書名:哲学カフェのつくりかた
著者:鷲田清一
監修:カフェフィロ [CAFÉ PHILO]
出版社:大阪大学出版会
出版年:2014

▼哲学カフェへのさらなる招待

「哲学カフェ」や「◯◯カフェ」ということばをよく耳にするようになった。哲学カフェとは、平たく言ってしまえば、街なかの喫茶店などで数人から数十人が集まって、コーヒーを片手に打ち解けた雰囲気の中、あるテーマ(たとえば、幸福とはなにか、大人とはなにか、お金とはなにか、など)について対話するイベントである。哲学カフェについて詳しく知るもっとも直接的な方法は、百聞は一見に如かずで、イベントが開かれている場所に出かけて行って実際に参加してみることだろう。しかし、それが唯一の方法というわけではない。本書は、哲学カフェについてより理解するための道案内をしてくれる。ただし、それは実際に参加するのとは別のしかたで、である。

本書は、哲学カフェやワークショップ・イベントを展開している「カフェフィロ」という任意団体が編集したものである。「カフェフィロ」は大阪大学の臨床哲学研究室の教員や院生が中心となって設立された団体で、大阪、京都、神戸など関西をはじめ仙台、東京、名古屋、岡山などの各地で活動を行っている。ちなみに、臨床哲学という試みは哲学者 鷲田清一氏らの呼びかけで進められてきたもので、この本の監修も鷲田氏が務めている。大阪の「釜ヶ崎(通称 あいりん地区)」と「哲学カフェ」という一見すると意外なカップリングからはじまるコンパクトな監修の辞は、ここだけ読んでも充分に勉強になるくらいだ。

この本の構成を紹介しておくと、第1部が導入編で、各地で継続的に開かれている4つの哲学カフェが紹介される。さらに第2部では、一冊の本について話し合う「書評カフェ」や映画館で上映後に作品の感想を言い合う「シネマ哲学カフェ」、絵画を題材にした「ミルトーク」、医療をテーマにした「メディカル・カフェ」という4つの多彩なかたちの哲学カフェについて、第3章では、2011年の東日本大震災の直後に仙台で行われた哲学カフェについて書かれている。そして、第4章「哲学カフェを考える」では、イベントの運営のことや舞台裏の事情、哲学カフェ活動の意義についての議論が収められている。

この構成からもわかる通り、本書の内容はたんなる哲学カフェの紹介ではない。活動の紹介に加えて、哲学カフェの企画や運営はどのようにすればいいのか、哲学カフェを開催することや参加することにはどんな意味があるのかという問いにまで立ち入っており、実践と理論とを結びつけるような優れた批評的視座を与えてくれる。私もカフェ・イベントを企画する側でもあるが、もうすでに哲学カフェ参加したことのある人やイベントの開催者が読むとまた新しい発見がいくつも見つかるのではないかと思う。

▼「おしゃべり」と「対話」はどう違うのか

それでは、具体的な内容を少し紹介しよう。第3章の「お母さんの哲学カフェ」のエピソードがおもしろい。一般的に、哲学カフェは多くの人が参加できる休日の午後や平日の夜に開かれることが多い。そんな中、育児サークル「グリーングラス」の場合は、平日の午前中に哲学カフェが開かれる。その理由は、参加者が幼稚園、保育園に通う子供のお母さんたちだからだ。家事や育児の空き時間に、毎回数人〜十数人のお母さんたちや妊婦、保育士、男性が参加するという。

テーマは「正直なことはよいことか」や「ふつうって何?」、「働きがいとは?」など、とても哲学カフェらしい。ところで、「いつもおしゃべりしているのに、なぜお母さんたちはわざわざ哲学カフェを開くのだろう?」 イベントのスタッフであり、著者の一人でもある松川絵里さんはそう問いかける。哲学カフェの魅力はどこにあるのだろうかと。

