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野原慎司著、
 『アダム・スミスの近代性の根源――市場はなぜ見出されたのか』

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書名:アダム・スミスの近代性の根源――市場はなぜ見出されたのか

著者:野原慎司

出版社:京都大学 学術出版会

出版年:2013


 

 タイトルからも容易に想像できるように、今日の極度に専門の細分化したアカデミズムにおいて稀有というべき壮大なスケールの研究である。ときにタコツボ化とも思えるような専門化の進展いちじるしい思想(史)研究のこの四半世紀の動向にあっては、そもそもアダム・スミスのような第一級の思想家を主たる研究対象に据えること自体、困難がともなう。研究という営みをジグソーパズルのピースを埋めていく作業のようにとらえてしまえば(それを通常科学化の進展とみることもできようが)、著名な研究対象はときの経過とともにその多くの部分がすでに研究され尽くしたとみなされ、よりニッチの領域へとむかわざるをえないということになるからである。そのような力学の働きのなかにあって、本書は正面からアダム・スミスの名をタイトルに掲げるばかりか、スミス解釈をつうじて「近代性の根源」に、市場経済の誕生の始源に迫ろうとする、驚くべき野心作である。そのような大胆な試みが新進気鋭の研究者の手によってなされたことは、われわれの驚きをいっそう強める。だが、おそらくそれは処女作なればこそ可能な大胆さだというべきだろう。それを若さゆえの蛮勇と皮肉るむきもあろうが、敢えていえば、そのような蛮勇こそいまの人文諸学に求められているのである。狭い領域に閉じこもり、ごく限られた方角をむいてそこからの批判にたいしてのみ万全の準備を整えるというのでは、やがて学問はその一般性を喪失して虚しいものとならざるをえない。いまむしろ必要なのは、専門家にはあまりに無防備とみえても、あらゆる方角からの批判を覚悟でいわば腕ひとつで荒野の真ん中に乗り出そうとする勇気ではないだろうか。それを見事なしとげた著者にまず心からの敬意を表したい。

