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重田園江著、
 『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』

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書名:社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ

著者:重田園江

出版社:ちくま新書

出版年:2013


 

■ 本書の議論の骨子はどこにあるか

 本書に不満がないといったら、嘘になる。以下で展開する批評=批判のなかで、それを多少なりとも議論といいうるような水準にまでもっていきたい。けれども、それに先だってはじめに述べておきたいのは、評者がどうにか本編の最後までたどり着いて「おわりに」を読んだとき、そこまでに抱えていた本書の議論にたいする大小の不満や批判の萌芽が、ほとんど吹っ飛んでしまうくらいにはそれに感銘を受けたということである。評者は最後にこの部分を読んだが、まだ読まれていない方には、まずはそこで著者の「思い」に触れてから、本編に挑戦することを勧めたい。複雑でときに錯綜する議論を最後まで読みとげるための忍耐強さを与えてくれるように思うからである。
 しかし、もちろん結語を読んで得た感情の動きでもって、そこにいたるまでに蓄積したはずのストレスをすべて浄化してしまったのでは批評などできないので、さしあたりはそれに先だっての読書中の感触を思い起こすことから始めてみよう。本書のもっとも基本的な特徴は、次の点にある。このような恐るべき大問題に、このような名だたる大思想家のあいだを次々と渡り歩きながら、紛れのない直球勝負で立ち向かっていくという姿勢、そしてそのようなチャレンジングな試みを新書という枠でやってしまったということ、これである。それには、当然のことながら善し悪しがある。率直な印象をいえば、やはりそのことのリスクは小さくなかったように思う。単純にいって、これだけの問題を扱うならば、やはり最低でもそれぞれの章の記述にこの倍の紙幅は割く必要があったのではないか。通り一遍の解説をするだけならこの分量でもよかったかもしれないが、いうまでもなく著者がしたかったのはそのようなことではない。社会契約論の本質にずばり鋭く切り込むこと、これが本書で目論まれたことだった。各論者の思想の表面的で形式的な要約では済ませず、人文社会科学のこの根本問題に正面から取り組もうとするならば、おのずと論述は著者の思索の形跡を明確にのこすような、込み入ったものにならざるをえまい。たしかに、それにもかかわらず可能なかぎりシンプルに整理された箇所もあってその手並みは称賛するほかないが――たとえばロールズの正義論を扱った4章2節――、やはりどうにも議論が込み入って、一読しただけではその全体を走っているはずの筋がつかめず、迷路のなかに放置されるかのような場面が少なくない。しかし、これは致し方のないことである。否、そうでなければならない。本質的な問いへとむかって、自前の思考で手探りで進もうとしているとしたら、そうした錯綜と混乱とが叙述に含まれていなければうそである。だからここで言っているのは、行きつ戻りつの思考錯誤の過程をすべて排除して、議論を極限までスリム化させるべきだということではない。そうではなく、このような大胆な挑戦は、新書だからこそできたのかもしれないが、しかし新書という器には容易には収まらない試みでもあるということである。
