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雨宮処凛著、
 『バンギャル ア ゴーゴー』

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書名:バンギャル ア ゴーゴー

著者:雨宮処凛

出版社:講談社

出版年:2008


 

いまやプレカリアートや貧困問題の論客として知られる雨宮処凛ですが、本書は彼女の長編小説です。

四年かけて書かれたという上下巻のボリューム、大谷リュウジのイラストによる表紙が美しい。


『バンギャル ア ゴーゴー』という奇妙なこのタイトルの「バンギャル」とは何か、といえば、ヴィジュアル系ロックバンドの追っかけの女の子のことを指す。(「バンドギャル」を略して「バンギャル」らしい。「バンギャ」とも呼ばれる。音楽関連では「バンドブーム」以来のイケてない日本語だと思うけれどしょうがない。)

本書は、90年代を舞台に「バンギャル」たちの青春を書いた小説である。日本サブカルチャー史の一ジャンルを追う上でもすばらしい資料であると思う。私は「ヴィジュアル系」には詳しくないのだが、それでも、実際の出来事が下敷きにされているらしき部分では、ああそんなことがあったなあ!と思い出す。たとえば、PIASSのPV撮影中の溺死事件や、X-JAPANのメンバーの自殺。また、反体制の象徴であったはずのロックバンドが天皇関連の式典で演奏する、という場面には、まだ記憶に新しい天皇即位十年式典でのYOSHIKIの演奏が思い出される(ああ小泉純一郎時代)。


雨宮さん自身がかつて「バンギャル」であったということであるから、これはたぶんに実話的要素も含まれた、或る追っかけ少女の中学時代から二十歳直前までの物語であり、彼女の成長物語としても読めるのであるが、作中最も印象的であったのは、当初、学校にも家にも馴染めずヴィジュアル系バンドの音楽だけにひたすら心ときめかせて追っかけを始めたそのときには、バンドのメンバーと同じ黒づくめの服を着て彼らに同一化することに夢中になっていた女の子たちが、彼らに近づくには彼らに同一化するよりも、彼らの性的対象にしてもらうという方法があるのだと気付き始める、その過程の描写である(注1)。しかして彼女らは、いかにして彼らの視界に入るか、どうすれば付き合えるか、何回セックスしてもらえるか、そのための服装やふるまい、そんなことにばかり腐心するようになる。

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 悲しかったのは、ああやって黒ずくめの服を着て、精一杯世間とか世の中とか、そういうものに対して異議申し立てをするようにしてたあの子が、もう黒ずくめの服を着なくなって、メンバーに媚びる方に目覚めたってこと。みんなみんな、変わっていく。あのポポロンちゃんも最近はお姉系のカッコをするようになったと聞いた。みんなみんな、あれだけこだわっていた黒ずくめの服を脱ぎ捨てて、そして突然「女」としての自分に目覚める。女としての自分の商品価値みたいなものをマーケティングして、鮮やかに変身していく。メンバーに、黒ずくめのカッコをしている強烈な「ファン」ではなく、セックスの対象である「女」として見られようと必死になっている。(上巻287頁)

 あの頃の私は、まだ全身黒ずくめの格好をしていた。そうすることが、すごく楽しかった。アスファルトにうつる自分の影がメンバーと同じシルエットになることが嬉しかった。黒い服を着ているっていうそのことだけで、メンバーに近付けた気がしてドキドキした。(略)だけどライヴハウスに通うようになって、私は知った。本当にメンバーに近付くためには、そんな格好をしてちゃいけないということを。(略)私たちは、知ってしまったのだ。そんなことよりも、メンバーと一発ヤることの方が、どれほど今ここにいる自分を確かめることができるかって。どれほど特別な人間になれるかって。どれほど自分に価値があるって、錯覚だとしても思えるかって。(上巻288-9頁)
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また、印象的だった場面は、ライブの打ち上げの場面だ。

駆け出しのバンドの打ち上げには、ファンが呼ばれることがしばしばあるのだという。そこで、バンドマン同士がたわいない話をしてふざけあうのを、「バンギャル」たちが幸福な気持ちで見守っている、という場面が描かれる。彼女らの気持ちは、小学校の教室で人気者の男子の会話を微笑ましく聞いているかのようだ、とたとえられる。この場面は、バンドマンとの恋愛云々のごたごたの場面と異なり、「バンギャル」たちが本来の「バンギャル」らしく描かれており、読者をほっとさせるような場面である。

