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山下範久著、
 『現代帝国論――人類史の中のグローバリゼーション』

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書名:現代帝国論――人類史の中のグローバリゼーション

著者:山下範久

出版社:NHKブックス

出版年:2008


 

「近世帝国」論から現代帝国論へ――メタ普遍性の起源

 
『現代帝国論』と銘打たれた本書は、通常「帝国論」という言葉でイメージされる歴史的な話題や、政治体制・社会構造の分析といった類の社会科学的研究とはいささか趣を異にしている。敢えていえば、これは実証史学や社会科学に題材をとりながら、これに主に人文知の観点からアプローチする(現代)思想的研究である。それは、本書の基本的な分析概念――メタ普遍性、メタ普遍主義、ポランニー的不安、超越と内在など――を並べてみれば一目瞭然である。このような視角からの帝国研究が、20世紀最大の歴史家のひとりイマニュエル・ウォーラーステインから直接教えを受けた博覧強記の著者によってなされているというのは興味深い。


 本書は、「現代の帝国」を論じるに際して、「近世帝国」(特に清帝国)をめぐる歴史学的成果を大胆に換骨奪胎し、そこから現代の帝国を分析するための一連の道具立てを獲得するというところから始めている。乱暴に要約してしまえば、人類史は秩序とその解体という周期の反復である。これは伝統的な用語系でいえば、進歩史観に対するところの循環史観に親和的な歴史理解であろう。帝国秩序とは、いわばこの循環のなかの相対的安定期に対して与えられた名称である。ただ同時に、著者の考えは近代史を特権化する解釈とは無縁とはいえ、通俗的な循環史観や構造主義的歴史理解に対しても等しく距離をとろうと工夫がなされている。このような反復は客観的に、また自動的に生じるわけではない。むしろ、秩序の流動化状況のうちにいる主体が、ひょっとしたらこの状況に終わりはないかもしれない、つまり秩序の再構造化はやってこないかもしれないという(客観主義によっては決して捉えられない)感覚――著者はこれを「ポランニー的不安」と名づける――を持つということが、この循環的な歴史を駆動するそれ自体重要なファクターになっているのである。ここで詳述する余地はないが、この不安は、自然(フュシス)と人為(ノモス)の区別をアプリオリに想定することができなくなり、両者の線引きが可変的であるということが再帰的に社会の知として共有されたときに深刻なものとなる。たとえば(新)自由主義によって社会の市場化が極端な水準まで深化してしまっても、ある閾値・限界を越えれば自ずと転換が生じ、暴走した市場は必然的に再び社会のなかへと埋め込まれていくはずだというように「安心」することは、実はこの場合にはできなくなる。極端に市場化が進行した社会がいかに「不自然」なものに思われようと、もし自然的なものと作為的なものとの境界自体がいくらでも変容するとなれば、市場化が一定段階まで進むと自動的にその傾向が反転するなどという保証はどこにもなくなるからである。



 このような不安をともなって秩序の流動化、つまり社会の諸制度間の調和や接合の破綻が進行していくなかで、これにある種の統合をもたらすのが、新しい帝国の秩序である。具体的には、「長い16世紀」と名づけられた1450年から1650年にかけての時期がポランニー的不安を超克して近世帝国の成立へと展開していく時代だとすれば、現代も、「長い20世紀」と呼ばれる1850年ごろからおよそ2世紀にわたるタイム・スパンのなかで、ポランニー的不安に向き合いながら現代の〈帝国〉秩序の構築へとむかう過程にある、というわけだ。ここで強調されるのがこの帝国的秩序の高度な形式性である。すなわち、社会の流動化や複合化に対して統合と一貫性をもたらす必要があるにしても、古典的な帝国モデルのように皇帝が神の代理人であるというような形で具体的でポジティブな統一性の内容を措定することはできない。新しい統合原理は、複数の文明的・宗教的世界観――それは原理的にいって普遍主義的な性格を帯びる――を両立させうるようなものでなければならない。そのためには、ある特定の限られた世界観に実際に立脚してそれを公式の教義とするのではなく、そのような個々の普遍主義的主張の地平を超越してそれらを束ねるような次元に帝国の原理的基盤を打ち立てなければならないのである。著者は、それは各々の世界観の可能性の条件の位置にあるようなものであるはずだと考える。このような位相にある帝国の理念が、本書で「メタ普遍性」として特徴づけられることになる。