■ 本書の全体像

 以上のような性格をもつ著作であるから、扱われるテーマや領域はおのずと多岐にわたる。本書の基本的なモチーフや立論の構図は序章に示されているが、主題の一般性と抽象性、および研究関心とその歴史的射程の圧倒的な拡がりゆえに、それほど容易にはその核心をとらえることはできないように思われる。ここではまず、本書の全体像を評者の観点からあらためて描きだすことからはじめてみたい。
 副題にあるように、西洋近代社会における「市場」の発見ないし成立に、本書のもっとも基本的な問題関心はある。特徴的なのは、近代的な市場社会ないし経済社会出現のメルクマールを、社会のその他の領域からの自立の獲得に求める見地である。とりわけ先行する政治社会から区別され、それに従属することのない経済社会の自律性に焦点があてられ、この自律的な空間としての経済社会という理解が見出されるにいたる過程が思想史的に追跡される。概念史研究でいわれているように国家(政治的領域)と区別された社会の領域は18世紀においてまず経済社会として析出されたといえるから、社会(=経済社会)の空間の成立それ自体を問う本書の視角は、ほとんど必然的にその成立前史として(社会思想史というよりは)政治思想史が対象とするような諸系譜を扱うことを要請せざるをえない。また、タイトルにスミスの名が掲げられているにもかかわらず、スミスを検討の中心にすえるのが最後の二章のみにとどまるという一見したところの構成の奇妙さも、このような研究視角に由来する。スミスにおける市場の発見にいたる「前史」の探究に多くの紙幅がさかれていること、そしてその前史はとりわけ一般に政治思想史とみなされるような領域が中心となるということに、本書の顕著な特徴があるといってよいだろう。そしてこうした構成がとられていることは、実際には奇異であるどころかもっともな理由のあることであり、むしろこの点にこそ著者の着眼の独自性を認めることができる。
 従来の政治社会から区別された自律的な経済社会の成立や理論的発見に本書の根本的なモチーフをみてとることができるとして、問題はこの中心主題にたいして個々の章で扱われているトピックがどのような有機的連関をもっているのかということである。著者は、各章は単独でも読めるように執筆され、読者の関心のあるところから入ることができるような形をとったと述べている。実際、どの章もすべて「はじめに」と「おわりに」の節が設けられており、そのような読み方をするうえでは便利な作りとなっている。けれども、この点は同時に本書全体の立論構造を読みとりにくくしてしまっているようにも思われ、一長一短だと感じられる。各章をそれとして理解したとしても、それぞれの議論が本書全体のなかでどのような位置づけにあるのか、あるいは中心的モチーフである市場という概念的機構の発見について考察するうえで、それぞれの章に出てくるトピックはなぜ論じられる必要があったのかといったことが、どうも判然としないという印象がぬぐいきれないのである。そのため、通読した際に、個々の章は理解できても全体としての流れが一読しただけでは十分につかみきれないおそれが生じてしまっているように思う。この問題は、通常の個別的研究と比べて広大かつ複雑な射程をもつこの研究に固有の性格に多く由来しているといえるが、たとえば全体を二部ないし三部に分割してその各部にのみ「はじめに」を付け、そこで全体の見取り図のなかでの各章の位置取りを詳らかにするなどの工夫によって、ある程度までこの難点は軽減できるのではないかとも思われる。
 評者は、以下のように、全体を大きく三つの論点にわけて理解することができると考えた。
 (1) 第1章から3章まではスミスに先行する共和主義や自然法学をはじめとした政治思想の潮流を検討し、それが歴史的展開の過程でどのような内在的な困難や限界を顕在化させるか、そしてその困難をめぐる認識が掘り下げられていくなかでスミスにおける経済社会概念の誕生がどのように準備されていったのかが明らかにされる。スミスに先立つ思潮の政治的な性質がひとつの焦点となり、国制論や国家論、自由の政治的な理解(自治としての自由)、ポリス論を中心とした統治の学などが歴史的コンテクストのなかで彫琢されていった様子が描かれ、それらがスミスにとっての批判的乗り越えの対象ないし文脈を構成することになる。
 (2) 第4章から6章まででは、共和主義的自由観とは異なるところのある一種の個人主義的な自由理解が確立されるまでの流れが検討されているといえる。ホッブズ以降、共通善との一致が保障されない私的善や利己心の相対的比重が高まり、それは分業論においても、位階的秩序を前提するようなものから個人の自由を基底にすえた新たな分業論への発展という動向と相即しているとされる。さらに、やがて18世紀のオーガスタン論争のなかで、政治や統治への積極的参加として理解される共和主義的自由はもちろん、統治権力の介入からの自由という消極的理解からも区別された、著者独自の「第三の自由」理解が出現してくると論じられる。この第三の自由は、統治の空間とは異なる固有の領域を自律的に駆動させる格率とされ、ホッブズのような自然権思想の消極的自由(統治からの自由)とも異なったものだと著者は考える。消極的自由も統治との関係で自由が規定される点では変わりがないからである。政治的統治の空間とは違ったところで形成される自律的空間こそがここで照準されているのだ。この第三の自由観では、行為の結果ではなくその動機や意志が問題とされ(行為の適宜性は動機によって判断される)、著者によれば、そこから個別的経済主体の理論モデルが形成されることになる。そして、この流れに棹差しながら、第三の自由理解にもとづいてこの理論モデルを完成させたのがスミスであるという。すなわち、想像上の立場の交換を行いながらあくまで主観的意志にもとづいて行動する経済主体を想定し(公平な観察者もあくまで自己の内面に形成される)、それらが商品売買をめぐって交流する空間として市場が規定される。意志や動機をもった個別主体が織りなす空間として市場をとらえ返すことで、スミスは経済社会のミクロ的基礎を発見したのである。この視座の刷新によって、第三の自由は確固たる基礎づけを獲得し、統治ないし政治社会との関係のなかで定義されることをやめた自律的原理としての自由意志は、やはり政治社会から区別された自律的な経済社会の空間を(原理上は)作りあげるにいたった。これが第9章で論じられていることである。このように、4~6章―→9章という流れが確認できる。
 (3) 第7章と8章は、経済行動のミクロ的基礎づけとならぶスミスの体系のもう一つの特徴といえる文明社会史のパースペクティブへと直接つながっていくだろう系譜を、フランスの思潮を中心に描きだしている。スミスの「文明社会の自然史」とでもいうべき歴史哲学を思想史の系譜に位置づけるうえで、本書はビュフォンの自然誌や言語論、また同時代のチュルゴやミラボーの文明社会史をとりあげる。この点にも、本書の独自性をみることができるだろう。
 なお「結論に代えて」と位置づけられた終章は、ある程度は全体をまとめる性格もあろうが、(3)から続くものとして、文明社会史にもとづくスミスの経済社会の理解を明らかにした章とみることができよう。また同時に、継承よりもより乗り越えの契機が強調されはするが、(1)の最後の第3章「統治学と商業の精神」からの展開としても位置づけられる。したがって、大きな見取り図としては、(1)および(3)から終章(アダム・スミスにおける経済と統治)へ、そして(2)から第9章(アダム・スミスにおける経済主体の発見)へという、大きく二つの流れによって本書全体の構図をおさえることができるように思われる。