この視線――男の子同士の関係性を女性が愛でる視線――のあり方は、「ヤオイ」「ボーイズラブ」を好む「腐女子」のそれによく似ている。

若者サブ文化を強引に「ヤンキー/オタク」に分ける分け方が00年代に登場し、その中で「腐女子」は後者に位置づけられてきたが、「バンギャル」というのはその中間項ではないかと思われ、この中間の層が存在を主張しているというのが、女子若者文化の特徴であるように思う(「ヤンキーとオタクばかりの高校に通っていた」友人の示唆による。また、ヴィジュアル系と女子オタク文化の近縁性への言及としては、青弓社から出ている『ヴィジュアル系の時代』(2003)所収の論考がある)。この小説にも、バンギャルでありかつオタク、という女の子たちが登場し、追っかけをしつつ、バンドマンをモデルにした「ヤオイ」漫画を描いていることになっている。

話が逸れたが、この打ち上げでの「バンギャル」と、男性同士の関係性を愛でる「腐女子」の共通性とは、傍観者であるということだ(注2)。

しかし、「腐女子」が基本的に、傍観者であることを享楽し続ける者たちであるのに対して、本書に登場する「バンギャル」たち(の一部)は、傍観の幸福を楽しみつつ傍観者であることに飽き足りない。


打ち上げに同席していくら憧れの人たちの近くにいても、彼女らは消費者でしかない。彼らと彼女らは、あくまでパフォーマーとファン、眼差しを受ける側と送る側、金銭を受け取る側と支払う側、という非対称性で阻まれている。追っかけの少女らが打ち上げに支払う参加費は、彼らの活動資金になっていて、そしてどうしてもあっち側へ行きたいと思うなら、彼女らは、彼らに同一化することを捨て、傍観者であることの幸福も捨て、女の服をまとってフェンスを乗り越えるしかないのだ。

その過程で少女たちは、或る者は傷つき、或る者は勝ち、そうして分断されていく。

この作品は、その構造のせつなさをひりひりと描き出している点で秀逸であり、「ヴィジュアル系」「バンギャル」といった単なる一サブカルチャーの記録にとどまらない、普遍性をもつ。

またそれだけに、分断された少女たちが、音楽を聴き始めた初期衝動を自分のものとして取り戻し、そのもとにふたたび出会うラスト近くの記述は感動的。



注1)^
「バンギャル」の特徴として、自分が好きなバンドのメンバーに似せた格好(「コスプレ」)をする、という行動があるのだけれど、本小説によると、バンドマンたちは、「コスプレ」をする女の子たちはただの「ファン」、普通の女性的な服装をする子は「女」=性的対象、と見なすらしい。
この小説の性質からいってこれはたぶん実態を反映していると思われ、興味深い。単に「男は女らしい服装が好き」という一般論で済ませられる話なのかもしれないが、「ヴィジュアル系」の人々というのは、多くは自らも性別越境的な衣裳を纏っている人々であると思うので、そうでありながら「普通の女性的な服装の女性」を好む彼らの意識はどういうものなのか、また彼らは自分に同一化しようとする少女らを見て何を思うのか?と、――単に野次馬的な興味なのだが――気になる。(もちろんひとくちに「ヴィジュアル系の人々」といってもまったく様々であるのだろう。また、「ヴィジュアル系」自体にあまり詳しくないため、事実誤認があればお許し願いたい。)



注2)^
といっても、こうした傍観者的な視線のあり方というのは、べつに女性に特有のものというわけではないようだ。たとえば、男性オタクのための「萌え」漫画とされる『らき☆すた』(美水かがみ作、角川、2004-)を読んだとき、「あっ、同じだ!」と感じた。『らき☆すた』の内容の中心となるのは、女の子たちの日常的な他愛のない会話であった。会話の内容も、べつに色気のないバカ話であったりする。それを男の子が読んで「萌える」わけだが、あ、これって、馬鹿話するバンドマン同士を微笑ましく見つめるバンギャル、小学校の人気者男子たちのやりとりを見つめる女の子のたのしみ方と同じだ、と思ったのでした。

(評者:村田智子/むらたさとこ)

更新:2012/06/14