 本書では、このようなメタ水準にある普遍性という観念の原型が、近世帝国の統治構造のうちに跡づけられている。具体的に取り上げられるのは、清帝国を中心とする東アジアのケースである。清朝の統治は、科挙官僚の下で儒教的な価値観が支配する地域(礼部が管轄する「東南の弦月」)と、満州的な組織原理によって軍人を配置したり王侯を封じたりして騎馬民族とオアシスの民の世界を統治した地域(理藩院が管轄する「西北の弦月」)とに大別される。ここでは、複数の文化圏のどれか特定のひとつを公式に正統と認めそれ以外を抑圧するのではなくて、それぞれがトータルで普遍的な世界像を提示する複数の文化体系が、メタレベルで統治されている。いわば皇帝は、各々の〈世界〉に対してその〈世界〉向けの顔を使い分けるのである。このような普遍性のメタレベル化は、中華帝国から世界帝国へともまとめられる。


 


現代の三つの普遍主義と帝国の倫理


 近世帝国の分析から取り出された以上のような道具立てを用いて、著者は現代の普遍主義をめぐる論争状況を整理し(第Ⅱ部)、その上で今日において可能な「帝国の倫理」を構想する(第Ⅲ部)。第Ⅱ部では、ポランニー的不安を万人の万人に対する戦争状態とみなしそれを克服するための新しい社会契約を要請するネオコン周辺のネオ・ホッブズ主義を「ポジティブな普遍主義」として(フランシス・フクヤマら)、次いでポランニー的不安をポストモダン的な差異の肯定の観点から解釈するシニシズムを「ネガティブな普遍主義」として(大澤真幸によって理論化されたところのナショナリズム論など)、最後にポランニー的不安のなかで「空虚な普遍性」を絶えず提起し続ける現代のラス・カサス主義者を「メタ普遍主義」(エマニュエル・トッド、ウォーラーステインら)として、それぞれ分類する。そして、最後の第三の類型こそ、近世帝国の分析によって導出されたメタ普遍性の概念を引き継ぐものとして、つまり現代の帝国の倫理を構築するための基盤たりうるものとして位置づけられることになる。


 第Ⅲ部では、この新しい帝国の倫理としてのメタ普遍主義の考察が深められる。そこでは、近世帝国論によって提起されたメタ普遍性が、「国際社会」の概念として現代に蘇っているのではないかという仮説が提示される。この概念は、マキャヴェリ的・ホッブズ的とされるリアリズムの伝統とカント的なリベラリズム(革命主義)の伝統の対立という国際関係論の構図に対して、国際法の父グロティウスに由来する合理主義の系譜を現代的に再構成しようとする「英国学派」によって提起されたものである。それはとりあえずは現実主義と理念主義的なリベラリズムとの中間に位置づけられる中庸の理論だとみなせるが、著者によればこの学派の中核的なインプリケーションはそこにはない。


 国際関係論のこの二つの伝統は、一見まったく反対の、両極に位置するもののように見える。けれども、両者は実はひそかに共通の地平を共有している。それが「国内類推」である。しばしばこれは、現実主義が理想主義を批判する際に使用する語彙と理解される。理想主義は国内社会との誤った類比によって国際社会にも確固たる平和的秩序が実現されうると主張するが、それは暴力を独占する主権を備えた主体が存在するか否かという点で決定的に質の異なる二つの社会構造の差異に無自覚な非現実的夢想である、と。だが、ここではその現実主義者にも国内類推の批判がむけられる。現実主義者は国際社会をホッブズ的な自然状態(「国際システム」)としてモデル化するのに対し、理想主義者は市民的秩序が確立された社会状態(「世界社会」)とみなす。両者はいずれも、戦争状態から社会状態へという近代国家の説明原理としての社会契約説を前提に、そのなかのいずれかの段階にあるものとして国際政治をモデル化する。このこと自体が、英国学派にしてみれば国内類推に捕らわれているということを意味するのである。このような秘められた共通の問題設定を拒否し、この地平のなかでは単なる両極の間の中間的な移行段階にすぎないとみなされてしまう「国際社会」に固有の位置づけを与えようとしたのが、英国学派だというのである。


