書名:もえいぬ――正しいオタクになるために
著者:嶽本野ばら
出版社:集英社
出版年:2012

まずはこの奇妙なタイトルについて説明をしなくてはなりません。犬とは関係ありません。
嶽本野ばらは、1998年にエッセイ集『それいぬ――正しい乙女になるために』(国書刊行会)でデビューした作家・エッセイストです。当人は男性でありますが、吉屋信子らの少女小説の文体を意図的に取り入れた仰々しさを以て、「乙女」なる古風な語を現代に復権させた人物でもあります。
『それいぬ』とは、中原淳一が昭和21年に創刊した少女雑誌『それいゆ』に因んでおり、サブ・タイトルは「正しい乙女になるために」。とはいえ、大真面目に乙女の嗜みを論じているわけではなく、そのタイトル通り、いわば乙女なき時代の乙女論とでもいうべきユーモアとパロディ精神に満ちたものでした。彼の言う「乙女」とは、「ロマンチックでお上品でクラシカルで意地悪」。その後デビュー小説『ミシン』以来、リリシズムと関西風諧謔のミックスされた文体で以て、彼はそうした少女像を描き続けますが、その作風の最大の特徴は、作者の愛好するお洋服やそのブランド(作者風にいうなら「メゾン」)の固有名、それらについての詳細かつ熱っぽい薀蓄でありましょう。よって、若い女性の中でも殊にロリータ・ファッションと呼ばれる服装を愛する人が彼の中心的なファン層となっていたと思われますし、作者自身もそうしたお洋服を纏ってメディアに登場しました(ロリータ・ファッションは「ゴスロリ」と呼ばれて一般に知られるところとなり、揶揄の対象となったりもしましたが、両者は正確にはイコールではありません)。また、お洋服についての描写のみならず、パンク・ロック、現代思想、幻想文学etc などの教養(パンク・ロックを教養と呼ぶのはおかしな表現であるが)が鏤められている点も、若い女性の教養を高めようとした中原淳一の身振りよろしく、「乙女のカリスマ」の名に見合うものでありました。


それから14年、『もえいぬ』は、乙女論ではなく作者自身の「萌え」を語った書であります。
全篇、この作家特有の、衒学的かつヒューモラスな文体で「信仰告白」がなされています。
単なる好きなものについてのエッセイ集といえばその通りなのでありますが、私は特に、1.少女文化とオタク文化の関係 2.オタクのセクシュアリティ論の系譜 という点から興味深い書であると感じました。以下、これらの点を意識しつつ感想を述べてみたいと思います。


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まず、巻頭におかれた「シュル萌えイズム宣言」はまさに信仰告白の文章です。


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二〇〇九年の四月、京都アニメーション制作によるアニメーション『けいおん!』がスタートした。この作品の第一話を偶然、観てしまったことから僕は、”萌える”というこれまで全く経験したことのない感情を知り、自分とは全く無縁、否、色眼鏡でみていたが故に排除するべきだと信じていた”萌え”とそれを主題とする二次元に対し急激に傾倒していくことになる。


この”萌え”への傾倒こそが個人的にも、作家としても、重大事件であることをこの場を借りて、公言しておきたい。


“萌え”に就いて、まだまだ知識もなく、正面切って”萌えとは何か”を語れる準備すら出来ていない状態のまま、”萌え”――二次元――に対する論考をどうしてもしたためたくなった。

