書名:動きすぎてはいけない――ドゥルーズと生成変化の哲学
著者:千葉雅也
出版社:河出書房新社(2013年/河出文庫として再刊)
出版年:2017

■ ポストモダンの倦怠感

 本書が一部で話題になっていたのは知っていたし、出版直後に書店でざっと立ち読みして、いずれちゃんと読んでみようと思っていたものの、最近著者の話を直接聞く機会があってようやく関心が復活し、本書を最後まで通読することができた。
 先日、年に二回開催している一橋大学哲学・社会思想学会で、千葉雅也、馬場智一、秋葉剛史の三氏(司会:井頭昌彦)をお招きして、シンポジウムが行われた。たいへんな盛況で、前々回には私が司会を兼ねて登壇させていただいたが、そのときの倍くらいは入っている印象だった(そのときは硬いテーマを選んでしまったためにあまり人が入らなかったのもあるかもしれないが…)。おそらくこれまでで一番人が集まったようで、私は直接知らないが10名前後でやっていたときもあったという研究会時代からすれば隔世の感があるという古株の方のお話もあった。たぶん盛況の一番の要因は、本書の著者である千葉雅也氏をお呼びしたことであろう。シンポでの千葉氏の報告タイトルは「フランス現代思想における議論の新規性とは何か」というものだった。目新しさや斬新さ、あるいは極端さを競うゲームとして、フランス現代思想――いわゆるポストモダン思想――は説明できてしまう、という内容で、日本でもブームからとうに四半世紀が過ぎてやや食傷気味だといった倦怠感も漂うなか、われわれが何気なく感じているこの業界のパターンのようなものを、簡潔明瞭に抽出してみせる手さばきはさすがだ。彼によれば、差異・他者の原則、超越論性の原則、極端化の原則(ラディカリズム)、狂気の原則という新規性に関わる四つのパラメータによって、この業界で生産される論文・言説の成否はおおよそ判定できるという。そして、こうした評価基準でなされる新規性のゲームで勝つための技法は、だいたい逆張りと誇張法と否定の操作という三つに収斂すると断じる。四原則を合成することで得られる、現代思想というゲームで評価される議論の定型的パターンさえ提示された。人が多くて質疑応答では質問しそびれてしまったが、現代思想が新規性を争うゲームであるにもかかわらず、実際にはこのゲームで成功しているとされる言説のほとんどがこの定型文にすっぽりと当てはまってしまっている、という含意がそこには当然あるはずで、たいへんアイロニカルな振る舞いを自覚的に行ったのが今回の発表だったのではないかと思う。
 私などは、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル研究も含むポストモダン的議論が、その創成期を過ぎると、あるいは「オリジナル」たる元祖の手を離れて以降は、ひどくワンパターンで本や論文のタイトルを見ただけで内容がおおよそ予想できてしまうようなものがほとんどに思えてしまい、毎度のデジャヴ感に耐えきれずにそこから離れてしまった人間である。あらゆる権威の特権性(authorshipとauthenticity)を批判し、オリジナルとコピーの区別を無化しようとするその手つき自体、あまりに定型的ではないか、従来の支配的な理論にはある盲点があって一群の他者を密かに抑圧し排除してしまっているという反復される言説からは、どんな他性も異化作用も感じとれないではないか。この、これでもかというくらいの同一物の(縮小)再生産によって、はたしてどこから逃走しようというのだろうか――。一般に、どんな業界も「通常科学化」が進むにつれて個々の新たな論文が追加されることによる限界生産性は逓減していき、だいたいこんなものかと思えてしまうという側面が多少はあるものだ。しかし、現代思想が「新規性」のゲームだったとすれば、そのゲームが上記四つの原則にだいたい還元されてしまう、あるいはいくつかの定型パターンにじつは収斂するとなると、それが新規性のゲームとして提示されていただけにいっそう、その「終わりなき日常」感に耐えきれなくなってしまうのも不思議ではない。
 ポストモダン系の議論にたいするこうした不満に対処するには、大きく二つの方向が考えられる。第一に、ポストモダンの偉大な思想家たちが提示した根源的な問いは携えつつ、隣接する別の領域へと移動すること、第二に、あくまで現代思想というゲームのなかにとどまり、実力で“本当に”新規だといえる議論を展開すること。日本における90年代以降のポストモダンのいわば「社会学的転回」は、前者の方向の一例といえるだろう。実際には多くが定型パターンの縮小再生産にとどまったようにも思われるが、宮台真司や大澤真幸のような何人かのスターを生み出しもした。ただ、そうした表舞台での活躍とは裏腹に、ルーマン研究を除けば理論社会学はその強度をどんどんと減退させていったのであり、社会学全体としては現代思想が提示した問いとはあまり関係のない方向へと展開していった。思想史・哲学史は、もう一つの例である。評者は大学院では思想史を専攻するようになったが、歴史へと遡行するというのは、第一の方向性に属するアプローチとして有望であるように思われた。シンポジウムでの馬場智一氏の講演は「哲学史を学ぶことがなぜ哲学することにとって重要なのか」という問いに答えるものであったが、評者も(よほどの天才でなければ)哲学的問いを深めていくためにもっとも頼りがいがある導きの糸のひとつは、その歴史ではないかと思う。こと人文系の学問にかんしては、進歩史観などというものは全然当てはまらないと、数百年前の思想家を読んでいてつくづく思わされるからである。だいたい、ヒューマニズムとヒューマニティーズの終焉を語ったポストモダンの大思想家たちが、じつはどれほどの教養(humanities)に支えられて思考したことか。ヒューマニティーズを解体するためには、それが眼前に存在している必要がある。ヒューマニティーズがすでに崩れ去ってがれきと化していた世代は、存在しない敵に向かってハンマーを振り回すことにもなりかねない(しかし、人文的教養を解体せよという主張を真に受けた次世代のポストモダニストばかりが非難されるべきでもないはずではあるが)。いうまでもなくヒューマニズムは根本的に歴史(主義)的である。こうして今日、かつて以上に、偉大な哲学者であるためには偉大な哲学史家でもある必要がある。評者にとっては、中期フーコーのコレージュ・ド・フランスでの講義は、それを証立てる最良のケースである(もちろんフーコーはみずからを哲学者としてよりは歴史家として規定したが)。