■「統治論(立法者の科学)としての政治経済学」という理解をめぐって

 常備軍論争と共和主義的言説の関係、商業の精神と近代的な歴史哲学の出現、一つに還元することのできない利己心論の複数の系譜をめぐる解釈など、ここでとりあげて論じてみたい主題は多岐にわたり、しかもそれらは一つひとつが優に一冊の本になるような重要な主題ばかりである。たとえば、上記(3)の文明社会史をめぐる考察についていえば、第8章のフィジオクラートやチュルゴとの比較はすでに多くの研究の蓄積があるものの、第7章ではさらにさかのぼって、スミスらの文明社会の発展史という枠組みの形成に深く連関した流れとして「自然史(誌)natural history」に注目しているのは興味深い点であり、ここからさらに史料的にも理論的にも掘り下げた研究がなされることを期待したいところである。というのも、近年の研究では長尾伸一『ニュートン主義とスコットランド啓蒙――不完全な機械の喩』のように、スミスにおける市場経済のヴィジョンないしイメージの由来を、当時の「自然科学」的知見と結びつけて解明しようとする動向が一定の影響力をもつようになったが、ニュートン主義の自然学=物理学からは直接には説明しがたい(ただし上記の長尾伸一の著作は、背景的パラダイムであるニュートン主義が単なる機械論的自然観ではなく、壊れやすく不完全な機械というコア・イメージを有していた点に注目することで、少なくともスミス的市場経済観のうちに認められる時間性――歴史性ではないにしても――の要素を正当に析出しうるものであった)スミスの経済社会観の歴史哲学的な性格を、(のちのダーウィニズム的生物学につながっていく)自然史や言語発達論からの影響という形である程度まで説明できる可能性が、新たに切り開かれるかもしれないからである。
 ここでは、終章のタイトルから察するに本書のおそらく最大の関心事であり、評者自身の研究テーマでもある統治論ないし統治術と経済社会(市場)との関係に論点をしぼって、検討を加えたい。この問題は終章をはじめとして複数の章にまたがって扱われているが、著者の理解は必ずしも明確に表現されているとはいいがたいように思われる。しかし全体から総合的に判断するに、統治の対象であり(ときに)主体である政治社会からは区別された空間として市場経済が発見され、そのメカニズムがスミスを通じて総合的に解明されたというのが著者の基本的な見解であって、その意味では先行する統治論からの脱却や切断の側面をスミスの市場観の中心に見出そうというのが、著者の立ち位置であるように見受けられる。著者はドナルド・ウィンチやクヌート・ホーコンセンら、「立法者の科学」としてスミス経済学をとらえ返そうとする近年の動向にも、どちらかというと懐疑的なようである。しかし評者には、本書が展開しているスミス解釈は、むしろスミス経済学を統治論ないし立法者の科学としてとらえる見方を支持する貴重な材料として読むことも可能なように思われる。
 たしかに、ポリス論を中心とする統治の領域を古典的な意味での政治社会と等しいものと考えてしまえば、その政治社会から区別された自律的な領域としての経済社会こそスミスが理論化した当のものであるという本書のテーゼは、おのずとスミスの体系の意義を、先行する統治論からのテイクオフにみることにつながるだろう。けれども、当時生じていたと考えられる「統治」概念の転換に着目するならば、このような等式は再考に付さなければならなくなるのではないか。すなわち、18世紀において政治権力の形態は法(正義)・主権の系列と狭義の統治・ポリスの系列とに弁別されるようになりつつあった、あるいは、そのような二分法のもとに政治を再概念化するになっていったという変化である。法権利や主権とは区別された新たな政治テクノロジーの領域の出現を、「統治性」という造語のもとに解明しようとしたのが『安全・領土・人口』のミシェル・フーコーであり、その衣鉢を引き継ぐ形で主権(法権利)と統治の二元論の歴史的探究に乗り出したのが、『王国と栄光』のジョルジョ・アガンベンであった。