(2頁)
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著者はもともと、ロリータ・ファッションの普及を支えた者として、オタク文化には嫌悪感をもっていたのだといいます。
私も、90年代後半から2000年代にいずれも脚光を浴びた、「オタク・萌え」文化と女子の「ロリータ」文化の関係については、当時興味深く思っていたところでした。(両者は現在「カワイイ」文化、クール・ジャパンの代表として海外に輸出されようとしています。)両者は、メインの若者カルチャーと一線を画したカルチャーであったという点でまず共通していました。
(ここでいうメインの若者カルチャーとは、スポーツや異性愛やおしゃれなハイブランドに彩られた、現在では「リア充」と一括される文化を想定しています――このイメージも現在では古いものなのかもしれませんが、少なくとも90年代中盤までの若者カルチャーのイメージとしては間違いではないと思います。)
また、成熟よりも少女性を尊ぶモチーフにおいても両者は近縁性をもっています。象徴的であるのが「メイド服」でありましょう。「メイド服」はそもそも西洋由来のものですが、「ロリータ」文化はそれをフリルやレースに飾られた可愛らしいお洋服として、「オタク」文化は「萌え」るコスチュームの一類型として、それぞれにドメスティックに取り入れています。秋葉原でアニメキャラやメイドの「コスプレ」をしている女性と、原宿で「ロリータ」を着ている女性のファッションは、事情を知らぬものには実に似たものに見えました。

……という近縁性をもつ一方で、両者の間には、深くて暗い川がありました。
当時ロリータ・ファッションを愛好する女性のサイトを見ると「コスプレと一緒にしないで」「ロリータはコスプレではありません」という文言が散見されたものです。そこではしばしば「性的な視線で見られるコスプレに対し、ロリータは性的なものではない」という論調が見られました。
京都で象徴的であったのは、寺町通でありました。当時寺町通には、「信長書店」というオタク文化に親和的な書店と、Emily Temple Cute というロリータ・ファッションの大御所である服屋が向い合って立っていました。「信長書店」に売られているコスチュームと、Emily Temple Cute のフリルのワンピースは一見とてもよく似ていましたが、どこかぎらぎらした書店に対し清楚な少女性が強調された服屋、と両者の佇まいはまったく異質であり、ジャック・ラカン描くところの性別化の図式における交差することのない矢印を連想させたものです。
(注:もちろん個々人としては、ロリータ・ファッションが好きでアニメも好き、という人は大勢いたでしょうし、ロリータ・ファッションを愛好する人が必ずしも性的なものを嫌悪していた、というわけではありません。)

このあたりの機微には本書でも触れられています。
筆者は当初、ロリータ・ファッションを愛するものとして、コスプレが「ファッションを陵辱するもののように感じられた」(156頁)といいます。ロリータが日常的に己のアティテュードを示すファッションであるのに対し、コスプレはあくまで非日常の安全圏で二次元を愉しむツールである、という点で。またここで「陵辱」という語がわざわざ選ばれていることは、コスプレというオタク文化に筆者が性的な暴力性を感じていたことを示すでしょう。
が、今や筆者はコスプレと和解します。ひとつは、ロリータ・ファッションの普及に二次元が貢献したのではないか、という理由、もうひとつは、二次元の中でロリータ・ファッションは正当なファッションとして扱われているからという理由です。二次元においてロリータは「面白い格好」でなく「ポリシーを持った特別なファッション」として描かれていたとし、筆者はいくつかのライトノベルの例をあげています。そうした例はたしかに、ロリータ・ファッションが認知され始めた当初、それがテレビ等の中ではキワモノ的に扱われたこと(例:アイドル「ロビンちゃん」など)とは対照的でしょう。

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オタク、二次元の世界は最初、ロリータ・ファッションをメイド服などと共にポルノグラフィーのツールとして取り入れました。しかし、ロリータをファッションとして正当に扱い始めたのもまたオタクであり、二次元だったのではないでしょうか。(158頁)
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このように、まさに本書はこの作家の「転向の書」です。
ところでここで興味深いのは、この、「オタク」が、(筆者によると)「ロリータ」すなわち「少女」的なものを正当に評価しつつ、ポルノグラフィーでもある、という両義性です。この両義性は本書を貫く両義性でもあります。