 さて、社会契約論とは、冒頭部で示唆されているように、自然ではなく作為の契機を重視する考え方である。つまり、社会の秩序やルールはどこからともなく自然と形成されるものなどではなく、明確に「人工物」だとみる思想である(ただし、社会契約論においても人間界の秩序はたしかに自然界とは異なるが、人間本性という形での自然をも排除するものでは必ずしもないのだが)。ルールは人知の何らあずかり知らぬところで自然に決定されているとはいえないのだから、何らかの意味でその正当性/正統性が問われるのだが、社会契約論では(公共の)効用についての帰結主義的な論拠のみによって正当性が与えられることはなく、社会の起源やその創設の場面において正当性が根源的に(⇒original)問われるのが特徴である。このような理解は、本書の議論の基礎を形づくるものではあるが、むしろ広く一般に共有された認識であろう。
 では、本書の議論の骨子はどこにあるのか。おそらく最大のキーワードは「一般性」である。一般性の次元に立つとはいったいどういうことなのか。このことを考え抜いたのが社会契約論の系譜であり、とりわけルソーからロールズへという流れに(仮想敵としてのヒュームもそこに深く関わりながら)この思索が集約的に表れている。本書が強調するのは、日常の生活をおくる人間がこの一般的な観点に移行する際の、「断絶」の側面である。この断絶の強調は、おそらくホッブズに淵源する。社会学ではたとえばダブル・コンティンジェンシーとして規定される「ホッブズ問題」は、ホッブズにいわせればそれが自然な流れのなかで徐々に解決されていくということはありえない。ホッブズは、秩序形成の一回性、そして法治状態への転換の絶対的性格を強調した。ある例外的で特権的な瞬間において、それまでの闘争的な自然状態は全面的に止揚されて、一挙に政治秩序が出現するというのである。それはいわば近代的に再解釈されたメシア的な時間であり、そこで生じる自然状態から法治状態への転換は、一種の革命であるとさえいえるだろう。これに対して、ヒュームに代表されるスコットランド社会哲学は、社会秩序の形成が徐々に緩やかなしかたで進んでいくとし、絶対的な起源を想定することを忌避して「時効」の概念に訴える。そこで一般的観点は、人間の日常的な共感能力の自然な延長上に設定される。この構図のなかで、著者は安易な共感を許さない他者の絶対的な他者性や根源的な差異に直面することこそが、逆に一般性への跳躍をうながすとみる。
 他方、本書にはもうひとつのキーワードがある。「約束」あるいは「約束の力」である。議論の順序としては、こちらのほうが先に出てくる。著者によれば、意外にも戦後日本において社会契約論は「約束の思想」として正面から読まれてはこなかった。それは、国家主義批判の観点から、「国家vs個人」という構図のもとで平等で自由な個人の集合体――市民社会――が国家権力を批判し歯止めをかけるものとして、読まれてきた。それが戦後民主主義であった。けれども今日、このような理解の不十分さがあきらかになりつつある。国家の横暴に歯止めをかけるどころか、いまや国家は、明に暗に不正義をもたらすグローバルな市場秩序のなかで振り回される、ひ弱で頼りないアクターに成り下がっている。問題はむしろ「約束の秩序」として国家を再構築し、それを通じて市場の権力に対抗しその制限を試みることなのではないか。