 アガンベンも指摘するように、法を定立する主権と統治のあいだの概念的区分を明確に定式化したのはジャン=ジャック・ルソーであった。ルソーは、主権が一般意志の表現としての法(正義)にのみかかわるのにたいして、個別的行為である統治は「政治経済(国家財政)」を対象とするものであると述べる。この区別はおそらく、スミスの法学体系における狭義の法部門(正義論)と統治部門との区別、あるいは正義の法とポリスの法のあいだの区別におおよそ対応している。そのうえでスミスは、統治行為の主権への従属を唱えたルソーとは対照的に、主権権力を通じた正義の法の強制執行がなされるべき対象領域を最小化し(決疑論批判にもとづく消極的正義論)、そのような法に直接服すことのない(ただし交換的正義=所有権の保障を前提とした)「統治」の領域の極大化をおしすすめたといえるのではないか。
 この場合の主権権力と区別された統治権力とは、フーコーのいう「最小統治理性」、いわば「より少なく統治することでより善く統治する」という新たな権力のあり方をさす。それは従来の法権利のパラダイムにもとづく主権権力のように、直接に物理的行為を規制し、法に反する振る舞いを強制力をもって排除しようとするものではない。むしろそのような公権力の直接的介入をできるかぎり回避することで、統治の目標をよりよく達成しようとする、権力の新たな働きかけの形式である。この権力は規制的ではなく産出的である。主権権力と同様の規制的なしかたで、元来は法(公法)の対象ではなかったようなあらゆる臣民の行為を行政規則によって細部にいたるまで取り締まろうとしたのが、スミスに先行するドラマール的な「ポリス(統治政策)」論であった。これに対して、ムロンやスミスは、ポリスを中心とした個別的統治行為が対象とする市民生活civil lifeの領域が、主権にかかわる法的領域とは本質的に異なる性格を有すること(正義のような厳密な規則は妥当しないこと)を強調し、統治の最終目標である「公共善public good=国富wealth of nations」の最大化を図るには、各人の慎慮にもとづく私的利益の追求に任せたほうがかえって効果的であることを見出したのである。しかし、このことが意味するのは統治それ自体の否定ではない。おそらく、一切の政治的なものから自由な空間として経済社会ないし市民社会をとらえるべきではなく、たしかに法・主権モデルにもとづくタイプの権力の働きかけからは解放されているものの、しかし新たな権力の作動形態とは決して無縁ではないものとして市場を考える必要があるのだ。それは突きつめれば、正義の法をモデルとしない新たな統治の権力が産出した「自由な領域」であったとみることさえ可能である。
 本書の終章が強調しているのは、統治形態(共和政、君主政etc.)とは直接に連関しない自由の領域と、その歴史的発展にたいするスミスの着眼であり、それこそが政治社会に従属することのない自律的な経済社会の基盤であると論じられる。たしかに、共和政体のもとではじめて享受できる共和主義的自由(政治的自治としての自由)も望ましいものであり、北アメリカ植民地はそのような政治的自由の存在ゆえに豊かな文明社会を形成している。けれども、スミスによれば、共和政をとらないヨーロッパ大陸の一部の君主国(絶対王政国家)も、やはり文明社会の名に十分に値する国々である。著者は、政治参加の自由ではなく経済的自由を十分に享受しているかにスミスは文明のメルクマールをみたと考える。古典古代の観念とは異なる近代的な理解ともいうべきこの自由は、もはや政治社会との関係のなかで定義されたものではなく、自律的な経済社会の空間を駆動させる基本原理だというのである。ここでも、統治形態と自由概念の分離、そして統治(政治社会)の領域と経済の領域との分離が、基本的な構図となっている。これは近年の研究状況からしても興味深い論点であり、クエンティン・スキナーの共和主義研究によって析出された、共和主義的自由に対抗する自由の新しい構想として登場したホッブズ的自由観が――共和主義的自由概念とともに――スミスのうちに認められることを示すものだと受けとってもよいだろう。しかし、このような統治と経済的自由との分割の構図は、上に記した評者の見解(経済社会を統治と結びつけるそれ)と両立しないものではない。後者において「統治」が指しているものは、統治形態の問題ではないからである。むしろ政体論は最高権力の所在にかかわる問題なのだから、主権と統治の二分法のもとでは、主権の領域に属すことになる。その主権とは区別された、新しい権力形態として出現した統治の合理性が、自律的な経済社会の出現の背景にあってこの空間を権力実践のうちに産出するものだというわけである。

