書名:原発はなぜ危険か―元設計技師の証言
著者:田中三彦
出版社:岩波新書
出版年:1990

本書は、今まさに問題になっている福島第一原発四号機用原子炉圧力容器、その製造過程において、重大な隠蔽が行われたことを証言するものである。著者の田中三彦氏は、当時その原子炉圧力容器を製造していた某企業の設計技師であった。氏によれば、製造過程の総仕上げの段階を経たあと、関係法規の許す範囲を超えて、原子炉圧力容器の円形断面が楕円形にゆがんでしまったのだという。これは工場にとっては「予想もしない初歩的な、しかし深刻なトラブル」(注1) であった。

 問題なのは、そのゆがみを矯正する作業である。矯正作業に必然的に伴うと想像される「材料劣化」を考慮すると、矯正作業は一度きりしか行えなかった。もしこの作業に失敗すれば、長い時間をかけて製造された原子炉圧力容器は使い物にならなくなり、作り直すとしても莫大な費用がかかってしまう。矯正作業にミスは許されなかった。

 工場関係者に多大な緊張を強いながら、矯正作業はとにかく終了し、「矯正作業成功」の報告がなされた。これが1974年である。しかし、その矯正作業に、原子炉圧力容器の使用者である東京電力関係者の立ち会いはなく、結局、東電関係者は一度もその容器のゆがみを目にすることはなかったという。氏は、1988年に行われた原発シンポジウムで、一連のゆがみ矯正作業が技術的にも法的にも疑問が残るやり方であったと指摘し、その安全性に懸念を示した。だが東電、通産省および製造元の某企業は、矯正作業は合法であり、安全上も問題ないとして、氏の意見と全く反対の趣旨の会見を行った。 (注2)

 本書で氏は、元設計技師という立場からこのような多岐にわたる重要な指摘をしている。今問題になっている福島原発には、上記のような欠陥が内包されていたわけである。氏の指摘から約20年たって実際に福島原発の事故が起こってしまった現在、それらが極めて重要な論点であることは間違いない。本書にまとめられた「理論主義」の限界など、原発の“安全性”については、頭に入れておく必要があるだろう。

 しかし、本書で指摘されるのは単なる内部告発的な内容だけではない。もう一点、重要な指摘がなされている。それは、原発に象徴される近代性そのものの深い影である。

 本書は、原発という極めて「現実的」な問題点をもとにして、最終的には「思想的=理想的」な領域にまで論を広げ、現代の我々のライフスタイルの見直しまで迫る論考である。三部構成のうち大半を占める第二部までは原発の技術的な話であり、最後の第三部の数十ページのみ、原発の安全議論から離れて思想的な領域の話を展開している。一見すれば第三部は最後にとって付けたようだが、私の感想としては、この部分こそ氏の論の骨子だと思う。だから見方によっては、本書は「思想書」なのである。

 そもそも田中氏の訳書を見ると、上述したF.カプラや、K.ウィルバー、A.ケストラーなどのいわゆる「ニューサイエンス」系の書籍が並ぶ。「ニューサイエンス」は近代的世界観の逆の価値観を提示する「近代科学批判」の地平に位置づけられる。すなわち、全体論、有機体論、非決定論の展開といった、科学の新しいパラダイムを模索する動きである。F. カプラによってそこに東洋神秘主義も含められたためか、「ニューサイエンス」が日本に紹介された当時、日本の主流の知識人からは懐疑的・消極的な反応、むしろ侮蔑的ですらある反応があったようだ。柄谷行人や浅田彰などは批判的ととれる文章を書いている (注3)。「ニューサイエンス」の「ニューエイジ」性に対する嫌悪感もあるのだろう。いつしか日本ではこの類の言説は姿を消していった。だが、福島原発事故の状況が日に日に悪化する今日、少なくとも近代科学批判としての論点は、リアリティを持って迫っているようにも思えてくる。その意味で、本書をいま読み直してみる意義は十分にある。

 田中氏は原発に、我々の意識的/無意識的な価値の投影を見ている。原発は技術の産物なのではなく、その我々の価値観こそが原発を生み出したのだ、という。すなわち、F.カプラの言う「陽的価値」、デカルト=ニュートン的科学、近代性の根源とも言える機械論的世界観と要素還元主義といった価値観である。原発を巡る諸々の成立構造―その理論や原発を根拠づけるの我々のライフスタイル、「閉鎖系と快適さ」 ―は、そのまま近代性の構造を表現しているわけだ。だから、原発を問い直すことは、我々の近代的な生き方を問い直すことにもつながっていく。そのような観点から、原発および今後のエネルギー問題を考えたらどうかというのが氏の主張である。我々はもう少し深いレベルで、現在の事態を見ていく必要がある。原発とは、技術レベルの問題にとどまらず、科学やテクノロジー、科学者のあり方、そして近代の論理の限界という問題を抱えているからである。

 「原発」という近代。そう、原発というものはまさしく近代そのものなのである。現在福島で起こっている事態は、それこそ世界的な“ターニング・ポイント”として語られるのかもしれない。福島原発で作業にあたっている作業員たち、そしてそれを注視している我々は、近代そのもの、我々が見まいとしてきた影との闘いを、いま間近に臨んでいるのである。



注1)^
本書、p. 16

注2)^
私は工学系の知識は全くないために、これらの証言を評する能力はない。だから氏の言う疑問点については、本書を実際に手にとって吟味されたい。といっても、本書はすでに店頭在庫はなく、古本で入手するしかないようだ。

注3)^
柄谷行人著『批評とポストモダン』福武書店、1985年、浅田彰『中央公論』1985年1月号

※参考文献として
・小坂修平・竹田青・山本啓編『わかりたいあなたのための現代思想・入門Ⅱ』JICC出版局、1990年
・フリッチョフ・カプラ著『ターニング・ポイント』吉福伸逸、田中三彦、上野圭一、菅靖彦訳、工作舎、1984年
・M.ミッチェル・ワールドロップ著『複雑系』田中三彦・遠山峻征訳、新潮社、1996年

注4)^
本書、p. 178

(評者:積田俊雄)

更新:2012/06/14