■「一般性の次元」と「約束の秩序」との連関

 約束としての社会契約と視座の一般性との関係は、明白なようにもみえる。両者がどのように結びついているか、本書の12~24頁で説明されている。それによれば、約束の秩序は、不正義の隠蔽をともないがちな市場秩序とは対照的に、ルールを(吟味の対象として)明示的に提示しようとする点に特質がある。この性格は、まさに一般性の次元に立つことと等しいと本書では考えられているようだ。けれども、両者は必ずしも同一の事態をさしているわけではあるまい。この両者のあいだの内的な連関は、もっと突きつめて考えられるべきである。たとえば、社会契約説を否定するスコットランド啓蒙には、緩やかな一般的観点(ヒューム)や公平な観察者の視点(アダム・スミス)といった、一般性の次元をさししめすキータームがある。ここでいう一般性は、ルソー=ロールズ的な厳格な定義からすればその名に値しないようなものだろうが、しかし彼らにしてみれば本質的に明示的な約束に拠らずに成立するそのような視座も、十分に一般的だということになる。それにもかかわらず、一般性の次元に立つことが約束の秩序においてしか可能ではないとすれば、それはなぜなのか。
 他方、ハーバーマスが描きだしたようなブルジョワ的公共性の自由主義モデルでは、国家権力をハンドリングする市民(シトワイヤン)の共同体ではなく、国家から区別され自立した経済的市民社会こそが、新たな公共性の所在であるとされた。この支配や権力関係から自由な公共的見地は、一般的観点と密接不可分のものである。この図式は、戦後啓蒙の国家批判の場合と同型である。戦後日本では、そのような視座こそが「民主主義」のそれだと理解されてきた。しかし西洋政治思想史の文脈でいえば、かつてカール・シュミットが喝破したように、自律的な市民社会からの国家への批判的公開性要求とは「自由主義」に属することがらである。それは、人民が相互に結合し連帯した公共体の民主主義とは、基本的には別の構想であった。このように、一般的観点に立つといっても、リベラルな伝統に立つか民主主義的な伝統に立つかで、その理解は少なからず異なる。前者の自由主義のモデルでは、一般性の水準は、約束にもとづく政治秩序に加わることでもたらされるとは限らない。むしろどの特定の政治共同体からも自由であること、たえずより普遍的な世界へと超え出ていくという運動を持続することこそが、真の一般性を可能にするのである。以上のような分節化をもふまえつつ、著者は一般性と約束という本書の二つの軸のあいだの関係をどのように整理し把握しているのか、あらためて問う必要があろう。
 また、はじまりの瞬間において約束の秩序を可能にするのは、(より日常的な)「約束の力」である。これについては、ホッブズを論じている1章3節で扱われているが、その後はあまり議論の前面には出てきていない。しかし、著者のフレームワークからすると、(日常からは多少とも切り離された)一般的観点に立つことを可能にするものとしてこの約束の力はあるはずであり、後半の議論とも深く連関しているにちがいない。しかし、本書ではこの点について突っ込んだ議論はなされていなかったように見受けられる。
 なお、ホッブズにおける約束の力をめぐる検討も非常に簡単なものになっていて、これだけではややもするとナイーヴな議論にも映りかねない。伝統的な意味では、一切の実効的な自然法も共通善の構想もアプリオリに前提できないホッブズ的自然状態において、なぜ「約束の力」などというものが成立するのか。ひとつ考えられるのはキリスト教的な言語観という隠された前提の存在であるが、むしろ著者の議論は、「約束の力(power of promise)」にせよ「始まり(beginning)」にせよ、ハンナ・アーレントと方向性を同じくする部分がある。ホッブズにこのようなアーレント的要素を見出すかのごとき著者の見解は、そのギャップゆえに驚くべき新鮮さと成功した場合の多大なインパクトをともなうものであるが、しかし十分な説明がなければ、そのいびつさの印象だけがいたずらに残ってしまうだろう。この点についてのさらなる展開が遠からず公にされることを期待したい。