ある日のテーマは「友だちを使い分けることはできるか?」というもの(お母さんたちの普段の悩みをもとにして決まった)。はじめは、「ママ友同士のつきあいで悩んでいる」というような具体的な悩みとか、それに対するアドバイスのやりとりで会話は進んでいく。その時点では普段の「おしゃべり」と何ら違いはない。変化が起こったのはその後である。

開始から40分ほど経ったときに、ある一人の参加者が発した言葉が場の空気を一転させた−「ところで、ママ友って何?」 それまでとくに意識されずに使われていた「ママ友」という言葉が、その問いかけによって「問い」として浮かび上がってきたのである。つまり、そこではじめて、「ママ友」という言葉がもつ前提が揺さぶられたのだ(その後の議論の続きはぜひ本書を読んでいただきたい)。これこそが哲学カフェの醍醐味であるというのは、まさしくその通りだろう。普段は当たり前だと思って通り過ぎていることが、じつは当たり前ではないことを再発見させてくれる。それは「対話」ならではの特徴である。

▼自由になる場所

もちろん、多くの人が哲学カフェに集う理由はそれだけではない。もう一つ、哲学カフェが人々を惹きつけるのは、そこが所属から自由になれる空間だからである。わたしたちは誰しも仕事や生活の中で所属や肩書をもった存在である。母親として、上司として、学生として、研究者として、公務員として…。それらはアイデンティティの一部として重要であると同時に、発言や行動を制約する負担にもなる。

しかし、哲学カフェの場ではそうした立場の違いは問題外である。哲学カフェでは、誰がどんな立場で発言したかではなく、何が語られたのかこそが重要になる。つまり、純粋に論理や思考の内容のみが対話の対象になるのである。哲学カフェで自己紹介を必要としない理由もじつはここにある。そこでは、お互いの立場(たとえば部下と上司)に配慮しながら、相手の発言に返答するようなコミュニケーションとは無縁である。お互いに顔を突き合わせながら、しかし、自分や相手の立場は問わないという、”半匿名的”な対話の空間が大きな魅力になっているのである。

▼哲学の日常化

最後に、哲学カフェに対する疑問―哲学カフェは哲学的な営みなのか―についての私の考えを付け加えておこう。哲学カフェの活動に対して外側から(そしてときに参加者自身からも)寄せられる不満、批判として、極端に言ってしまえば次のようなものがある。哲学カフェで話されていることはまったく哲学的ではない。その批判の意味するところは、哲学カフェの議論の内容は哲学書の厳密な読解に即したものでも、過去の学説の蓄積を踏まえたものでもなく、専門的な吟味に耐えない。したがって、そのような議論は哲学としては価値がない雑談に過ぎない、というものである。しかし、こうした批判は、哲学、さらに言えば学問一般に対する見方の一面でしかない。

哲学ということばは「フィロソフィー」の翻訳語だが、原語とはずいぶんことばのもつ響きに隔たりがある。哲学の元々の意味は、愛する(フィロ)+知(ソフィア)、つまり、「知を愛する」という意味である。よく言われることだが、西洋では哲学はとても身近なものである。それは西洋の人々が特別頭が良いからではない。そうではなくて、西洋では哲学のことばが日常のことばと同じだからである。たとえば、近代でもっとも深淵で難解な哲学者の一人だと言われているハイデガーの基本用語「現存在」は、原語のドイツ語(Da sein)だと小さな子供でも話すような簡単なことばである。

ところが、日本語に翻訳されると、非日常的な特殊な用語に変わってしまった。おそらく、それが今日まで続く、哲学に対して縁遠いイメージが定着してしまっていることの一因だろう。しかし、元々の哲学の由来に立ち戻れば、哲学は大学の中だけで研究されるだけの対象ではなかった。むしろ、人々の日々の生活や活動と結びついた実践的な知識や知恵でもあったのだ。こうした観点から見れば、哲学カフェは、哲学をふたたび日常と結びつける、きわめてオーソドックスな営みだと言えるのではないだろうか。

(評者:大窪善人)

更新:2014/10/11