 (話が逸れてしまうが、今回のシンポジウムは「哲学研究の比較」というテーマで、現代思想、哲学史とならんで分析哲学の枠では秋葉氏が登壇された。秋葉氏はたいへん的確に、じつは我々が思うよりも分析哲学と現代思想のあいだに方法論上の相互了解可能性があることをしめされたと思う。ただ、質疑応答での大河内泰樹氏のコメントにあったように、ある論文や言説を評価する際にこの二つの領域で基準が衝突し、評価が対立してしまうようなケースに焦点化することで、より論争的な議論が展開されてもおもしろかったように思う。大河内氏のコメントと関連するかわからないが、次のようなことを考えてみることはできそうである。今日のプラグマティックな分析哲学では「整合説」的な真理観をとることが多いように思うが、その場合、手持ちのデータ=状況証拠が互いにできるだけ整合し矛盾しないような真理=実体についての仮説を暫定的に提示し、それを新しいデータと突き合わせながらよりよいものへと修正していくというプロセスが想定される。そこには、(1)手持ちの証拠から複数のもっともらしい仮説が導かれれば、そのうちのどれがもっとも説得的であるかを比較検討するというプロセスがあり、(2)新しい証拠を入手しそれと突き合わせることで仮説の妥当性をさらに補強したり、仮説をより妥当なものへと修正したりするプロセスがある。ここで通常想定されているのは、こうしたプロセスを繰り返していくことで、実体についての仮説は漸進的に収斂していくという想定である。それはどこまでいっても反証可能性に開かれた暫定的仮説ではあるが、そのもっともらしさは向上していくはずだと考えられる。今日の分析哲学はトピックにかんして多元的であってその点ではホーリスティックではないように見える。他方、個々のトピック・小分野についてみると、一定の蓄積がある分野であればもっともらしい説明は少数に限定され、それを補強していくような議論か仮説のマイナーチェンジくらいしか可能ではないという状況にあるだろう。これは一種の詰め将棋みたいなものである。これをおもしろいと感じる人も多いが、それには飽き足らずもっと大胆なことがしたいと感じる人も一定数いる。この後者のタイプの人間が、かつてなら新規性を競う現代思想という領域に惹かれていったのではないか。ところが先述のように、今日少なくない数の人が、その惰性的なノリに辟易してそこから離れていってしまう。千葉氏の分析にしたがえばそれも当然で、というのもこの新規性のゲーム自体がごく少数の定型パターンの再生産になってしまっているからである。ここで真理の整合説を引き合いに出せば、次のように言ってもいいかもしれない。整合説的に構成された分析哲学の領域では検証プロセスが進めば進むほどラディカルな方向転換の可能性は低まっていくため、ある人びとには「つまらない」作業が中心となる。対照的に、補充的な証拠を追加したり説をマイナーチェンジしたりするのではなくて、大幅に異なる新機軸を大胆に提示することができるのが現代思想だったはずなのに、そこで実際に起きているのは、じつはどうしようもないほどのパターンの収斂であった、と。整合説的な世界の「退屈さ」は変わらないまま、しかもパズルや詰め将棋的な楽しさはもともとない、これがいまの現代思想だということにもなりかねないのである。千葉氏の議論からここまで展開するのはさすがに戯画化がすぎるかもしれないが、こうした疑念に現代思想の側が答えていくことで、論争的なおもしろさも出てくるのではないかとも思う。)

