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ミルチャ・エリアーデ著、 大室幹雄訳
 『鍛治師と錬金術師』

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書名:鍛治師と錬金術師

著者:ミルチャ・エリアーデ

訳者:大室幹雄

出版社:せりか書房

出版年:1973


 

少年期から多数の論文、小説をものしたというルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ。彼の膨大な著作の中でも、「紛れもなく最高傑作の一つ」と訳者堀一郎に言わしめているのが、本書『鍛治師と錬金術師』(エリアーデ著作集5)である。
 一見したところどうしても怪しく、極めて神秘的なベールに包まれている(ように見える)錬金術の研究は、実は現在でもかなり大まじめに行われている。かつてのように錬金術を無知蒙昧な前時代の産物ととらえる向きはもはや跡形もない。特に近年目覚ましいのは、ルネサンス期の魔術思想に対する文化史的な研究である。F・イエイツやP・ロッシの研究をあげれば十分足りるだろうが、従来の科学思想史に対するある種の見直しの傾向が20世紀初頭からすでに巻き起こっていた。それらの研究は、近代という時代を形作った思想の中に、ヘルメス哲学や魔術思想の残存を見ようという、途方もなく興味深い研究だ。エリアーデも本書においてまさにそれらと同様な指摘を行うのだが、それは極めてスリリングで、かつ重要な問題提起であり、近代科学やとりわけ経済学の成り立ちに魔術思想を持ち込んで、それらの体系を一から組み替えてしまいたくなるような、そんな野心を駆動させてしまう一種の〈魔術性〉を持っている、と私は思う。
 エリアーデは、自然界に内在している物質に対し、儀礼的態度で冶金術師が対すること、すなわち物質の変化に「恊働する」ことこそ、錬金術師の思考の核であると考えている。自然は放っておけば様々な鉱物を産出する。古く冶金術師は自然の鉱物の産出過程に介入し、自然がより速やかに鉱物を作り出すことを手助けしているのであって、その態度こそ錬金術の源泉だというのである。

「自然の活動に協同すること、永遠に増加する速度で産出するように自然を援けること、物質の形体を変化させること―ここに、私見によれば、錬金術の観念の主要な源泉が横たわっている」(p.9)

 このように書くときエリアーデの思考の中にあったものは、ホモ・ファベルhomo faberである。そもそもエリアーデによればインド=ヨーロッパ諸族の神話にあっては、鍛治師は相当に高い地位を与えられていた。それは自然現象としての神の武器(雷電、稲妻)を鍛えることのパラレルとして鍛治師が存在するからであり、鍛治師は神を援助する道具製造者なのである。ホモ・ファベルの神化がここにおいて決定的なものとなっており、ものを製造するということそのもの、そしてその造物主的能力が神話学的に称揚されるのである。来るべき工業時代におけるホモ・ファベルの勝利の前兆は、ここに見ることができる。
 錬金術とは「ホモ・ファベルの非常に古い夢想を、すなわち物質を完成させると同時に自分自身のためにも完成を確実にするための恊働を延命し完全に成し遂げた」(p.212)のだった。自然を変化させ新たな形式を創造しようとする工人artifexの熱望は、錬金術操作によって引き継がれ、完成させられた、とエリアーデは考えている。

「聖なるものとみなした、あるいは聖なるものとして啓示されうるものとみなした自然を変成することに着手したとたんに、西洋の錬金術師はホモ・ファベルが始めた非常に古いプログラムの最後の場面を仕上げた。錬金術的変成の観念は人間の労働(つねに或る礼拝的な意味を有していた労働)によって自然を変化させることが可能であるという信仰の神話的な究極点なのだ」(p.215)

 ここでエリアーデは本書における一つの結論に触れている。世界を改良せんと欲するホモ・ファベルの思いは、錬金術師において完成させられた。それは太古からホモ・ファベルが抱いていた、人間の労働によって自然を改変し、なすがままにしたいという熱望の昇華なのだった。そしてその錬金術師の自然に対する態度は19世紀を支配した経験科学と産業化の進歩の中にとけ込んでいく。単にとけ込むだけではない、錬金術師の徳性や哲学性を排除した極めて冒涜的なエッセンスのみ抽出して、自然を改変し征服したいという欲望のみを価値体系の中に取り込んでいくのである。
 エリアーデは自然を変化させる責任を我がものとすることを、人間が時間に取って代わったという言い方をする。自然が長い時間をかけて産出する物質を、錬金術師は数週間で達成することが出来る。それは人間が時間の位置に置かれたからである。近代社会においては人間が時間に取って代わることで、自然の支配者となり、自然の速度を加速させて効率的に生産を行うこと欲望することになる。まさにこれこそ近代産業社会のエートスであり、それは「自然の全体的な『変成』、つまり自然を『エネルギー』に変形することを目指す産業社会の悲壮なプログラムの中に残存している」(p.216)のである。そう、例えば、

「バルザックとヴィクトル・ユゴーの文学的観念体系に、自然主義者たちの仕事に、資本家であれ、自由主義者、マルクス主義者であり、その経済学の体系に、物質主義、実証主義、それに無限の進歩といった世俗化された神話のうちに―要するに、ホモ・ファベルの限界なき可能性への信仰がある至るところに、労働と工業技術と自然の科学的開発の週末論的な意味が姿を現わす至るところに」(p.217)

 なんと蠱惑的な一文だろう。エリアーデは、太古の歴史に根ざした錬金術の観念が近代社会の観念体系のうちにどのように存続したか、そしてどんな結果をもたらそうとしたかを示している。この論考自体が魔術的な魅力を放っているのだ。またエリアーデは錬金術師の物質への関わり方を、「労働」という近代社会で極度にクローズアップされた概念に接続することを想定し、さらに本書では展開されないが、それを近代社会の批判的な検討に援用しようとしているのであって、だから本書はいわば労働論を巡る重要文献なのだ、といってよい。
 本書によれば人間は太古から自然に改良を加えることを夢想してきた。それは近代諸科学の成立によって錬金術師が持っていたテクニックとはやや違う形で継承され、かつそれを敷衍してさらに巧妙に生産活動を行うようになったのだった。我々は現代社会を規定するこの精神の系譜を意識する必要があるし、これを乗り越える精神性を獲得することが不可欠である。
 

(評者:師道 新)

更新:2014/07/31