書名:恐怖と不安の社会学
著者:奥井智之
出版社:弘文堂(現代社会学ライブラリー16)
出版年:2014

■ 近代・恐怖・暴力

 ここ数年、「恐怖(terror)」の問題に興味をひかれている。それは第一に、京都大学人文科学研究所の共同研究班「啓蒙とフランス革命II:「恐怖」の研究」に参加し、フランス革命の最初のクライマックスを形づくるいわゆる「恐怖政治(la Terreur)」の言説を中心に、啓蒙期から革命期にいたる政治概念としての恐怖に関心をもつようになったからであり、第二にテロリズム(terrorism)こそが不安定化する現代社会を特徴づける最大の政治的・社会的要因となっているからである。この二つの関心は関連している。ある面では、テロリズムと恐怖は近代社会につねにつきまとう問題系であった。たしかにそれはポスト冷戦期の国際秩序を考えるうえでにわかに前景化してくる論点ではあるが、同時に本格的な近代の幕開けを告げる世界史的な事件であったフランス革命の絶頂において、それはひとつの破壊的な帰結をもたらしもしたのだった。
 華々しいはずの近代が、その始まりにおいてすでにテロリズムによって文字どおり血塗られた過去を宿していること――。このことにたいするほとんど決まりきった応答は、革命の政治空間が恐怖によって占められた時期を近代の理想からの逸脱として切り離し、起源の神聖性を確保するというものである(それでも革命のすべての暴力が否定されるわけではない。民衆から熱狂的な支持を受けた革命勢力によるアンシァン・レジームへの攻撃は、合法的ではないにせよ正当なものとして、基本的には肯定される。それは絶対平和主義ではありえない)。しかし、マルクス主義の強い影響を受けたフランス革命の正統的な解釈を批判して登場した修正派がむしろマジョリティになると、そのような逸脱の同定とその本流からの分離という戦略はほとんど無効になってしまう。革命の全体が恐怖と暴力によって根本的に駆動させられていたというのが彼らの見解だったからである。そうなると次なる戦略は、フランス革命じたいを近代の本流から切り離して、過激主義(radicalism)・極端主義(extremism)に走った革命の近代史における意義を相対化しつつ、より緩やかで漸進的な近代化の過程を擁護するというものになる。この種のとらえ方は、保守主義(反動思想や極右思想とは区別されるところのそれ)や穏当な自由主義に親和的な認識だといえる。全体主義的な傾向を帯びがちな大陸ヨーロッパ――左翼的であれ(フランス)権威主義的であれ(ドイツ)――よりも、アングロサクソン圏に穏やかな近代社会のモデルを求めようとする見方も、そのコロラリーのひとつといえよう。
 けれども、これで万事解決というわけにはいかない。そこにはまた別種の隠蔽が存在する。革命の暴力沙汰を近代の本流から切断することのひとつの直接的な効果は、暴力と恐怖の支配は非合理的な前近代の遺物であって、真の文明化はそのようなものとは無縁だという信念の正当化である。近代主権国家のなんたるかを承知している者にとって、このような見方が根本的な欺瞞をふくんでいることはあきらかである。その思想の多様性と重層性にもかかわらず、たとえばモンテスキューをこのような信念の18世紀における擁護者の典型に数えることはできる。風土や歴史的に形成されてきた諸民族の習俗を重視する点で文化相対主義者と目されることもある『法の精神』の著者も、しばしばヨーロッパ文明の卓越性を示唆する規範的・評価的な観点をのぞかせる。彼にとって文明は「穏和な習俗」の理想と不可分であり、そのような穏和な文明の作法は、商業と諸民族の交流によってもたらされる。穏和な商業(doux commerce)は、絶対王政の盲目的で非合理な権力発動を不可能にし、やがてヨーロッパに確かな平和をもたらすだろう。そこで想定されている政治体制は君主政ではあっても穏和な君主政であり、絶対主義的なそれとは区別される。絶対王政もこのような文明化の趨勢に逆らって専制支配を打ち立てることは容易にはできない。逆に、この専制という政体がほとんどデフォルトなのがオリエント世界である。それには中小国の分立が生じにくく大国ないし帝国が出現しやすいという自然地理的要因がかかわっているが、それはともあれ、アジアの専制国家を駆動させる情念こそが「恐怖」であった。ここで非合理的な恐怖という情念と、穏和で理性的な利益の観念とは鋭く対立させられている。穏和な商業文明は、根本において恐怖と両立するものではない(以上の論点について詳しくは、次の拙稿を参照。上野大樹「モンテスキューと野蛮化する共和国像」、田中秀夫編『野蛮と啓蒙』、京都大学学術出版会、2014年)。

