言うところの正統性)、正義もまずはそのようなものとして理解されるという。そして、そのように善と比べて普遍性が高く、他方で善のようには自明・自然ではない「正義」というものの不可能性とそのことに対する認識(1993年のロールズ転向に代表される)とが、現代を特徴づける。

 これは、換言すれば「みんな」という表象が実効的に機能しなくなったということでもある。ところが、現今の社会的危機を脱却するためには、社会の包摂性を上昇させることが不可欠だ。ここに現代のアンビバレンスがある。そこで宮台氏によって提示される処方箋が、共同体的自己決定の確立とそれら共同体間の共和という構想である。日本がそこに到達できていないのは、「市場か(さもなくば)国家による再分配か」という遅れた図式によって政治(選挙)が動いていること、また沖縄の普天間基地問題に対する反応からも明らかである。沖縄問題に即して、具体的に共同体的自律がいかに可能になるのか、そのことが論じられている。ポイントになるのは、いかに「みんな」を再構築するか、だ。
前半では専ら聞き役に回っていた大澤氏から、中ほどで挑発的な問題が投げかけられる。上に見てきたような今日の問題は、結局のところ「資本主義」の下では究極的には解決不可能なのではないか。グローバル資本主義を唯一可能なゲームとみなす「歴史の終わり」の意識自体が、超克されなければならないのではないか――。宮台氏のとりあえずの回答はこうだ。正確には、「市場か再分配か」は「個人か国家か」とは重ならない。市場が個人主義のゲームと見えるのはある種の人類学的な錯視で(トッドの家族人類学が参照される)、実際にはグローバル市場経済と両立可能な共同体的連帯は可能であるし、それを模索すべきだ、と。

 ここから論はさらに「ミメーシス」へと向かう。資本主義の「外部」という問題が、ここに集約するのである。宮台氏は現下の閉塞を打ち破る契機をこのミメーシスのうちに見出しているのだが、利己的な動機を超出して感染が生じてしまうという構造が、資本の論理にとって外在的なものだと、大澤氏は指摘する。そして、さらには、ここまで展開されてきた再帰的共同体主義を超えるものだとも。ただ、そのミメーシス自体もすぐれて社会的な現象だとすれば、単に「カリスマ」を待望しているだけではいられない。むしろ、現代社会は感染的な模倣を引き起こす機会にひどく乏しいとさえいえる。そこで提示されるミメーシスのアクチュアルな可能性についての考察の方向性は、ある意味、宮台氏と大澤氏とで対照的である。宮台氏の解答は、「性愛について書くこと」、そこで喚起される非日常性の経験をフックとした気づきだとまとめられよう。そこから、政治倫理が要請される例外状態における決断の重要性へと議論が展開されていく。対するに、大澤氏は「善きサマリア人」の寓話を媒介として、周囲に感染を引き起こす「スゴイ奴」が、実はその対極に位置するような弱く惨めな存在――その究極の典型こそ十字架にかけられたイエスである――から感染を受けているという、ミメーシスに秘められたもう一つのモーメントに注意を促す(ここでは触れられないが、続く大澤論文でその構造に明晰な分析が加えられる)。

 宮台氏の解答では不十分であるように、筆者には感じられる。例外状態における決定の議論への移行においてよく表れているように、その“必要性”が強調されるだけで、現代における感染の“不可能性”や困難という問いに応えているとはいえないのではないか。政治家に求められる不条理ともいうべきあの責任倫理が示すような「不可能だが不可欠」というあり方にしても、それが後期ロマン主義的に「ベタ化」することへの批判は投げかけられるものの、その可能性の条件が掘り下げられることはないからだ。とはいえ、大澤氏の議論にも、どことない危うさがはらまれているように思える。たとえば、シュミットの友敵理論を逆用して、例外状態を友敵の区別の溶解として再解釈し、「友=みんな」の逆説的な普遍性を見出そうとする部分は、自己否定を決定的なモーメントとして含むイエス的な「普遍性」の構想とパラレルな関係にあると思われるが、だとすれば、イエスの振る舞いは、例外状態の下でのみ可能だということにはならないか。そのとき、われわれは、その普遍性を求めて非常性や極限性、さらには非合理性を希求せざるをえない。このメシア待望もしくはハルマゲドン待望は、バーリンの古典的な危惧をあらためて呼び起こしても、おかしくはないだろう。

 しかし、いずれにしても、このミメーシス論への展開は、間違いなく、豊穣な可能性を秘めた一つの議論の方向性を指し示すものだ。社会哲学・政治哲学のもっともアクチュアルで先端的な可能性の所在を明らかにしている点で、これほど〈10年代の世界〉への扉を開いたと評されるにふさわしい対談は他にあるまい。

(評者:上野大樹)

更新:2014/01/13