書名:同時代の精神病理 ポリフォニーとしてのモダンをどう生きるか
著者:鈴木國文
出版社:中山書店
出版年:2014

 テレビのない生活がもう2年近く続いている。特にポリシーがあるわけではなく、単にない。おそらく小学生よりも物を知らない。そうした立場からただ同じ時代の空気を吸うものとして物することになる。
 本書で書評を書こうと思ってから1年以上が経ってしまった。雑務に追われているうちに内容はほとんど忘れてしまっていたが、最近少し余裕があって、読み直してみた。論文みたいにかっこうよく書きたい誘惑にかられたが当然それは自分の能力をこえている。仕方がないからよくわからない年表やら不細工な図をつくってまずは頭の中を少しだけ整理してみることから取り掛かってみた。

 モダン、「モデルン(modern)」という言葉は、元来、五世紀後半のローマで、異教によって支配されたキリスト教以前のローマからキリスト教が支配するローマを区別するために「自分たちの時代」を表す言葉として用いられたもので、過去と切断されたものとしての「同時代」を表す語として使うのが本来の使い方なのだそうだ。
 「前の時代を否定する」という動きを特性とするモダンであるが、「それでも新たな時代には、前の時代の何がしかが形を変えて残存して」おり、「モダンという時代の精神そのものがきわめて多声的(ポリフォニック)な様相を呈する」ことになる。「歴史上の過去を、遠い過去としてのみ読むのではなく、現在の中に畳み込まれ、パイ生地のように残る実相としてとらえること」が精神の営みについてとらえるためには必要なのだと著者はいう。ポスト・モダンをモダンの一つの顔とし、歴史をただ俯瞰するのではなく、同時代の人として時代の多層性をむしろ虫瞰的にとらえること、本書はその一つの試みとして位置づけられるだろうか。
 精神の病は「その時代の文化、社会の構造、人々が目指すべき方向といったもの」の影響を受けて、その病態を変化させている。本書の主眼はこの三十年ほどの精神の病態とそれを取り巻く社会がどう変化したかをとらえることにある。
 著者は病態変化の契機を人格概念の後退、自由の強制にみており、境界例の出現をもって「この30年ほどの精神障害全体の病態変化の始まり」としている。
 境界例は単純化すれば統合失調症と神経症の境界に位置する病態とみなしうる概念だが、1970年代から80年代にかけて注目を浴び、1980年のDSM-Ⅲの診断基準で「統合失調症型パーソナリティー障害(SPD)」と「境界性パーソナリティー障害(BPD)」に分類されることになり次第に境界例として取り沙汰されることも少なくなっていった。その後から「解離」、「双極Ⅱ型」、「広汎性発達障害」といった「境界例概念と何らかの形でつながっている」病態が注目されるようになったという。
 発達障碍はDSM-5(2013年)では自閉症スペクトラム障害(ASD)としてまとめられ、非患者との境界は曖昧となり連続体として語られるようになった。今まで統合失調症と言われていたものの一部が実は発達障碍だった、という言い草を最近よく耳にする。ASDはその特徴とされる感覚過敏や対人関係の問題から、二次障害として統合失調症様の症状やPTSD/解離、「タイムスリップ現象」(フラッシュバックのようなもの)を伴うことがあるとされ、双極性障碍の合併にもエピジェネティクスの観点から昨今注目されている。ASD、解離、双極性障碍には病態として互いに重なり合うところがある。そしていずれも統合失調症様の症状を伴うことがあるとされ、一方で統合失調症自体は60年代以降の軽症化が語られている。古典的なうつ病についても同様に60年代以降の軽症化が指摘されている。このように時代の移り変わりと共に病態や疾病分類も大きく変化してきている。
 著者はラカンの翻訳者であるし、大澤真幸の『不可能性の時代』を参照していることからも、自由の強制やリスクマネージメント社会、人格概念の後退についてはわざわざくだくだしく言わなくてもぴんと来られる方も少なくないのではないかと思われますし、というのを言い訳にここでは拙い説明は控えさせてもらいます。