■ 穏和な文明社会vs野蛮な暴力?

 この商業文明の歴史哲学を継承し発展させたとされるのが、啓蒙期のスコットランドの思想家たちである。モンテスキュー以降のフランス啓蒙がラディカル化して社会の総体的な転換を志向するユートピア的構想(スピノザを反転させた「スピノザ主義」的革命思想など)を胚胎したともいわれるのにたいして、スコットランドではより穏健で保守的な啓蒙思想が開花した。ヒュームやアダム・スミスら商業ヒューマニストはモンテスキュー的な穏和さの理想を共有し、あまりに勇猛果敢な戦士としての共和国市民の理想を相対化して、穏やかな作法をそなえた文明人を商業社会の理念的な人間類型とみなした。それは初期近代の宮廷社会のなかで発展してきたシヴィリティの理想の、市民社会論的な再解釈ともとらえうるだろう。
 文明社会では交流(社交)と対話こそが中核的な原理であり、野蛮な暴力や恐怖とは相容れないという理解は、今日かつてなく強固なものとなっているようにみえる。たとえば、テロリズム――暴力を用いて人びとに恐怖を植えつけ政治的目的を達成しようとする行動――の温床のひとつともみなされ、有力なイスラム過激派集団「アラビア半島のアルカイダ」の拠点として知られるイエメンでは、フーシと呼ばれるイスラム教ザイド派(シーア派の一派)の武装勢力が首都を占拠して大統領は南部にのがれ、現在(2015年3月)イエメンはほとんど内戦の様相を呈しつつある。サウジアラビアをはじめとするスンニ派諸国は空爆という形で実力行使にでて反体制派組織の弱体化を狙っているが、国連は長期にわたる争乱をとめられるのは武力ではなく対話と交渉だとする姿勢を強調し続けている。
 ところが、いわゆる「アラブの春」以降の中東の大混乱が図らずもあきらかにしたのは、ある領域内で「文明」の基本原理が実効的なものとなるには、その領域において物理的な暴力を実質的に独占しそれを対抗暴力によって転覆できる見込みがほとんどないような政治的主体(エージェンシー)が現に存在している場合にかぎられるということであった。このような主体が一定領域において存在し、かつその主体が対内的(ならびに対外的)に正当性を獲得している場合に、その領域には主権国家が成立しているとはじめて言うことができる。一定領域内にその地域を排他的に支配できるだけの実力をそなえた機構が存在することが、そのポジションをめぐってみずからの正当性を争う諸政治勢力(党派)がもっぱら言論のみをもちいてそのアゴーンに加わろうとするようになるための必要条件である。西洋世界では、そのような主権国家体制がすでに確立されていたからこそ、諸党派の抗争が武力対立に発展する恐れなしに民主主義的な手続きによって統制されえたのである。逆にいえば、そのような政治学的条件を欠いたまま諸勢力が正当性を競うような事態になれば、それらが勢力拡大の手段としてただ民主的な議論のみに訴えるようになる保証など、どこにも存在しない。
 それゆえ、暴力や実定的権力を文明社会の対義語とみる見方は虚偽意識である。実際には、暴力は文明社会からも決してとり除きえない。あるのはただ、多元的な暴力の分布(暴力の分散状態)と実質的に一元的とみなしうる暴力の分布という区別だけである。後者の場合に成立している一定領域内の暴力を実質的に独占する主体が、主権国家とよばれるものである。実際のところは、ヒュームもスミスも領土内の争乱を抑えこめるだけの実力を有した集権的な統治機構の確立が、商業社会を発展させる最重要の契機だとみていた(cf.「懐疑的ウィッグ主義」)。一定領域内で暴力がほとんど独占されているからこそ、どの党派(構成的部分)も実力をもって政権を奪取しようとはしないのである。
 それだけではない。ヒュームとスミスは文明社会を可能にするような人間本性の基本的情念として、怒りと恐怖を重視している。是認されえないと考えられる行動をとった場合に他者(第三者)から向けられる怒りの感情と暴力の予感にたいする恐怖こそが、正義の法を遵守する市民の傾向性の原因となっていると彼らは論じる。恐怖も暴力も、文明社会から排除することはできない。ただ、暴力を特定の主体に集約させその偏在を解消することで、国内で実力が実際に行使される状況が大幅に限定され、各人が各人に対していつ身体や財産が侵害されるかわからないと相互的な恐怖を感じそれが蔓延するような事態は回避されうるのである。
 かくして、文明にも恐怖と暴力は内在している。ただし、現代の文明社会の前提条件である近代国家は、それらと独特の関係をとり結んでいる。暴力の所有を集約化することで、平時の日常空間は基本的にむき出しの力ではなく言語的な交流によって組織されるようになる。そこでは相対的に穏やかな社交上の作法が彫琢され、構成員相互の水平的な社会関係から恐怖の情念は後退する。しかし、恐怖が潜在的なしかたで社会秩序を律していることにかわりはない。恐怖の感情の対象は国家に、そして集合体としての人民=民衆に一元化され、同時に後景化する。この垂直的な関係を背後で統制するのが恐怖であり、それがあってはじめて成員相互の水平的で平等な関係も可能となるのである。