 さらに、この三つの分類に第Ⅱ部での類型化が重ね合わされる。カント的伝統が、国際政治における現代の新しい社会契約を規定しようとする「ポジティブな普遍主義」に当たるとすれば、マキャヴェリ・ホッブズ的伝統は抗争に満ちた自然状態をそのまま常態として受け入れようとする「ネガティブな普遍主義」に対応する。そして、両者のいずれかを選択しなければならないと迫る閉塞状況を打破して、開かれたメタ普遍性を固定化することなく絶えず投企し続ける「メタ普遍主義」の可能性が第Ⅱ部で展望されたとすれば、英国学派の国際社会の概念は、先の二つの伝統(のいずれかを選ばなければならないという状況)を同時に超克するための具体的な道具立てとなる可能性を秘めているのである。
さらに、現代の新しい形態の〈戦争〉も、この「国際社会」の登場と深く相関して出現した現象である以上(だたしこの点は本書で明示的に展開されている議論ではない)、たとえば単にそれを「国内類推」を暗に前提した伝統的な国際法の論理によって拒絶するのではなく(そのような批判は戦争の新しい形態の存在自体を否認するものであるが、それは今日の激変する国際情勢を前にしてそこに取り組むべき新しい問題が出現していること自体を適切に把握しえない)、戦争の定義自体が確定されることのないこの事態を直視した上で、なおそれに批判の眼差しを向けていくことが求められるだろう。たとえば世界の警察として振舞おうとするアメリカの「帝国的」行動に対しては、普遍性を僭称するその独善的な普遍主義的自己主張を、メタ普遍性の次元を想定する視点から――つまりシニシズムに陥ることなく――批判していくという努力が要請されるわけである。同時に、その批判がいつの間にか自らの主張を端的にポジティブな(明示的な)普遍性の提示へとスライドさせてしまうことを避けるべく、批判は絶えずネガティブな(明示されえない)普遍性の次元へと再投企されていかなければならない。それはいうなれば、メタ普遍性をポジティブなそれへと規定してしまおうとする欲望に抗して「空虚な普遍性」に耐えよと命じてくる、戦後のサルトルの実存主義的ヒューマニズムを想起させる「永久革命」の論理のようでもある。





批判的検討(1) ――政治哲学の観点から

 以上の内容紹介からも、本書が著者の豊かな歴史社会学的素養に裏打ちされながらも、そこに題材を求めつつすぐれて独自な視点から帝国論を新たな方向へと拡張しようとする野心的な試みであることがわかるだろう。すでに明らかになったであろう本書の有する射程の広がりとその意義を認めた上で、以下いくつかの批判的検討を、主に評者の専門である政治哲学・政治思想史の観点から加えてみたい。


 まず本書が近世帝国の検討から導出したメタ普遍性やメタ普遍主義のアイディアは、政治哲学の理論的考察の伝統のなかにほとんど等価と思われる議論が存在している(もちろんそのこと自体は哲学・理論にも造詣の深い著者ならば先刻承知のことであろう)。それは一言でいえば、カント=ロールズ的系譜におけるリベラリズムの基礎づけの議論である。具体的でポジティブな普遍主義的な諸主張が存在する位相を超越した「メタ普遍性」の位相の想定は、ロールズの語彙で表現すれば、包括的教説comprehensive doctrineと正義の政治的構想political conceptionの区別におおよそ該当しよう。もちろん後者を「重なり合う合意」とした後期ロールズは、その普遍主義的構想を実質的に放棄してしまいはするのだが。あるいは、これをさらに遡れば、カントの超越論哲学の構想にたどり着く。その道徳哲学の核心にある「定言命法」は――法とは異なって――まさにヘーゲルが喝破したように「純粋に空虚な形式」であり、これこそ著者によるメタ普遍性の定義の中心である。


 だとすれば、これらの議論にむけられた批判は、本書が提唱するメタ普遍主義にも少なからず当てはまることになる。メタ普遍主義はまずポジティブな普遍主義への批判であった。あらゆるポジティブな普遍性の実体化が否定されるとき、それにもかかわらずそれらの可能性の条件を構成する次元は、具体的な内容をもたない極限まで形式化されたものとなる。そのようなメタ普遍性こそ、無限の批判を可能にする。これはほとんどカント的意味での道徳を特徴づける性格でもある。それは原理的にいって、特定の内容を含む経験的命題に最終的に帰着させることはできない。経験的存在の実践的な行為に対して、定言命法は絶えずそれぞれの行為の道徳的正しさに疑念を向けさせ、それを批判にふすのである。けれども、ヘーゲルの言葉はそのことへの批判を含意してもいた。ひとつの解釈として、この純粋な形式性をニーチェのニヒリズムと結びつけて解することができる。すなわち、定言命法とメタ普遍性に共通してみられる、抽象的法則を経験世界の具体的内容へと同定しようとすることへの拒絶は、超越的な彼岸の高みからいまここの現実の生を絶えず否定し貶めことで人々の生への活力を虚脱させる結果を招くだけだという批判である。このように超越化されメタ化された普遍性は、一方でその実践つまり経験的世界への現実化を要請しながら、しかも同時にその実現を原理的に拒んでいるのだ(これは思想史において「(無限の)完成可能性」の問題として18世紀後半以降現出している)。