 アラン・エレンベルグも指摘するように、自己規律を範とする社会ではメンタルヘルス、発達、予防という観点が重視されるようになる。自分の健康管理や情動の抑制・賦活化がうまくできないとなるとそれは大きな問題である、早期介入をせねばということにもなるだろう。
 かつて戯れに0∞(ゼロ無限)システムというものを考えてみたことがあった。これは0∞=1という不合理を実現可能なものとして規範化した社会の契機をキリストの二重性のうちにみたものだった。私たちが正しいものを正しいといえない社会、おかしいものをおかしいと指摘できない社会にいるとしたらしかしそれは私たちはすでにその不合理な時代の黄昏にいるともいえるのかもしれない。著者は社会が「自閉化」する中で、なぜ「アスペルガー症候群の人たちが病む人として析出するようになったのか」と問うている。それに対し、著者は「社会が、弁証法的な動きを放棄し、「一側原理」になった時、そこに住む一人ひとりは、自身の中に弁証法的な動きを維持するために、一人で何役もこなすことを強いられることになった。テーゼを生きながら、アンチテーゼを呟くといった生き方を強いられ」ることになった、そこにアスペルガーの人たちの困難があるのではないかとみている。
 もし私たちの社会が「一側原理」よりも極端から極端に走る傾向、その最大振幅、バランスを保持することによる目的の現実化を前提する社会であったと考えるのであればどうだろうか。自然と「一側原理」的に生きる人間は病者として析出することにもなるだろう。しかし私たちはもはや王様が裸であることには気づいている、ともいえるかもしれない。王様が裸であることを指摘したらKY(すでに古い?)と言われるだけかもしれないのだ。携帯電話は前よりも少し大きくなった。無限小の中に無限大の情報を詰め込むような所作からは一歩退いた感がないでもない。マニュアルは今どこまであてにされているだろうか。
 ミネルヴァの梟とはよく言われるが、私たちはすでに「自閉症の時代」の終焉の最中にいるのかもしれない。その先にあるのは、なんだろうか。平凡なアマチュアリズムだろうか。極端な統合主義syntagmatismと範例主義paradigmatismのあいだに位置づけられる何かだろうか。ほどほどの数の人たちがほどほどにまとまり、無名の人として淡々と地道に活動を続けていく先に何かがあるのかもしれない、という平凡なまとめでいったん終わりとしたい。