■ 恐怖の社会学的次元

 ところで、恐怖の感情を引き起こすものは即物的な暴力ばかりではない。さきに簡単にふれた主権の問題構制にあっても、それは正確にいえば即物的な暴力を独占する主体を構築するということを意味していたわけではない。どのような状況にあってもこの種の厳密な意味での独占は不可能である。問題はそうではなくて、他を圧倒する実力を有した主体による暴力の行使を期待ないし予期せざるをえないような状況こそが、主権の核心にある。それは現実化しうるが必ずしも現実になっているとは限らない暴力の予感である。人間はそれだけでも十分に(あるいは現実の暴力以上に)恐怖と不安の感情をかき立てられる。ホラー映画の巨匠A.ヒッチコックは、「恐怖は、銃声ではなく、銃声の予感に宿る」と述べていた。
 奥井智之『恐怖と不安の社会学』は、この言葉を書籍の冒頭にかかげている。同書の考察は、「恐怖の感情を引き起こすものは即物的な暴力ばかりではない」ということのもうひとつの意味をあきらかにしてくれる。すなわち、物理的な暴力の可能性・予期だけではなく、もっとべつの種類の暴力的なものや得体のしれないものについての予感も、ひとを戦慄させるのに十分なことがある。社会学的な検討はむしろ、人類社会には物質的な意味での暴力以上に重大な恐怖の源泉が存在して、それが社会秩序の形成に深く関与しているということを示唆している。
 この本じたいは多分にエッセイ的な小品的分析の集積ともいうべきものであり、個々の分析についてもっと掘り下げた議論がほしいと思わせるところもあるが、しかしさまざまな角度から読者の思考と想像力を刺激するという「現代社会学ライブラリー」のシリーズの趣旨からして、かえって読者を社会学的思考に誘うための入門書として成功をおさめているといえるだろう。そこで題材としてとりあげられている逸話や事例はきわめて多岐にわたる。セミナーでの大森荘蔵と廣松渉のあいだのエピソードからはじまって、メルヴィルの『白鯨』やポーの『アッシャー家の崩壊』といった小説にキューブリック、小津安二郎などの映画作品、旧約聖書の『創世記』や日本神話のイザナキとイザナミの物語に柳田國男の『遠野物語』さらには『黒塚』という能の演目にいたるまで、驚くほど多彩である(これでも一部を挙げたにすぎない)。
 明示されているわけではないが、敢えて同書の多様な題材を大きくふたつに分類するとすれば、次のようになる。伝統社会(コミュニティ)における恐怖と不安にまつわるものと、現代社会における恐怖と不安を描きだしたものである。「グローバル化=個人化社会とは別名、非コミュニティ社会である。人びとはそこで、自由に自己をデザインできる。ある意味ではそれは、人びとが長年夢見てきたことである。しかし「自己をデザインする夢」は、夢からさめれば悪夢も同然である」。この悪夢にこそ、「現代社会に固有の「恐怖と不安」の様相」が見出せる(164-5頁)。同書が提示する近代社会把握の基本的な図式は、コミュニティ/アソシエーション(マッキーヴァー)、あるいはゲマインシャフト/ゲゼルシャフト(テンニース)という古典的区分に拠っている。そして個人化によって特徴づけられる現代社会にあっては、コミュニティの伝統的社会関係が解体されても次に自発的な意志にもとづくアソシエーションがとってかわるという保証は一切なく、その意味では社会そのものの可能性が危機にさらされる。