さてさて、ともあれ本書前半では、二次元に対する「萌え」の発芽が熱い筆致で語られます。

まずきっかけは『けいおん!』の「秋山澪」。普段観ないアニメを偶然観てしまった筆者が、その面白さに毎週見ているうちにいつしかキャラクターにドギマギするようになりある日「これって萌えてる?」と気づいたという描写(8頁)は、神聖かまってちゃんが「ロックンロールは鳴りやまないっ」で歌ったところの、「何がいいんだか全然分かりません」と思っていたはずのロックにある日覚醒する過程のようにリアルです。「オタク」と呼ばれる人は皆こうした萌えの発芽の歴史をもつのでしょう。『けいおん!』に萌えた筆者は次は涼宮ハルヒ、初音ミクと次々新たな「萌え」対象を得てゆきます。初めてのアキハバラ、アニメイト、メイド喫茶を体験するくだりは、著者の興奮が伝わってきて読んでる側までわくわくします。二次元にハマる中で著者は、当初犯罪者予備軍とされながら市民権を得てきたオタクの歴史を、自分が関わってきたロリータの歴史に重ね合わせ感慨に耽ったりもします。また、
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萌えの目醒めは僕にロリータ、SEX PISTOLS、澁澤龍彦に出逢ったのと違わぬ人生を狂わせるだけの衝撃と意識改革を与えました。(19頁)
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などなどと、これまで彼の読者が親しんできたであろう固有名(他にもブルトン、バタイユ、ロートレアモンetc)が散りばめられた文体で「萌え」への目覚めが語られているのが、この作家らしいところです。


そうでありながら、セクシュアリティを中心問題としている点、そこから「コミュニズムとしての二次元」を導く発想は、2000年代の、精神分析からオタクを論じた斎藤環や、オタクを「恋愛資本主義」へのアンチとした本田透らのオタク論の流れを継いでいます。
まず、セクシュアリティについてですが、筆者ははっきり「萌え」=ポルノグラフィーと定義します。

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諸君! 従って、萌え系作品は程度の差こそあれ、普く、ポルノグラフィーなのだよ。(116頁)
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ここは、「萌え」=ポルノグラフィーという面だけを強調するのは一面的な見方である・実情にそぐわないなどの異論も生じるところでありましょう。とまれ、差し当たって筆者の言に沿って読み進めますと、女の子たちのゆるい日常生活を描いた萌え系作品は多くありますが(『あずまんが大王』『らき☆すた』『けいおん!』etc)、筆者は「それさえ実はエロスに還元されます」(144頁)と断言します。
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ポルノグラフィーとしての彼女たちの輝かしい高校生活を我々は、鑑賞し、萌えまくるのです。この……萎えた肉棒と共に!(145頁)
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ですが、筆者が当初「萌え」に否定的であったのも、まさにこのポルノグラフィーとしての側面に対してであったといいます。「萌え絵の少女達はすべて性的対象としての匂いを有している」「女子という存在を冒瀆されている腹立たしさを感じずにはいられなかった」(107頁)「怯えたような表情にしろ、ツンデレにしろ、虚空を彷徨う視線にしろ、あどけなさにしろ、少女達に与えられたパーソナリティーは欲望を満たす目的の為のみに与えられている。レイプの現場を目撃するような嘔吐を萌え絵は喚起しました」(108頁)。
筆者はこれまでの作品で、「少女」に或る種の潔癖さを仮託してきました。たとえば『ツインズ』(2001年)には売春する少女が登場しますが、彼女は売春をするときは、自分の愛する Jane Maple の服を纏うことを恥辱とし、けっして身につけません。もちろんこれだって或る種の欲望に基づいた、体は許しても心は許さない古典的な娼婦像であって、それが現実の「少女」と同一であるかといえばけっしてそうしたわけではないのですが、少なくともこれまで意志をもつ少女を描き少女の側に寄り添おうとしてきた著者が、少女を「ポルノグラフィー」として眼差す側に立つ、というスリリングさがこの転向の書の見どころでありましょう。