 他方、第二の方向については、1998年の東浩紀『存在論的、郵便的』こそあったものの、その後大きな展開はほとんどなかったのではないだろうか。こちらは、個人の才能にあまりに依存しすぎる。この停滞のなかでようやく登場したのが千葉雅也『動きすぎてはいけない』だったと、おそらく言ってよいだろう。ただし、何かが続き新しい流れが生まれるのか、単発の例外事象だったと片づけられることになるのかは、まだ予断を許さないように思われるが。

■ 気変わりとしての切断、死の切断etc.

 個人的な話が続き恐縮だが、『動きすぎてはいけない』という書名でひとつ思い出したことがある。評者が京都に住んでいたときに参加していた京大人文研の共同研究で一緒だったOさんは、国際的に活躍する日本屈指の18世紀フランス研究者で、博士論文の審査にこそ加わっていただく機会はなかったものの、学問的に尊敬している評者の師のひとりである。ただ、頭の回転が速くてどうもいったん話し出すと止まらないところがあり、講読のゼミなどでも参加者全員で闊達に議論しましょうと言いつつ90分間独演会となることもしばしばだった。この本が書店の店頭に並んでいてぱらぱらと立ち読みした後、研究会でOさんに会って「『動きすぎてはいけない』という本が出ましたね。先生には『しゃべりすぎてはいけない』という本も必要そうですね」などと軽口をたたいたが、あまり笑ってももらえなかった。そのときだったかしばらくしてからだったか、共同研究にOさんと親しいJ.-J. Sさんが北大からいらして、研究会後の二次会でタクシーで祇園に向かいながらその話をしてみたら、「あいつはしゃべっているうちは死なないと思っているからな。いくらしゃべり続けてても死ぬときは死ぬよ」みたいなことを冗談めかして言うのを聞いて妙に合点がいったことを、なんだかよく覚えている。
 別に無意味な余談をしているつもりは必ずしもなくて、おそらくこのとき以来、「動きすぎてはいけない」という言葉に込められた切断の契機を、勝手にまずは(人間的な)死と結びつけてイメージしていた。結論的にいえば、今回本書をちゃんと読み直してみてこの連想は著者の意図とは一致していないとわかった(cf. 9章「動物への生成変化」)。けれども、こうした(誤った)先入見からこの本にアプローチしてしまったおかげで、より明瞭にその輪郭が見えてきた問題がある。死というものは、それを純粋な可能性として理解するハイデガー的で実存論的な把握、一人称の死は決して経験できないという意味でどこまでも可能性にとどまるという理解に立てば、どうしても否定神学的な超越性がつきまとうように思える。千葉の議論からすれば、そうした「切断」はおそらく過剰に重たい意味をあたえられた切断であって(ただしハイデガー的に理解された本来的な死は通常の「意味的切断」とは根本的に異質だと思えるが)、「動きすぎてはいけない」というタイトルに込められているのはもっと軽い「非意味的切断」である。かくして先の問題とは、「死の切断」やそのコロラリーなしで、非意味的切断のみで、どこまでも続くかのような緩やかな同一性と連続性が誘うアンニュイ(倦怠感)やメランコリー(憂鬱)を克服できるのか、という問いである。
 これまた余談だが、先のシンポジウムの懇親会で急に乾杯の挨拶を振られて、不意打ちだったのでつい自分の身に最近起きたやや重ための「切断」に触れて、贅沢にもこれまで研究会ではときどき倦怠のような感覚にとらわれることもあったが、「切断」後の久々の復帰戦で、つぎつぎと会話と議論が交わされるこうした空間に身をおけることの喜びと有難味を、あらためて新鮮に、生き生きと感じることができたなどと少々偉そうなことを言った。実感のレベルでやはり、やや大げさに言えば日々新たに生まれ変わるような新鮮な生というものを、死が意識させるような有限性の自覚を離れて、非意味的な切断のなかで、はたして得ることができるのだろうか――こうした疑問がどうしてもまとわりつく。評者の本書にたいする読み方は、こうした問いを伴奏者としていたかぎりでだいぶ偏ったものであることを免れない。