 実際には、伝統社会に(も)見出される恐怖と不安の社会構造の分析についても、多くの紙幅がさかれている。恐怖と不安はとうぜん現代社会に固有のものではない。「わたしたちの今日の恐怖と不安の根源が社会的分断にあるならば、社会的連帯によってそれに対処することもできる。もっともわたしは、素朴に「コミュニティの再生」を訴えるつもりはさらさらない。コミュニティがそれ自体、人々の恐怖と不安の一因となることもまた本書の主張であった」(142頁)。恐怖にかかわる社会学的構造が伝統社会と近現代社会とでどこまで共通し、どのように質的に異なるのかを、両者を比較することをつうじて分析するという課題は、たいへん興味深い。
 たとえば第6章「暴力」では、おもに近代社会における恐怖と不安のあり方があつかわれているとみてよいように思われる。コミュニティの解体は人びとの相互不信を助長し、憎悪とそれにもとづく暴力をかき立てる。「憎悪の時代」という副題をもつニーアル・ファーガソンの著作『世界戦争』に言及して、20世紀の「戦争やテロの根底には民族的な「憎悪(hatred)」がある」という見方を紹介しつつ、著者は次のように述べる。「日増しにグローバル化し、個人化する世界は、日常的な「憎悪」の温床となる。ファーガソンの言う「憎悪」と本書の言う「恐怖と不安」は、ほとんど表裏一体の関係にある」(136頁)。近代社会におけるその構造とは、「(1) 人々の恐怖や不安を醸成することで、(2) かえって人々の結束を強化する機能をもつ」(122頁)といったものである。コミュニティの崩壊と個人化がいわば「体感治安」を悪化させ、その恐怖と不安に応える形で管理社会化が進行するとともに、対外的な敵愾心も高まる。
 近代的な文明社会の外部の極北にあって最大の恐怖と不安を引き起こすと考えられたのが、ほかでもないテロリズムである。それは、少なくとも形式的には対等である主権国家ないし国民国家間の敵対関係とは異質な憎悪と恐怖のあり方をしめしている。フランス革命におけるロベスピエールとダントンの党派的対立にふれたあと、著者は簡潔にだがテロリズムの核心的な特徴に言及している。「戦争とテロでは、その行為主体が異なる。戦争の主体は通常、国家(あるいは準国家的な機関)である。これに対してテロの主体は、非国家的な組織全般である。〔……〕テロが相対的に予測不能であるのは、そのことに起因している。そして予測不能であるがゆえに、人々の恐怖や不安をますます増幅させるのがテロの特徴である」(132頁)。アーレントが指摘したように、戦間期に登場する全体主義社会にあっては国家テロが全般化し、国家とテロリストの境界が不明確化したということもできる。しかし、第二次世界大戦後の主権国家体制もふくめて、全体として国家による対外的な暴力行使が宣戦布告など予測可能な形式をとったことはたしかだろう(警察行動などの国内的な権力行使についてはいうまでもなく法の支配に則ってなされるという大原則がある)。他方、宣戦布告をともなったテロなど想像さえできないことはあらためて述べるまでもない。