■ リベラル・コミュニタリアン論争への応答

 著者とのやりとりのなかで、『正義論』出版以降のロールズにたいする批判的議論、とりわけコミュニタリアンと呼ばれる陣営からのリベラリズム批判については、そのほとんどがいわば揚げ足とりにすぎず重要な議論ではないと著者が判断しているようだということがわかった。しかし、評者には依然として、彼らによるロールズ批判の一部は原理的にいって決定的な意味をもっているように思われる。実際、よく言われているように、ロールズ自身が(リバタリアン・サイドではなく)コミュニタリアン側からの批判を深刻なものと受け止めて、みずからの理論構想に重大な変更を加えているのである。『政治的リベラリズム』(1993年)以降のロールズは、正義の非歴史的で普遍主義的な基礎づけを実質的に放棄し、西洋圏のリベラルな文化が実際に存在し世界中に拡大しつつあるという事実性の水準に定位した議論へとシフトしていく。この「転向」は結局のところ、リベラリズムの哲学的基礎づけを原理的に不可能だと喝破したローティの政治哲学と大差ない地点まで、ロールズを導いたのだという評価も有力である。だとすれば、『正義論』にたいするコミュニタリアンの批判の重要性を否定する著者の側に、やはりその挙証責任はあるというべきだろう。
 評者の見立てでは、数多あるロールズ批判からは、少なくとも異なるベクトルをもった二つの批判を区別してとり出す必要がある。ひとつは、『リベラリズムと正義の限界』(1982年)でのマイケル・サンデルに典型的なタイプの議論である。ロールズが想定しているような、原初状態(original position)での社会契約に参加しうるような個人が、じつはあまりに抽象的な「負荷なき自己」であって、われわれが通常それとは意識することなく想定しているであろう人間の人格にかんする一般的理解――サンデルはそれを「状況づけられた自己」と呼ぶ――からひどくかけ離れてしまっていることを指摘するのが、この種の議論である。これは、ロールズのリベラリズムが前提してしまっている人格理論が、現実にわれわれがみずからの存在を理解している仕方とは一致しない点を批判するものであるが、この種の反論はたしかに必ずしも説得的ではない可能性がある。というのも、近代社会に生きるわれわれは――極端な「動物化」を被っていなければという前提条件がつくが――、ごくまれにみずからがそこに位置づけられていたはずの全体的文脈を抜け出てしまって、いわば根源的な偶有性の感覚を体験してしまうということがありうるように思われるからである。冒頭でも言及した本書末尾でのきわめて印象的なエピソードは、まさにこのような自己の偶有化の(おそらくデリダ的といってよい)経験を見事に描きだし、この種の偶有性へと身をさらすことへと人をいざなう力をもった「原‐文学」である。やや大げさな表現かもしれないが、この飛躍するような想像力を喚起するものには、やはり文学の名がふさわしい。ともあれ、著者がロールズの『正義論』にあたえた一種の文学的読解は、初期のサンデルが行なったようなロールズ批判をほとんど無効化してしまうだけの力がある(加えていえば、「目的の国」成立以前の同型性を想定しえない他者との接触の経験に、道徳性の根源を見出そうとする加藤泰史のカント読解にも、同様の意義が認められるように思われる)。
 しかし、しばしば分節化されず渾然一体となっていることが多いものの、これとは区別されるべきもうひとつの批判のベクトルがある。それはより原理的な批判である。善と正義がどうしても衝突するような場合には後者を優先させるというリベラリズムの教義は、とうぜん善と正義を区別できることが前提となっている。正義は――「公共的な理由」のみによって弁証されるべきものとして――どんな個別の私的な善き生の構想にも依拠せずに正当化されることで、善から区別される。これを『正義論』の枠組みにしたがって述べるなら、みずからがどんな善き生の構想をもっているか分からない状況で、公共の社会に基礎をあたえる正義の原理を熟慮のうえ選択するという場面がそれに対応する。ところが、このような選択の初期設定に立つことをそもそも受け入れないという可能性が存在するのである。たしかに一度この原初状態に入って無知のヴェールをかぶったならば、おそらく万人が何らかのリベラルな正義の原理を採択することに合意するだろう。しかし、そのような選択の前提じたいを誰もが受け入れるとはかぎらない。ロールズのいう原初状態からスタートできるということじたいが実際には特定の善の構想を前提しているということが、言えてしまうのである。そうなると、いわば無知のヴェールをかぶることじたいを原理主義的に拒否するような立場を、ロールズの正義論の枠内では正当に拒絶することが難しくなる。そしてこのことが意味するのは、善と正義という区別そのものの解体である。なぜなら、原初状態での選択が善ではなく正義の選択であることを保証する無知のヴェールをかぶることが、すでに特定の善の構想へのコミットメントを表明してしまうとすれば、これによって可能となる善と正義を区別する立場それじたいがある善の構想だということになってしまうからである。この結論を回避するためには、誰もがある意味でつねにすでに原初状態に立っていることを、あるいは善と正義の区別じたいは特定の善の構想に依存するものではなく普遍主義的に基礎づけ可能な区別であることを、示す必要があろう(これはハーバーマスらの「超越論的論証」にかかわる論点だが、その困難は基本的にロールズの場合と同様であるように評者には見える)。
 この論点にたいする応答までが『正義論』のうちに確認できるようには評者には思われない。そして、この批判に有効に反論できないかぎりは、リベラルな社会構想の哲学的で普遍主義的な基礎づけというロールズ『正義論』の根本にあった企図はやはり達成されていないといわざるをえまい。ここで述べたリベラリズムにたいする第一の批判にたいして、じつは後期ロールズやほかの政治哲学者の議論に訴えることなく『正義論』そのものに即して有効に応答できるということをしめしたのは、本書の特筆すべき成果である。このことはいくら強調しても強調しすぎることはない。しかし、上述の第二の批判にたいしては、『正義論』もしくはロールズを越えて応答を模索する必要があるというのが、評者の見解である。

(評者:上野大樹)

更新:2014/12/05