6世紀 『ローマ法大全』編纂(東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝、法学者トリボニアヌス)
12世紀 『グラーティアヌス教令集』
17世紀 古典主義時代
1642 清教徒革命
1651 ホッブス『リヴァイアサン』
18世紀-20世紀後半 エディプス
1755 リスボンの大地震
1776 独立宣言(米)
1789 フランス革命
1800 民主化革命(米)
18-19世紀 新人文主義(ドイツ、人格の涵養) 14-15世紀人文主義に対し。メスメル(1734-1811)「動物磁気」、ピネル(1745-1826)「患者解放」、エスキロール(1772-1893)モラルトリートメント全盛期(1830年代)、シャルコー(1825-1893)ヒステリー患者「発見」。神に頼れないという危機感→啓蒙思想(強い力、堅固な建築への意志)
19世紀初頭 プロイセン、ナポレオン軍に敗退
1862 ビスマルク、プロイセン宰相に(鉄血演説)、国家の官僚化、再階層化(19世紀後半)
19世紀 国民国家完成(イギリス、フランス、その他ヨーロッパ、、、)国家による管理、再キリスト教化、「無意識」の「発見」(内なる自由、自身を物語る主体)
1880- 表現主義の絵画運動→1913 抽象絵画、非表象絵画(ルネッサンス-19世紀、芸術は現実の忠実な表象)
19世紀末葉-20世紀初頭 ハイカルチャー
1873 株式の暴落
1880 「青年」(YMCAの内「young men」の訳語として)、小栗風葉『青春』(1905)、田山花袋『布団』(1907)、漱石『それから』(1909)、『門』(1910)、『こころ』(1914)、 森鴎外『青年』(1913)
1896 ドイツ、ワンダーフォーゲルの運動(自然回帰と放浪)
1899 クレッペリン「早発性痴呆」「躁うつ病」
1900 ドイツ、クルチュール(文化)、ユーゲント(青年)、大学の大衆化
1890年代半ば-1907 ユーゲントシュティール(青春の様式)という芸術運動、装飾性
1850-1930 ドイツ青年運動、芸術のモダンの空気
1943 カナー「自閉症」
1944 アスペルガー
1952 クロルプロマジンの鎮静作用発見
1957 ハロペリドール開発
1945-1960 理想の時代(大澤)
1955 55年体制
1959- エリクソン「自我同一性」(自我が特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと発達しつつあるという確信)、発展的希望の空気、アメリカン・ドリーム、サルトル、実存主義、御成婚、テレビ、力道山
1960-1975 夢の時代(大澤)
1960- うつ病、統合失調症の軽症化、「芸術の終焉」、高度経済成長
1968 少年N連続射殺事件
1970 大阪万博、三島自決、フーコー『知の考古学』邦訳(青年という概念の終焉)
1970- 日本において「自我同一性」の注目(自我同一性の拡散)
1970-1980年代 境界例(伝統的な疾患分類の終焉の始まり)
1972 連合赤軍事件
1973 第一次オイルショック、高度成長の終わり、笠原「退却神経症」
1977 広瀬「逃避型抑うつ」
1975-1990 虚構の時代(大澤)、ディズニーランド
1978 ブランケンブルク『自然な自明性の喪失』日本語訳出版(寡症状性の統合失調症、内省型統合失調症への注目)
1980 DSM-Ⅲ
1980年代 中安「初期分裂病」
高度に構築された妄想から散発的な病的体験(関係づけ、注察感、自我漏洩感)へ
1982 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』(1977 アメリカオハイオ州での連続強姦殺人事件容疑者23歳青年。1992年日本で翻訳出版)
1980年代中盤- 日本での解離現象、PTSDへの注目、「癒し」
1983 双極スペクトラム
1989 Mによる連続幼女殺人事件
1990- 解離、トラウマの増加(心因性精神障害の中心が神経症から外傷性の障害へ。隠れた心因から見える心因へ)、ひきこもりという現象、「キレる」、自殺者数増加
1990後半 うつと躁状態との絡みに改めて注目
1991 松浪「現代型うつ病」
1994 DSM-Ⅳ
1995 地下鉄サリン事件、阿部「未熟型うつ病」
1997 サカキバラセイト(顔への執着)
1997 Air/まごころを、君に
1998 Serial Experiments Lain
1999 「普通精神病」(ミレール)、SSRI
2000以降- 広汎性発達障害という概念の浸透。神経症的な不安(人格)から発達障害的なパニック(外因)へ。強迫(自我異質的な感覚、不安と罪責感)からこだわりへ。
2001 9.11 アメリカ同時多発テロ事件
2007 KY(空気読めない)
2008 秋葉原無差別殺人事件
2011 3.11 東日本大震災

モードノスタルジーカリカチュア先取り
1
農耕文化?
蓄積
0
動物
1
人間

超越

啓蒙?
人格、規律
1
凡人

万能人

1/∞→0
統合失調症(妄想型)
1/∞→0
1960-1975
理想のまなざし、覗く人

単極性うつ病
1/∞→0
神経症
1/0→∞
統合失調症(破瓜型)
1/0→∞
1975-1980年代
虚構
1/∞→0
逃避型うつ病
1/0→∞
境界例
0∞=1
普通精神病
0∞=1
1990-2000年代
覗かれたい。自律の強制。原子力(E=mc^2)、不可能を求める

1/0→∞
ひきこもり
0∞=1
PTSD/解離、愛着障害
0∞=不定
目立たなくなる(世に棲む)

0∞=不定
2000-20xx年代
JK、KY
0∞=1
双極性障害?ASD?
0∞=不定
A/B=C?
無名の人?

パイ生地

(評者:ひねもす無為)

更新:2016/02/05