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イダ ヒロユキ著、
 『閉塞社会の秘密――主流秩序の囚われ』

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書名:閉塞社会の秘密――主流秩序の囚われ

著者:イダ ヒロユキ

出版社:アットワークス

出版年:2015


 

1.前提
書評に入る前に私の立場を明らかにしておきます。おそらく、おわりにで挙げられた「高学歴だけどとても不安定な塾のバイトで何とかやっている人」のモデルであり、そのためか著者から本をお送りいただきました。そのお礼を兼ねた書評です。本書の主張に賛同しつつ、疑問やさらなる展開をいくらか示すことになると思います。


2.本書の要約
このように自分自身の立場をまず明らかにしたのは、私たち自身が主流秩序に加担しているというように自分にひきつけて問題をとらえているという本書の特徴を意識してのことです。

「主流秩序」とは何かというと、今の社会で主流となっている価値体系であり、偏差値的に望ましいこと/よくないことが序列づけられたものです。学歴や収入はもちろん、見た目やコミュニケーション能力も主流秩序を形作っているとされます。

主流秩序とは偏差値的な序列であるという定義からして、すべての人が満足するのは不可能です。イス取りゲームと言い換えてもよいでしょう。私たち一人一人がそうした構造に直面し、そこで上位にいくことができないかもしれないことをきちんと認識し、そこで自分がイスに座っていながら当たり障りのない一般論を述べるような偽善をあぶり出すのにこの概念が有効なのです。

そう、この主流秩序を前にして、積極的に加担するのか、消極的に加担するのか、抵抗するのかという選択を迫られるのです。もちろん本書では3つ目の抵抗するというスタンスがとられるわけですが、それは主流秩序から逸脱したり現実に困っている人の状況を直接的に少しでも変えたりすることであって、自己犠牲的に大きな目標のために頑張る従来の運動スタイルとの違いが強調されます。大きな敵がどこかにいるのではなく、場面場面での行動が問われるのです。

ここで本書を貫くもうひとつの重要概念が登場します。「スピリチュアル・シングル主義」あるいは「態度価値」です。前者は著者が以前より提唱している概念で、多様性と差異ある個々人による、<たましい>に沿った自律的な連帯のことであり、エゴでも共同体主義でもないバランス論だと説明されます。後者はV.フランクルが提示している概念で、変えることのできない出来事に、どのような態度をとるかによって実現する価値のことです。極限的にはナチスの強制収容所でどのように振る舞うかということです。この両概念は、一人(少数の人)が犠牲になって他の人が幸福になるという構図を否定することでもあります。

本書の最後の部分は著者が出会った反論とそれに対するコメントから構成されています。特に数ページにわたって引用される学生からの強い反発は印象的です。


3.本書の位置づけ

本書の出版を探っている時に、ある出版社から、自社は理論的なもの、蜂起や革命などを含め直接行動も辞さない方向性で行くので出版できないと言われた。私は本書の提起していることこそ革命的で直接行動的なのになと思った。また他の出版社ではもっと学術的なものか、逆にわかりやすい啓発的なもの、エッセイ的なものなら出せるが、本書はどちらでもなく売れる見込みが不明という形で断られた。(p.250)


このエピソードが本書の位置づけをよく語っています。ある出版社からは理論的すぎると断られ、別の出版社では学術的でもエッセイ的でもないとして断られたのです。

理論的というのは、本書にちりばめられた、オルテガ、リースマン、ピケティ、ガルブレイス、ボードリヤール、バウマンなどに言及した社会学的な記述を指しているのでしょう。本書はこうした社会学的な成果の上に立っています。

学術的でないというのは分析者視点に立つのを拒否して具体的な実践についてふつうの話し言葉レベルの短い文で記述されているからで、エッセイ的でないというのは身近な出来事の描写よりも論考が中心になっているからでしょう。

つまり、本書は社会学や思想の知見を取り入れた実践的な運動についての論考なのです。

日本の状況に引きつけると、1960年代以降の学生運動の衰微、80年代にかけてのバブル的な消費主義、90年代のバブル崩壊と冷戦構造の解体、それから失われた20年が経過して絶望感の強いさとり世代の登場という流れの中に位置づけることができます。過去の学生運動のような硬直的なスタイルではなく、かといって軽やかに消費を楽しむのでもなく、社会に絶望して体制内で自足するのでもないあり方が本書で模索されているからです。


4.個人的な感想
冒頭でも述べたように、本書の主張におよそ賛同します。自分は高収入でいい暮らしをしていながら社会問題を傍観者的に語る大学人への違和感などをはっきり言葉にしてもらったという感覚があります。

本書を読んで抱いた最大の疑問は、本当にあらゆることが主流秩序として序列化されるのだろうかということです。学歴や収入が序列化されているというのはまだわかるとして、見た目やコミュニケーション能力が序列化されているというのは大いに疑問です。見た目の好みは人によって様々ですし、コミュニケーションについても合う・合わないの問題であって一元的な能力ではないのではないかと思うのです。本書ではそうした序列があることを前提にして、いかにそこから逸脱するかという議論が図とともに繰り返しなされますが、序列を前提としたくないというのが私の意見です。

見た目にせよコミュニケーションにせよ自分の好みや特性を把握してうまく関係を作ることができればいいですし、まともな仕事を自分たちで創り出せたら理想的ですし、学歴も関係なく必要な時に必要なことを学べるのがよいです。私の立場で学歴が関係ないと言うのは危険なことであり、入試の得点で大学への入学が決められそれが就職にも影響する現実は認識しつつも、学歴を超えた生涯学習のようなものを推奨したいのです。

このように感じるのは著者よりも2回りほど年下であるせいかもしれません。消費主義からの脱却などはわりあい簡単です。むしろ難しいのは家賃、食費、社会保険、仕事上の道具などのために必要な最低限の収入をどうやって手に入れるかのほうです。

これは私が「高学歴だけどとても不安定な塾のバイトで何とかやっている人」だからでしょうね。収入は大丈夫でも他の領域で問題を感じている人もいることでしょう。いろいろな立場の人がいることに想像力を働かせ、少しでもよい状態になる助けに本書がなれば幸いです。

(評者:浅野直樹)

更新:2015/04/30