■ 接続的ドゥルーズvs切断的ドゥルーズ

 浅田彰が評しているように、本書はたしかに「退屈な優等生ども」がするような「ドゥルーズ哲学の正しい解説」ではなくて、一種の兆候的読解を通じてドゥルーズのある側面を誇張的に拡大しそれによってかえってその本質に鋭く迫るという方法を採用している。だが一方でたいへんスマートな研究書でもあって、立論の構図自体は明確で整然としている。その基本線をごく大雑把に、次のようにまとめられるだろう。これまでのポストモダン思潮では、生の潜在的な持続性や連続性を強調する「接続的ドゥルーズ」が基調であったが、じつは「切断的ドゥルーズ」も並走している。ドゥルーズ哲学の「少年期」におけるベルクソン主義への注目は、プロティノス的な根源的一者(=全体)を直観する新プラトン主義の伝統へとその哲学を組み入れ、スピノザ、ニーチェ、ベルクソンの、いわゆる生の哲学のポストモダンな継承者としてドゥルーズを位置づける傾向にあった(P. モンテベルロ『ドゥルーズ』2008年。cf. 123頁)。これに対して著者は、ドゥルーズ哲学の「幼年期」に見出されるヒューム主義に着眼し、認識論的にばかりでなく存在論的にも離散的な光景を見せてくれる「切断的ドゥルーズ」を取り出す。このドゥルーズは誇張法的に延長されて、ベルクソン主義者たる少年期のドゥルーズがもつ違った相貌さえ垣間見せるだろう。
 ドゥルーズがじつはヒューム主義者で(も)あることが、なぜそれほど重要なのか? それは、バディウなどによってかけられた存在論的ファシズムの嫌疑に答えるためである。もちろん、ベルクソニアンのドゥルーズが通常のヘーゲル主義者であるはずはない。彼が称揚するのは、同一性と差異の構造化され意味づけられた全体・体系ではない。スピノザからヘーゲルへと向かわず、スピノザからニーチェとベルクソンのほうに向かう線(系譜といいたいところだが)は、全体を統合しまとめあげるような意味を想定しない。つまり、そこでの全体は、目的論的な歴史(=世界史)に支えられた意味的接続・連続体としてではなく、潜在性として、純粋な持続としてだけある。この「非意味的接続」に、ドゥルーズは「矛盾にまでは至らないような差異の存在論」(128頁)によってアプローチしようとした。それは、差異を止揚すべき矛盾としてあつかってしまう弁証法的なプロセスを“発動”させない、矛盾まではいかせない差異の存在論である。だがしかし、差異と同一性によって秩序づけられた現実的な(actuel)世界の背後に潜む、潜在的な(virtuel)一者という連続体の想定は、反転した超越論主義として、存在論的な水準においてなおファシズムを、あるヘーゲル主義を隠しもっているのではないか。なおこうした嫌疑はつきまとう。
 ドゥルーズは、意味的切断(と意味的接続)に非意味的接続を対置しただけではない。ヒューミアンとしての彼は非意味的「切断」に光を当てることも怠ることがなかった。これが、バディウに代表される批判にたいする本書のとりあえずの答えである。ヘーゲル主義のツリーから切断して、非意味的につながっていくリゾームへ向かうのが80年代ポストモダンの最初の逃走だったとすれば、著者の目論見は、切断がツリーからのそればかりではないこと、リゾームそれ自体でも不断に生じていることに目をむけさせることにある。リゾームは意味的に連関しないさまざまなものを接続させていくだけでなく、よく見ればその先々で気まぐれに切れてしまってもいるのである(cf. 21-3頁)。
 リゾームは合理的な理由なく、「いい加/減」なところで切断されて有限化する。しかし、動かないわけでもなければ「動きすぎる」のでもいけない、その“よい加減”とは、どのようにあたえられるのだろうか。ポストモダンの差異化戦略は、「際限なくむちゃくちゃになれというわけ」でもないという(cf. 48-50頁)。やりすぎと慎重さや適切さのあいだには違いがあるというわけだが、もはや意味的な連関を可能にするコモン・センスには頼れないはずなのに、少し都合のいい話に聞こえるかもしれない。接続過剰はたしかに事物すべての混然一体をもたらしかねないので切断が“求められる”のだが、それが接続の「過剰」が回避されるように“適度に”生じることの保証はどこにあるのか――。切断が生じうる仕組み、それを可能にしている条件についての、ドゥルーズ&ガタリに即した説明はなされている。彼らの原子論的な立場(微粒子論)は、分析不可能な混然一体と唯一正しい分析可能性という両極を斥けて、ある状態の個体を(一時的に)構成している関係の束が複数のしかたで分析=分離されうるとする。あるしかたでの関係束に対応する個体は、別のしかたでの関係束に対応する個体に「組み変わり」(agencement)を起こしうる、これが生成変化の原理である(cf. 79-80頁)。(ただ、これだけでは先の疑問に応えることにはなっていないような気はするが。)
 同時に、おそらく次のように言ってよいだろう。ヒューム主義者としてのドゥルーズも、連続的ではなく離散的な原子論的世界観――aはbであるという(必然的)接続に余地を与えない、a「と」bという「関係の外在性」の世界――をベースとしつつ、そこでの原子論的諸要素は連合の原理によって接続していくが、しかしその連合は究極的には基礎づけられない「恒常的連接」に依拠するにすぎないので、自由な「空想(fancy)」によってその結合は容易に切断されてしまう、と論じる(cf. 90-6頁)。こうして、著者が議論するリゾームにおける非意味的切断には二つのかたちがあるように思われる。(1) あるしかたで分析=分離された離散的世界のばらばらの諸要素は、(分析的にも総合的にも)「である」で接続されるような内包的・内在的な関係にはなく、「と」で外在的に並置されるのみであるためにいつ切断してしまってもおかしくはない。(2) あるしかたで分析された世界の個体は、別のしかたで分析された個体へと「組み変わり」によって生成変化しうる。