 本書でも詳しく検討されている大澤真幸の議論を参照すれば、このような定言命法とメタ普遍性の存在性格は、それが何であるか(本質存在)は経験に束縛された人間存在にとっては定かではないが、他方でそれが在るということ(現実存在)だけは知られているものとして理解できる。ちなみにメタ普遍性に対するこのような規定は、「実存は本質に先立つ」というテーゼで知られる実存主義的ヒューマニズムの人間規定(=反規定)とも重なるところがある。いずれにせよ重要な点は、このような独特の存在仕方をする超越論的位相は、決してその存在が自明ではないということだ。おそらくそれは、キリスト教の、あるいは少なくとも一神教のヘブライズム的伝統に多くのものを負っているだろう。そして、上述のような絶えざる自己否定の運動の下では、この位相の存在基盤は掘り崩されざるをえまい。人間にとってその本質存在の特定が原理的に不可能だと人々に再帰的に知られたなかで、それでもなおその実存だけは確かであると確信し続けること――これはおそらく知ではなく信仰に属することがらである――が果たしていつまで可能なのだろうか。ニーチェ以降の課題はむしろ、個々の普遍性の可能性条件の位置におかれたメタ普遍性の、さらにそれ自身の可能性条件を問う作業にあったのではないか。


 さらにロールズについてみれば、彼の正義論が原初状態という装置を用いての社会契約説の再構成という形をとることからもわかるように、それは形式化された普遍性に依拠しつつそこから具体的に特定可能なポジティブな普遍主義的主張――ロールズ自身の構想はいわゆる「正義の二原理」として定式化された――を導出しようとするものである。これは本書の視角からは、いわば一度は古典的な普遍主義的価値主張(「包括的教説」)から抜け出してメタ普遍性の水準に立ったにもかかわらず、再びそれをポジティブな主張へと縮減してしまうような振舞いであると批判されよう。けれども、ロールズにしてみれば、H.L.Aハートの批判が決定的だったように、正義の概念conceptを具体的な構想conceptionへと落し込めるかどうかは死活的な重要性を帯びた問題であった。それが不可能ならば、超越論的な道徳哲学は政治哲学としてはほとんど無意味になりかねなかったからである。ここでも、ヘーゲルのカント批判が変奏されて反復されることになる。マイケル・サンデルの師でもあるヘーゲル学者チャールズ・テイラーは、高度に抽象化され人間の存在様式から遊離した正義が実質的に無内容なものに陥る点を批判し、人々の実践的な社会生活に根ざした善の共同性の復権を説いた。ロールズ自身も、最終的には普遍妥当性の要求を譲歩してでもポジティブな同意内容の導出可能性を担保することを重視するのだが、これはベクトルとしては完全にコミュニタリアンと同一の方向を向いている。


 翻って本書のメタ普遍性のモデルケースに目を向けてみよう。近世帝国としての清朝の統治は、たしかにロールズがいうところの包括的教説を越え出た視点の確保に努めているが、果たしてそこで獲得された「メタ普遍性」が「純粋に空虚な形式」の水準まで抽象化されているといえるだろうか。むしろここに見るべきは、自らを包括的教説が並存・乱立する次元から引き上げながら、しかしそれがすっかり形式化して無内容化することも同時に回避し、何らかの形式でポジティブな普遍主義的意味内容を保持しようとする帝国の統治実践ではないだろうか。実際の統治の言説は、本書のいうメタ普遍主義ではありえないように思われる。それはロールズが自らが直面したジレンマのなかで、高度な普遍性の確保よりも、道徳世界と経験世界との接続のほうを選択したこととパラレルな問題であるだろう。


 


批判的検討(2) ――帝国/国民国家の思想史の観点から


 以上の検討は、基本的に、本書の「メタ帝国論」的な議論と同じ水準で行ったものだといえるだろう。しかし、評者がもう一つ批判的なまなざしを向けたいのは、本書のとりわけ後半部でなされる議論の抽象性である。とりわけ前半に認められる良質の歴史社会学的分析にもかかわらず、本書は後にいくにつれ、哲学的・思弁的な性格が強まり、先の歴史的分析を引き継ぎながら理論化を進めるという志向が弱まってしまっていくような印象を受ける。この難点を回避するためにも、立論のひとつの方向性として、冒頭で挙げられている三つのタイム・スパン(現代のグローバリゼーションをポスト冷戦として規定する数十年スパンの視角、これをポスト国民国家として規定する百数十年スパンの視角、そしてポランニー的不安と帝国秩序の交替という数百年スパンの人類史的視角)のうち、第三の視角だけでなくこれに第二の視角を突き合わせていくという研究方法がありうるのではないか――ここではこのような可能性を提起してみたい。