■ 社会に内在し社会を構成する恐怖

 けれども、はたしてテロを文明社会からもっとも隔たった外部から襲ってくる端的な野蛮の産物と断ずることはできるだろうか。むしろ今日の「原理主義(fundamentalism)」にかんする常識は、それが西洋式の高度な教育を受けた第三世界エリートによってもっぱら組織され遂行されているということである。極論すれば、恐怖と不安の対象は文明の外部に存在するのではなく、そのただなかに巣食っているとさえいうことができる。
 おそらく、社会とそれが恐怖するものとの内的な関係を適切に考察するためには、前近代社会における恐怖と不安の社会学的構造をも視野におさめる必要がある。この点でも同書はいくつかの手がかりをあたえてくれる。前近代的な社会にかかわると思われる複数の事例について、それらをさらに、もっぱら伝統社会の構造的特徴をとらえるのに有益な説話と、むしろ近代化による伝統社会の崩壊の危機に焦点をあてたような説話とに区別できるだろう。前者の例として、能『黒塚』や『古事記』のイザナキとイザナミの物語を挙げることができる。そこに共通してみられる物語の構造は次のようなものである。来訪者を迎え入れる者がみずからの「正体」を隠し、来訪者にたいしてタブー(禁忌)が設定されるが、来訪者はそれを思わず破って正体をのぞきみてしまい、彼はホストに追われて命からがら逃げ帰るという筋である。北山修は「異類婚姻説話」の多くは同様の筋を共有しており、そこに西洋世界にも通じる日本人の「原罪」の原型をみてとることができると論じる(40-5頁)。興味深く思われるのは、おそらくここで来訪者はタブーにえも言われぬ魅力を感じ、その侵犯に誘われてしまっているという点である。異界はわれわれの日常世界から完全に隔絶した外部に存在するのではなく、むしろわれわれのある欲望の構造の表れであり、伝統的な神話にあっては人はしばしばケの世界とハレの世界とを容易に行き来してしまうのである。われわれが畏怖し恐怖する対象(他者)は、じつはわれわれが求め欲するものでもある。
 同書は、近代化の過程でしばしば怪談ブーム、ホラー・ブームが生じることにもふれている。『遠野物語』を執筆した柳田國男はじつは大の怪談愛好家でもあった。柳田は近代化の荒波のなかで喪われていくように思われた伝統社会の説話を収拾し、それを保存することに熱心だった。そして、じつはそれらの説話じたいに伝統社会に忍び寄る近代化の影が描きこまれている。柳田の次の言葉は、伝統社会の人間と柳田が異形の者とみとめ恐れた対象が同時に彼らの欲した当のものでもあったことをあきらかにしている。「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」(83頁)。
 伝統社会における恐怖と不安の社会学的構造が書きこまれつつも、同時にそのような世界観を共有するコミュニティが近代化の趨勢のなかで解体してしまうことへの恐怖と不安もが、そこには読みとられる。そこにあるディレンマとは、「「コミュニティに埋没すること」と「コミュニティから乖離すること」がどちらも、恐怖と不安の対象になるということ」(89頁)だと同書は論じている。この種のダブルバインド状況は、先駆的にはたとえば『雨月物語』に、そして小津安二郎の『晩春』に認めることができると著者はみている。そこからさらに考察を進めていくことができるだろう。それを本格的に展開していくのに、ここはふさわしく場ではない。ともあれ、伝統社会が広く共有していた恐怖をめぐる神話的構造から、いかにして恐怖にたいする今日的な感受性への変容が生じたのか、つまり文明社会がたえず生産しつつもそれをほとんど神経症的に外部へと放逐したうえで、その殲滅のために終わりなき戦争を繰り広げるという現代世界の光景が、どのような歴史的経過をへて可能となったのか、このことが問われる必要がある。伝統社会の神話に共同体の構成的外部として現れる恐怖をもって、柳田が(あるいは神話が)そのような共同体の信念体系そのものを解体させる近代というものに恐怖をおぼえ、これに抵抗しようとしたとすれば、その試みは柳田が直面した不可逆的変化のはるかかなたにいる現代人によって、その不可能性もふくめて、あらためて振り返るだけの価値はあるのではないだろうか。