■ どこまでも連続する退屈な世界からの(死への先駆によらない)エクソダスは可能か?

 第二の非意味的切断が、おそらく評者の問い――リゾームにおける切断は先駆的覚悟性を通じた本来性への回帰などによらずとも、死への先駆と同じほどの強度でもってあの倦怠感を吹き飛ばせるのか――にたいする応答の領域となるだろう。『アンチ・オイディプス』は、超自我の脅し(あるいはフロイトの脅しと言ってもいいかもしれない)に屈する必要などないと訴えていた。否定神学的に担保された意味世界の構造から(乖離的・分裂的に)立ち去ってしまえば、あとは差異も同一性もない無秩序な世界、何の意味もないただ混然一体とした世界が待っているだけだ――つまり、死ぬほど退屈な世界への恐怖を梃子にした脅しである。あまりの退屈さに憂鬱になってしまう(終わりなき日常など耐えられない?)人びとには、終末論的なテロリズムしか残されてはいないのだろうか? この種の恐れにたいして、純粋にヒューム主義的だといえるかもしれない第一の非意味的切断をしめすだけで、はたして彼らを説得できるだろうか。「虚構の時代の果て」にある自殺願望とは、ラカンのいう対象aによって逸らされ飼い慣らされるに越したことはなかった、純粋な欠如(ファルス)それ自体への欲望を、ほとんど無媒介に備給しようとするものである。対照的に、シニフィアン連鎖(aはbを意味し、bはcを意味し…)のなかで、いつの間にかこの連鎖の終わりなさの象徴たるファルスへの欲望がごまかされ、適当なところで連鎖は断ち切られて有限となること。これが終わりなき日常を生きる作法となろうが、しかし問題は、そうした切断をもたらす偶発的で外生的なショックを極小化してしまう、現代のテクノロジカルな諸環境こそが、接続過剰=つながり過ぎの(疑似)世界を新たに可能にしているというこの事態にあるのである(他方、「不可能性の時代」にあってわれわれがなお純粋な欲望の疑似的な実現を、疑似的な革命か終末論的なカタストロフを求めていることも確かである)。
 これは重要な局面で、社会システムの問題である。機能的に分化したサブ・システムは、二値コードを典型とする固有の観察図式にもとづいて、そもそも閉鎖的に構成されている。重要なのは、システム(の内部)とその環境という区別自体が、システム自身によって引かれるということである(現象学的還元を考えてみればよい)。客観的な世界がまずあって、システムがその部分領域において自らが扱いうる程度にまで複雑性を縮減して「部分システム」が析出するのではない。各部分を統率する全体システムなど存在しない。機能的に分化したそれぞれの部分システムは、世界を観察しようとするその観点において特種的であるが(その行為は次なる支払い行為を惹起するか否か、その行為は合法であるか否かetc.)、対象を実定的に限定するのではなくあらゆる事象についてその図式にもとづく観察が可能である点で普遍的である。普遍的な機能システムがいくつも重なり合っているコミュニケーションの集合体が、社会全体なのである。このオートポイエティックなシステムの世界では、ある部分システムのアウトプットが別の部分システムにインプットされることなど当然ありえない。システムが閉鎖的であるとは、しかし決してその外部環境を認識しえないということではなくて、ただ外部にたいしても自己自身の内在的なコードのみにもとづいて観察するということである。さて、そうすると各システムがもともと閉鎖的であるというのは、観察図式が固有だというだけで、その内部で連綿と続くコミュニケーションの連鎖・接続は、外部からの偶発的なショックによって容易に攪乱されうるということになる。ただ、そうした事態にたいしても、システムはあくまで自らの観察図式に則って対処しようとするのだが。
