書名:社会の新たな哲学――集合体、潜在性、創発
著者:マヌエル・デランダ
訳者:篠原雅武
出版社:人文書院
出版年:2015

 本書の著者マヌエル・デランダは、映像作家として出発した後、独自の理論を展開してきた哲学者である。近年では、ジル・ドゥルーズの研究者として知られ、本書においてもドゥルーズに言及している箇所が多く見られる。
 本書で主に参照されている古典的な名前を挙げてみると、ウェーバー、ギデンズ、ゴッフマン、ブルデューといった社会学者、アリストテレス、ヘーゲル、ヒューム、ドゥルーズ、フーコーなどの哲学者、そして歴史家のブローデルと多岐にわたっている。さらに後半部の社会運動の分析で多く参照しているのは、チャールズ・ティリーという歴史社会学者である。これだけ見ると、デランダがどういった思想的な布置関係のもとにあるのか、あるいはここで想起できるような潮流から独立した哲学者として立っているのか、いぶかしむむきもあるだろう。評者はデランダの仕事に関して無知であったので、様々な論者をどのような見通しのもとで論じているのかという期待をもって手に取った。初見の書に臨むのは、新鮮な読書の愉しみを与えてくれるものである。
 デランダは様々な論者を俎上に載せるが、意表を突くような組み合わせを並べることでオリジナリティを出そうとしているわけではなく、それぞれの論理を丁寧に整理しながら、みずからの理論との相違を明確にする。理論家としては潔癖なのであろう。前半部にあたる第一、二章では、主要ツールである集合体理論の理論的な骨格が提示される。後半部にあたる第三、四、五章では、集合体理論を援用しながら社会運動の分析を行い、人間から組織、そして領域国家へと上方へ向かう運動を描き出している。
 後半部では、シリコンバレーや中世ヨーロッパなどの歴史的事例が考察の対象となっているが、個々の民族文化を同等のものとみなす多文化的な立場をとってはいない。デランダは、時間的・空間的に異なる事例を網羅的に検証することで、自身の理論の正当性を示そうとしているわけではないのだ。本書で対象となるのは欧米に限られる。制度的な組織や対人ネットワークといった社会的集合体のいくつかは、文化の異なる場においてもほとんど不変であると彼は考える。まずは自身の理論が普遍的なものであることを論証し、その現われ方の事例を後半部で取り上げている。つまり、本書で理論化を試みている「新しい集合体理論」は、異なる文化や時代に対しても通用する、歴史貫通的なものとして構想されているのである。  
 本書では自身の概念装置の説明に重きが置かれ、歴史的な側面の探究が徹底されているとはいえない。しかし、デランダは歴史を捨象し、静態的な構造分析のみを重視しているわけではない。こうした方法論のもとでデランダが目指すのは、歴史をつむぐ主体である実体を存在論的に明らかにし、叙述によって読者がミクロからマクロへと上方へ向かう運動を経験することである。前半部は集合体理論について緻密に説明されているため読み進めるのに骨が折れるが、後半部はブローデルを援用しつつ都市や国家へと考察の射程が広がり、一気に視野が広がる印象だ。また、時間をおいて再読すると、ミクロからマクロへと読者を導くというデランダの思惑通りに読み進めていたことに気づかされる。
 本書の考察は、〈私たちが正当な理由にもとづいて確かに存在していると主張できる実体はいかなるものか〉という問いをめぐって行われる。冒頭ではデランダが批判する理論についても丁寧に説明がなされるので迂遠な印象を受ける。しかし、集合体理論の導入のあたりからは、現在では古典となった理論をデランダが自分の理論へと接続させ、速度が増していく。
 ところで、〈社会とは何か〉というテーマは、古くから部分と全体に関する有機体論的な隠喩によって語られてきた。個人が集まり集団となる。集団が集まり共同体となる。共同体はさらにスケールが大きくなっていく。このように、部分が部分と次々に連結され全体を構成していくとみるのが、有機体論的な見方である。部分は全体の構成要素であるほかの部分と関係し、有機体的な全体性を実現する。この理論における一般的な概念をデランダは「内在性の関係」と呼ぶが、その「内在性の関係」という考え方自体の克服をデランダは試みる。
 ここで、荒唐無稽ではあるが、部分と全体、個と社会といったイメージを喚起するために、三島由紀夫の小説『青の時代』(1950)の一節を引き合いに出してみよう。
 主人公である川崎誠は、幼い頃から権威の象徴としてある父親への叛逆心を抱いていたが、父の野心と自分の野心が重なっていることにいらだちを感じてもいた。
 大学入学のため上京した後、誠は学生ながら僚友の愛宕と「太陽カンパニイ」なる会社を設立する。生活のためではなく、数量刑法学に関する自分の理論を実験するためであるという矜持があったものの、客の来る気配のない貸事務所で、誠は漠然とした不安に駆られる。