■ 地上戦と空中戦のあいだ

 以上、いわば「近代性の根源」をめぐる本書が提示するヴィジョンにたいして、評者自身の暫定的なヴィジョンをぶつけてみた。このようなことは、実証的研究からすればまったくの「空中戦」と映じることだろう。空中戦に陥ってしまう危険性は強く肝に銘じなければならないが、しかし、現状ではその危険を回避して着実な実証的研究のみに閉じてしまう危険性のほうをより大きく見積もらなければならないようにも思われる。いうなれば、このような批評(=批判)の空中戦を敢行することができるような対象が出現したこと自体が、驚くべきことだ。もちろんテクストの読解の着実な積み重ねも疎かにすることなくこのような総合的ヴィジョンの提示を実現した本書に、評者は率直にいって勇気づけられる思いがした。
 最後に、あまり本質的とはいえないかもしれないが、評者には本書の若干の難点と思われた部分をあげておく。一つは、あとがきにあったように経理上の問題できわめて短期間で加筆修正と推敲を行わなければならなかったという事情は勘案する必要はあるが、やはり日本語の文章に不自然なところが散見され、文章構成も時間をかけて推敲すればかなりの改善が見込まれるだろう箇所が少なくないように感じられた。このために生じていると思われる読みづらさゆえに、随所にみられる著者の鋭い考察や議論の大きな筋が不分明になってしまっている点はたいへん惜しまれる。全体として複雑で高度な議論を展開しているだけに、それをわかりやすく表現し伝えることが通常以上に求められるだろう。また、目次をみるとわかるように、全体の構造化のしかたにも改善の余地はあったように思われる。この点はすでに述べたので繰り返さない。最後に、先行研究としては、国家や政治空間とは区別される社会の領域の発見という全体を貫く問題設定がある以上、各章のそれぞれのトピックに関するもののほかに、膨大な蓄積のあるcivil societyの概念史研究についてもどこかの脚注で集中的に言及する必要があったように思われる。従来、civil societyの意味変容(政治社会から市民社会へ)にこそ、政治的なものから社会的なものが分出するプロセスが集約的に表れているとみなされてきたからである。

(評者:上野大樹)

更新:2014/12/05