 コミュニケーションの過剰接続は、したがって、社会システムの作動上の閉鎖性とは独立に定義できる。すなわち、システム固有の観察によっては飼い慣らせない類の偶有的な外的ショックにたいして感受的な状態とそうでない状態とを、同じ閉鎖系について区別することはできる。この種の偶有性の到来にたいして感受的でない状態にあるシステムは、システムが実在的である以上、コミュニケーションの自律的な連鎖・接続を終焉させてしまう恐れさえある。システムは死滅しうるのである(現代思想や人文学という言語ゲームが終焉する現実的な可能性を考えてみればよい)。外的ショックに感受的でないシステムがより脆弱であるというのは、あるコミュニケーション事象について(多くの場合に二値的な)観察図式の区別された項のどちらを割り当てるのか、そもそもシステムはこれを内発的には決定できないからである。
 対面状況を主とする具体的な相互作用システムを考えてみよう。それは多くの場合に確立された機能システムの影響下にあるが、たとえば大学のゼミ中に突然「昨日なにを食べたか思い出せない」と言い出して(KY)、別のコミュニケーションを始めてしまうことだってできなくはない。おそらくポストモダンがもたらした過剰接続の連続的世界(疑似世界)に特有の退屈さ、あるいは容易に先が見えてしまう過剰な予期可能性には、このタイプの非意味的切断でなければ、解毒剤とはなりえないだろう。この切断は(2)の「組み変わり(agencement)」に相当する。(1)の非意味的切断では、なぜかいつもより少し早くチャイムが鳴ったとか、教授の携帯に緊急連絡が入ったとか、急にお腹が痛くなったとか、せいぜいその程度の切断でしかないだろう。しかし、組み変わり=変性を起こすタイプの非意味的切断の介入が、すでに接続過剰にあるわれわれの世界でどうして、どのように起こりうるのか、残念ながらこの点はいまだ定かではない。むしろ、「島宇宙」化としての性格を強めるオタク化――「ハマれる」ものを見出すことの精神的な防衛戦略としての意義はたしかに過小評価できないが――のもとで、根源的偶有性に否応なくさらされてしまう機会を構造的に排除するような情報環境が実現しつつあるようにも見える。だとすれば、「切断の哲学」に続くべきは、「切断の社会学」であるだろう。


(※ なお、今回踏み込めなかった否定神学批判の問題については、内田樹『他者と死者』への書評で簡単に触れた。特に『アンチ・オイディプス』の否定神学問題に関しては信友建志氏の議論が(評者が口頭でうかがったことがあるだけで文章になっているのか知らないが)興味深い。ステファヌ・ナドー『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』の書評も参照。同訳書には信友氏による訳者解説が付されている。)

(評者:上野大樹)

更新:2018/02/16