■ 無極化する世界の恐怖

 最後に蛇足ながら、同書が言及している多数の論点なかで、もうひとつ興味をひかれるものがあったので簡単にふれておきたい。それは今日の国際秩序におけるヘゲモニー構造の終焉こそが、新たな恐怖の源泉になるという指摘である。詳細はまた別の機会に譲りたいが、今後の国際政治の最大の不安定化要因はまさにこの点にある。冷戦後の世界のほとんど唯一の基軸原理であったパクス・アメリカーナは、従来の覇権国家の衰退とはだいぶ異なる形で終焉を迎えつつあるようにみえる。いま生じつつあるのはヘゲモニー国家の交代ではなく、交際政治におけるヘゲモニー構造じたいの消滅である。そこには、エネルギー資源をめぐる地政学的なファクターもかかわってくる。
 国際政治学上の主要な争点のひとつに、一極構造と多極構造のどちらが国際関係を安定させるかという問題がある。ごく大まかにいえば、1648年の百年戦争の終結によりその原型が出現したとされたウェストファリア体制(主権国家体制)は、ヨーロッパ列強の錯綜する同盟関係をともなう諸国家の勢力均衡をベースに、相対的に強力な国家がヘゲモニーをにぎり優位な立場から勢力均衡を維持するという構造をそなえていた。第二次英仏百年戦争のクライマックスを飾るナポレオン戦争の終結によりパクス・ブリタニカが確立された19世紀にあっても、ヨーロッパ世界は完全な一極支配からはほど遠かった。相対的なヘゲモニー国家はその地位を狙う新興大国を牽制する必要から同盟関係の再編を行ない、その意味で、緩やかな多極構造を維持することこそがヘゲモニー国家の国益にかなうという機制が働いたのである。対するに、20世紀の国際政治は古典的な勢力均衡を超えて一極支配をめざす諸大国の抗争によって特徴づけられる。世紀後半の米ソ冷戦が、総体として多極構造ではなく二極構造を実態としていたことはあきらかであるし、この二極構造がいわゆる恐怖の均衡によって支えられていた以上、モデルとしては一極的な覇権安定がめざされていたことは否定できないだろう。
 キリスト教的普遍帝国の理念が依然として影響力をもった初期近代のヨーロッパ地域ではじめて可能だったといってもよい多元的な勢力均衡による国際政治の安定にもどることがおそらく困難である以上、ヘゲモニー国家の存在は現代の国際政治に当分のあいだ欠かせないということになろう。第二次世界大戦後のアメリカはそれまでのモンロー主義(孤立主義)から明確に舵を切り、西側諸国の盟主として積極的に国際政治に関与する外交政策をとった。そこでは、勢力均衡か覇権安定か(多極か一極か)という軸にくわえて、国際政治学上のリアリズムと理想主義という対立軸が重要なファクターとして作用してくる。一概にはいえないが、全体としてアメリカの対外政策における理想主義の影響力の相対的な高まりが、一極支配による覇権安定への志向性を現実的なものとしていたということができるように思われる。人権・自由の拡大や民主化といった普遍的価値へのコミットメントが、対外的にも国内世論にたいしても、積極的な拡張主義政策を正当化する根拠となったからである。そして、実際の勢力拡大のなかでアメリカが世界各地に権益をもち利害関係を深めていった結果、リアリズムの観点からしても、アメリカ一極支配のもとでの国際関係の安定(とときにはさらなる拡大)がアメリカの国益と一致するケースが格段に増えたのである。理想主義とリアリズムの結合は、ネオコン(新保守主義)の影響のもとイラク戦争を主導したG・Wブッシュ政権において頂点に達する。ネオコンの論客のひとりロバート・ケーガンの議論は、いまなお傾聴に値する部分がある。理想的な世界秩序を実現するためには、それにみあった現実的な力が必要だが、ヨーロッパ世界はいまや普遍的な理想を唱えながらもそれをいかに実現するかというリアリズム的思考をすっかり放棄してしまった。かくして、アメリカこそが世界の安定化と基本的価値の実現のために実際の行動をともなった責任を果たさなければならない、と。