そのスリリングさが際立っているのは、後半の、AKB48についての記述です。


以前京アカのイベント「批評鍋」にて『PLANETS』の書評を行った回(2013年3月)にAKB48の話題が出たのですが(なおこのとき配信の閲覧者数が瞬間的に跳ね上がったことを記しておきます)、その際私は、このアイドルグループについて否定的な発言をいたしました。というのも、別にこのグループ自体が気に入らないわけでないのですが、その売りだされ方・消費のされ方にどうにも苦しいものを感じたからでした。
まずそれは、子どもの頃、「美少女コンテスト」なるものをテレビで観たときに感じたショックに似ていました。そこでは少女たちが、体重や身長や目の大きさが顔面に占める割合(!)を測定され、基準値より脱落した敗者が嘲笑される姿が映し出されておりました。私は、自分がこのように容姿で選別される性なのである、ということにまず無力感を覚え、かつ、その選別のために自発的に努力する少女たちの姿にショックを受けたのでしたが、「ルックスがアドバンテージ」であるAKBの「総選挙」にもそれと同じ嫌悪感を覚えたのでありました。それに加え「恋愛禁止」という掟によって、アイドルの性的無垢性が露骨に付加価値とされている点にも。
更に、「その理不尽な世界で生き抜く少女たちに、この不況下で働く労働者たちが自分を重ねる」という話がその場で出たのでしたが、これに私は、なぜ「少女」に投影するのだ、と反発を覚えたのでした。投影したいのなら「労働者48」でも結成して自分たちで歌い踊ればよいではないか。或いは理不尽な労働環境が気に入らないなら労働運動でもすればいいではないか。労働者が自分を重ねるとかいいつつ結局は、男/女=観るもの・消費するもの/観られるもの・消費されるもの という古式ゆかしき女衒システムの非対称に則っているのではないか!と。(あくまでファンでないものが断片的な情報をもとに感じた感想であり、また、アイドルの主体性や女性ファンの存在を無視した雑な論である、ということはお詫びしておきます。)


本書では、ファンという当事者の立場から、そうしたアイドルたちへの「萌え」が語られている点をまず興味深く読みました。
筆者(ちなみに板野友美さんのファン)はAKB48を「限りなく二次元に近い三次元」(50頁)とし、48人ものメンバーが存在することを「ハーレムアニメ」に喩えています。「どんなタイプのコもご用意致しております。まるでフーゾク店の広告じゃないか」(p.112)「AKB48を応援するということはハーレムアニメの主人公になることである」(p.113)。成程、「恋愛禁止」の掟も、その二次元性を保つためというわけです。
また、秋葉原の小さな劇場から次々スキルをあげていく彼女らをRPGに喩え、「何故、ポジションを選挙で決められなければならないのか。じゃんけんで勝ち取らなければならないのか。真の理由を知らされていない」というように不条理に頑張らされる少女たちへの「萌え」を、やや露悪的な口ぶりでこのように語ります。
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意思とは関係なく戦闘させられる少女達――の姿が、アニメのヒロインのようで萌える。彼女達はエヴァンゲリオンのパイロットであり、ストライクウィッチーズであり、魔法少女まどか☆マギカなのです。
戦わされる宿命の可哀想な少女らを見物して愉しいのか?
ああ、愉しいんだよ。鬼畜だ。
僕はね、ひめゆり部隊にすら萌えるんだ。(126-7頁)
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驚いたのは、この「可哀想な少女ら」への「萌え」から、「百合」嗜好が導き出されることです。