 「かれらは当てずっぽうに、社会という無形のものに釣糸を垂れているのであった。泛子(うき)は動いたろうか? まだ動かない。……誠は不安になった。社会というものが、はじめて彼にはなまなましい実在として感じられた。この無形の実在、不機嫌そうに黙っているこの巨大な暗黒の動物、それが壁一重むこうにとぐろを巻いているように思われる。それは脈を搏ち、喰い、呑み、恋をし、眠るのである。これに対して人は無力で、多くは勤め人になって隷従するか、承認になって媚を売るかである。近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」というやつはもっとも人間的な幻影だ。人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。原始人のように健康に欲望を追求し、原始人のように生き、動き、愛し、眠るのは、近代においては「社会」なのである。」(新潮文庫版、p.108。)

 つまり、誠は世間知らずの青年であることに引け目を感じ、若気の至りともいうべき行動に出たのだったが、いざその真偽が問われる場面になるや漠然とした不安を抱いた。誠は、得体の知れない「社会」という実在に恐れをなし、みずからの無力を悟ったのである。
 寄り道が長くなったが、〈個と社会〉という問題は、このように学問的な領域を超えて文学作品においても扱われており、何をいまさらという感もある。しかし、デランダは合理的な個人、社会、あるいは国家といった形象を物象化された実体として把握することから脱却しようとする。そうした態度は次の言葉からも明確にみてとれる。「「国家」のような概念の使用を差し控えるのは重要だ。なぜならば、そういった物象化された一般性は正当な存在論的実体でないというだけでなく、あまりにも硬直的で、政府という階層秩序を形成するそれぞれに異質な組織のあいだに存在している外在性の関係をとらえることができないからだ。」(pp.158-159)つまりデランダは〈物象化された一般性の存在をいかにして想定しないか〉という立場をとるのだが、これは旧来の問題の立て方自体を見直しているといえよう。物象化を回避するために、デランダは最終的な産物である実体から考察をはじめるのではなく、その産物が産出される歴史的な過程に着目する。そのためのアプローチが集合体理論というわけだ。その筋道を追ってみよう。
 「内在性の関係」を克服するために、デランダが本書で導入するのが「外在性の関係」である。「外在性の関係」は、ドゥルーズが先鞭をつけた集合体理論をもとに説明されている。 デランダはドゥルーズの集合体理論とは別種の理論を打ち立てていると述べるが、大筋では近いものとみて差し支えなかろう。戦略的に自分の定義づけを行うとしながら、違いを明確にしているわけではなく少し口篭っているような印象を受けた。ドゥルーズの存在論に対する分析をすでに別の本で行っているので、そちらに譲っているのかもしれない。
 デランダが本書で依拠するドゥルーズの集合体理論とは、端的にいって「作動配列」のことである。デランダは集合体理論に引き寄せて以下の箇所を参照している。「ひとつの作動配列〔集合体:デランダの注〕とは何か。それは多くの異質的な項を含むひとつの多様体であり、年齢、性別、界を貫いて―様々な本性を貫いてそれらの項の間の諸々の結びつき、諸々の関係を成立させるひとつの多様体である。またこの作動配列の唯一の単位は共-機能作用に属している。つまり、それはひとつの共生、ひとつの「共感」なのだ。」(G・ドゥルーズ、C・パルネ『ディアローグ』p.119)ドゥルーズが挙げる例はスズメバチと蘭である。両者は別々の種であるが、植物と受粉する昆虫という関係性において、ある種の集合体を形成している。この関係性は偶然的なものであり、両方の種が共進化することによって定まっていくものである。
 先の有機体論的なたとえで示される「内在性の関係」に対置する形で、デランダは「外在性の関係」によって成り立つ集合体理論を提唱する。「内在性の関係」とは、全体の構成要素である部分(項)同士の関係を指すが、「外在性の関係」とは異質の部分との関係を意味している。
 デランダは集合体概念を二つの次元から規定する変数として次の四つを挙げる。第一に、物質的な役割。これは例えば、対面的な会話や対人的なネットワーク、階層秩序的な組織があたる。第二に、表現的な役割。これは言語やシンボルに還元されず、人々のふるまいや行動、話題の選択なども含まれる。第三に、領土化の概念。領土化の過程は「実在の領土の空間境界を規定し明確にする過程」を意味する。第四に、脱領土化の概念。脱領土化は「空間境界を不安定化させるか内的な異種混淆性を高める」過程を意味する。