 ところがイラク戦争以降のアメリカは、とりわけ第二期オバマ政権において顕著なように、理想主義の看板を実質的に引込めリアリズムの観点のもと世界政治への全般的な関与を限定する方向にむかっている。いまだ不確定要素は多いものの、将来的にシェール革命などを通じてエネルギーの自給率を高め中東の石油資源への依存度を下げることに成功すれば、理想主義的な使命感を低下させたアメリカは、現実の国益という観点から中東情勢への働きかけを消極化させるだろう(むしろ焦点は、アメリカ国民が借金をして消費し世界の過剰な生産を吸収するというインバランス構造を是正すべく、成長センターであるアジア太平洋地域に巨大市場を作りだすという方向にシフトする。いうまでもなくTPPはその一環である)。
 これでアメリカが世界に余計なおせっかいをすることもなくなり一件落着となるかというと、もちろんそうはいかない。アメリカが国際秩序の一極構造の維持に関心をうしなった場合、どのようなことが生じるか。通常予想されるのは、次なるヘゲモニー国家が台頭して一元的な国際秩序の維持に利害と責任をもつということであるが、たとえば現在の中国がそのような役割を積極的にになう可能性は低い。むしろ大いにありうるのは、そのような一極支配それじたいの崩壊である。だが現状では、この変化が世界に多極的な安定をもたらすとは考えがたい。19世紀以降の欧米の植民地政策の爪痕が深刻な諸地域では、地域の秩序をみずから構築できるような状況にはない。反対にこの種の「無極化」は、過激派テロ組織や西洋起源の国際秩序の転覆をはかる原理主義的国家の勢力拡大を許し、世界の不安定化を急激におしすすめるだろう。
 かくして、実際にはアメリカも厳しいディレンマに直面する。資源外交の観点からは中東に関与する意義は小さくなるのに、それで関与を低下させればさせるほどテロリストの活動の余地は拡大し、結果として安全保障上の脅威は深刻化するのである。とりわけシリア情勢やイエメン情勢において、オバマ政権はこの種の解きがたいアポリアに悩まされている。ヘゲモニー国家が希少資源をめぐる地政学的関心をうしなったあとの空隙にしばしば生じるのが内戦、ないしは破綻国家化であり、イラクをみれば明白なように今日これこそが原理主義とテロリズムの最大の温床となりつつあるのである。これらの事態が図らずも再考を迫っているのは、そもそも主権国家とは何なのか、何であったのかというすぐれて原理的な問いである。
 なお、今日の主権国家体制の動揺にかんして、特に旧ソ連地域に注目した際にもうひとつ注目すべき現象は、昨年「独立」を宣言したクリミアに代表される未承認国家の存在である。これについては、たとえば廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス、2014年)によって最新の情勢が概観できる。これらの問題についてはまた稿をあらためて近々とりあげてみたい。

(現代社会学ライブラリー16)

(評者:上野大樹)

更新:2015/04/02