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せっかく芸能界に入ったのに個としてではなく団体としてしか認識されないシステムも、武道館というプレッシャーの中、じゃんけんで順位争いをさせられるのも、昨日は代々木体育館でコンサートをしていたのに今日はまた、秋葉原のドン・キホーテのビルの上にある二五〇名程度の劇場でステージをこなさなければならないのも、罰ゲーム。何の罪もないけれども、手を替え品を替え、少女達は日々、罰ゲームをさせられる。
(略)
そんな罰ゲームを強要されるメンバー達は、何時しかその特殊な体験を享受し続けるうち、自発的、否、自然発生的に、一種のコミューンを形成し始めたのです。(略)そう、君も好きな『マリア様が見てる』の世界を、百合の、エスの――小宇宙(ミクロコスモス)を彼女たちは構築してしまったのです。
(130-131頁)
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そういえばそもそも筆者のデビュー小説「ミシン」は、吉屋信子らが大正に描いた「エス」の世界を復権させようとしたものでした(「エス」についてはwikiを参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9_%28%E6%96%87%E5%8C%96%29)。
「百合」はやはり女性同士の同性愛的関係を題材とした作品を指しますが、オタク文化においては2000年代に、専門誌が刊行されるなど「萌え」の一類型として定着したようです。
筆者の言うには「百合」嗜好とは、少女たちの関係を「見守っていられればそれで満足」(132頁)という種の幸福であり、対象を所有しようとしないことです(オタクの欲望のあり方に「男/女=所有する/関係性に萌える」という男女の定型が見出される、としたのは2000年代の斎藤環氏の論でしたが、ここではそれが覆されています)。
このスタンスは、「萌えのエロチシズムというものはインポテンツのエロスなのです」(146頁)という筆者のテーゼにつながっていきます。

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萌えとはインポテンツの妄想なのです。勃起する時、男子は雄としての使命を遂行しなければなりませんが、インポテンツとなればもう雄として不要、現実の恋愛から排除されます。結果、肉体を伴わぬリビドーは萌えとして新しいエロスを起動させます。(147頁)
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新しいエロス。筆者は冒頭の章にて、(「現実世界でモテない人が萌えなんかに向かうんだ」という類の言い方に対し)「萌えは現実の恋愛の代用品ではない」「萌えという恋愛感情/或いはエロチシズムは独自性を確立したものとして存在するのです」(8頁)と述べていますが、ここでその「独自性」が説明されたわけです。
この「インポテンツのエロスとしての萌え」という発想は、「コミュニズムとしての二次元」という主張につながっていきます。
いわく、「萌え」は通常の恋愛のように相手を独占することに労力をかけたりしない。最初から独占できない(だって二次元なのだから)のを知ったうえで、お金を出すのは所有の欲望よりもリスペクトの精神からである。「皆のものであるからこそ萌える。(略)共有(シェア)の思想があればこそ萌えは成立する」(208頁)。AKB48における「恋愛禁止」ルールもそうして共有される彼女らの二次元性を守るためです。また、実際「萌え」趣味は、世間で思われているほどお金のかかるものではない。「既成の婚姻の概念も、所有への執着も、全く意味を失ってしまう。僕達は”萌え”によって、”資本主義的な価値観”から軽やかに飛翔するのである」(3頁)


という具合に、「萌え=ポルノグラフィ」とする筆者の仮説は、「萌え=脱・資本主義」というところに帰着します。ところで、そのとき、筆者が当初違和感を抱いたところの、一方的に都合良く眼差されるところの「女子という存在」はどこへ行くのでありましょう。「萌え」がコミュニズムであるところで、またそれがインポテンツのエロスであるところで、やはりそこに筆者が当初違和感を感じたところの「萌え」られる客体としての女の子の存在がなくなったのではないわけですが(さらにAKBのごときアイドルの場合そこに生身の女性が存在するわけですが)、筆者はその違和感とどう和解したのでしょう。

筆者は一応の結論を出しています。
というのは、「リビドーが変容した」(211頁)という結論です。
今や少女たちは自らもオタクとしてメイド服を着、「萌え」というポルノグラフィーに対し、「傷付く程、彼女達は柔ではない」(211頁)。また、自分はこれまで少女を守ろうとしてきたが、守られる側はロリコンの欲望などなんとも思っちゃいなかった、「男性の欲望を逆手にとり、自分達の萌えとして昇華させる知恵を少女達は有している」(212頁)。


ここで、「少女」という筆者がこれまで一種神聖に扱ってきた対象と、その少女に「萌え(=ポルノグラフィー)」を抱くこととの葛藤は、一応の解消を見るわけですが、この結論は果たして妥当であるのか? さてさて、と、結論を保留したまま拙書評を締めることといたします。


(評者:村田智子(むらたさとこ))

更新:2014/04/20