 そもそも、政体の特徴づけと区分をその主たる使命とする古典的な政治学において、帝国と国民国家という政治形態の対比はきわめて重要な論点であり続けた。このような伝統を意識するとき、著者の採用する「人類史の中のグローバリゼーション」という視角は、すぐれて論争的で挑戦的なものと映る。というのも、西洋政治思想史においては、通常キリスト教帝国樹立の野望の最終的な破綻として、主権国家分立体制(これにナショナリズムとデモクラシーが結合して国民国家体制となる)への移行が理解されるが、まさにこのような時期に対して著者は「長い16世紀の終結」による「近世帝国」の時代の到来という特徴づけを与えるからである。西洋史における帝国から主権国家・国民国家への移行期は、少なくとも字義上はむしろ正反対に、新しい帝国秩序の確立期として再解釈されるのである。


 本書で展開されている議論でこの点と深く関連するのが、「ヨーロッパの奇跡」をめぐるアンドレ・グンダー・フランクやウォーラーステインらの解釈論争、またウォーラーステインの「世界=帝国/世界=経済」という対概念などである。簡単にまとめてしまえば、著者は共時的にも通時的にも複数の歴史的システム(文明圏)の存在を認めない一元論的・還元主義的なフランクの立場を批判しつつも、「ヨーロッパの奇跡」を説明するために考案された世界帝国/世界経済というウォーラーステインの分析概念を脱構築するフランクの議論を基本的に継承し、その上でポスト・『リオリエント』の方向性を模索している。上述の近世帝国論は、そのような方向での探究の結実である。


 けれども、この枠組みによって同時代の西洋の歴史的展開を理解することは、果たしてどこまで妥当であろうか。単純にタイム・スパンのとり方の違いであって矛盾はないのだと断ずることはできない。たとえば政治哲学者ピエール・マナンは、代表的な政治形態を都市国家(ポリス)/帝国/国民国家に分類し、近世に復活した共和主義(ポリスの政治生活を理想とする)を継承しつつ領域国家化を実現することで普遍的帝国秩序の超克に成功した新しい政治形態として、国民国家を定位する。思想史的にいって重要なのは、この新たな政治秩序が、当時の人々に帝国=支配(インペリウム)への批判・抵抗として理解されたということである。キリスト教帝国から国民国家へという政治思想史上の流れは、本書が提示した図式と鋭く対立する。帝国観念の解体と主権国家の黎明期は反対に近世帝国の確立期と解され、続く国民国家の確立へとむかう時代は逆に帝国的秩序の解体期(ポランニー的不安の前景化)とみなされる。当時の間主観的な社会意識やそれを基礎とする政治思想史の理解ではそうかもしれないが、より客観的な歴史の観点からその構造を取り出してみれば、近世帝国の確立とその解体としてまとめることができるということもできるかもしれない。ただ、帝国概念が共和政や国民国家と対になって理解されてきたという西洋の伝統がある以上、この歴史理解の対立をどのように整合的に説明するかという点は、きわめて重要な課題になるのではないだろうか。著者がこのあたりをどのように考えているのか、ぜひとも聴いてみたい点である。評者の暫定的な印象では、上述のような帝国/国民国家という区分を維持しながら議論を接合することのできるウォーラーステインの世界帝国/世界経済という区別は、有益な分析枠組みとして保持されるべきではないかという感じをもっている。


 いずれにせよ、本書が提示した斬新な歴史理解の枠組みは、狭義の歴史学だけでなく多方面からの学際的な批判・検討がなされ、論争が喚起されてしかるべき研究の成果である。とりわけ評者の観点からは、思想史・観念史研究との対話によって議論のさらなる深化が期待できるように思われる(実際には著者もすでに何度か「共和主義」に論及し、まさにここで述べた論点を意識していた)。本書が出版されてから早くも三年近くの年月が経過している。これまでの著作で歴史社会学にはいまや稀有なグランド・セオリーを提示した著者の研究が、今後どのように展開されていくのか、関心をもって見ていきたいと思う。

(評者:上野大樹)

更新:2012/06/14