 四つの分析視角は本書を通じて一貫して用いられている。ここにデランダ集合体理論の特異性があるといえよう。彼は集合体理論のいくつかの事例を挙げており、小規模な集合体の説明については社会学者のゴフマンに着目し、大規模な集合体についてはブローデルに代表させている。ミクロレベルでの集合体を考える際も、人間主体といった主体をたてることを目的としているわけではない。下から上へと向かう存在論的なモデルを打ち立てるにあたって〈人〉というスケールが適当であるとしているが、あくまで「経験の内容の只中で外在性の諸関係が確立されていくのにともない創発してくる主体にかんするモデル」の構築が必要であるという。
 第三章で主体性の創発のモデルとしてドゥルーズのヒューム論を援用し、ゴフマンの会話分析へと移行する叙述は実にあざやかである。人と人の間の相互作用の一つである会話は、人が集まることによって始まり、去ることによって終わる。それは、短く、移ろいゆく、はかない集合体である。会話は、交わされた会話の内容という部分的な構成要素に還元されない。他者との出会いによって起こる会話には、身ぶりや言葉遣い、相手に対する位置などが持ち込まれる。それにより、その人の公共的な人格や面影が表れているからである。
 集まる人間が固定化され会話が繰り返し行われると、長期的に持続する「社会的実在」が創発するとデランダはいう。この「社会的実在」が対人的なネットワークであり、その重要な特性は、構成する人々の連関の密度と安定性である。さらに、共同体の高い度合いの連帯性が、所属する成員の個人的な理由と動機の様々な組み合わせと一致することで創発してくることを、次のような身近な例で鋭く言い当てている。「共同体の行事に関わっていることにより呼び起こされる一緒にいるという感覚のせいでやる気を出す人もいれば、利他的な感覚からやる気を出す人もいるだろうし、あるいは、厳密な互恵性にかんする計算を理由にやる気を出す人もいるかもしれない。」(p.109)デランダは下から上へと上昇していく叙述方法をとっているが、ここでは会話を媒介にして集合体が創発するメカニズムを描き出す。そして、デランダのみるところ、会話から集合体が創発するメカニズムは、一時的な集合体を形成する「社会的な出会い」にとどまらず、社会運動といったより大規模な現象にもあてはまる。
 たとえばデモという現象については、体制の横暴なふるまいに対して草の根運動という対抗軸が形成されていくと考えがちだが、デランダは歴史社会学者のチャールズ・ティリーの立論に依拠しつつこう述べる。公共的なデモは、運動とそれに対する対抗運動と警察の間での大規模な会話である、と。つまり、三者の区分を自明のものとするのではなく、むしろ三者の相互作用(「会話」)からも新たな集合体が創発するというわけである。これはデランダが物象化された一般性を回避しようとしていることと相即不離の関係にある。というのも、社会運動は言語的な標識によって画される区分を揺り動かすことが目的であるからだ。
 会話をもとにした集合体を論じていることからしてデランダが言語を重くみているのは疑いない。しかし、言語が知覚や現実すべてを構成するという立場をとっているわけではない。言語を「決定的で特別な構成要素として常に論じる」とする一方で、「問題の核心部分から取り除かれるべき」であるという。これは、主体性の発生を考察する際に、言語に基づくモデルとは別に、ヒュームが述べる「感覚印象」に拠って主体の経験を捉えようとしていることからも裏づけられる。
 特定の名称(たとえば、「学生」)によって区分される特定の社会集団は、そのように指示する言葉の意味内容へと還元される。つまり、当該集団の本質へと還元されるのだが、それは、デランダからすると、物象化された一般性にほかならない。社会運動は、所与の区分の意味内容をめぐって行われるわけではない。区分に付与された制約や不平等な法的、経済的な意義をめぐって行われるというのが彼の主張である。
 最後に、社会運動の分析にある熱のこもった文章を紹介して締めくくろうと思う。「労働者の共同体でのストライキ中に起こる逆境をともにするといった営みや、あるいは共同体のために犠牲をすすんで捧げようという意思表示は、信頼を表明し、そして構築していく。重要な点は、連帯を表現するということにかけては、行動のほうが言葉にもまして高らかに語る、ということだ。」(p.110)
 個と大小の社会構成体について論じた読み応えのある一冊である。様々な古典的な理論を最大限継承しつつ、新たな理論構築を進めるスタイルに魅かれるむきには一読の価値ありとおすすめできる。

(評者:渡辺恭彦)

更新:2016/07/19