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カール・ライムント・ポパー著、 内田詔夫、小河原誠訳
 『開かれた社会とその敵』

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書名:開かれた社会とその敵

著者:カール・ライムント・ポパー

訳者:内田詔夫、小河原誠

出版社:未来社

出版年:1980


 

1.はじめに


 この本を読んで自分がこれまで漠然と考えていたことははっきりとし、また励みにもなったので、みなさまにぜひ紹介したく書評を書きました。全体主義やマルクス主義を位置づけるという現代的な問いに対する答えとともに、「知」や「科学」をどのように考えればよいかという指針も示されます。もっと身近なところに引きつけて言うと、労働環境など今の社会がおかしいと感じつつもマルクス主義的な活動家集団はちょっと…という感覚や、大学で職を得ることはできなくても知を求めたいという気持ちについてはっきりさせる助けとなりました。



2.ソクラテスとプラトン


 実は京都アカデメイアのこの場所に書評を載せることに少しためらいました。というのも、当団体の名称のもととなっている学園「アカデメイア」を創設したプラトンがこっぴどく批判されているからです。その批判の要点は、プラトンが本質主義者で擬似合理主義者であり、開かれた社会の敵だというものです。
 本書のタイトルにも入っている「開かれた社会」とは「諸個人が個人的決定に直面する社会」のことであり、その反対の「閉ざされた社会」とは「呪術的ないし部族的ないし集団主義的な社会」のことです。言うまでもなく全体主義は後者に該当します。そしてポパーによればプラトンが全体主義の起源だということになります。
 本書の記述を要約すると、プラトンは理想的なイデアという本質を想定し、それを歴史的な過去の黄金時代に据え、その本質をつかむことのできる少数の選ばれた者が統治を行い、なるべく変化しないことがよいと主張した点で全体主義的だということになります。プラトンの『国家』に見られる、生まれながらの統治者が教育を受けて統治を行い生まれながらの奴隷は奴隷の境遇に満足せよという主張は、優等な人種であるアーリア人が支配し劣等なユダヤ人は根絶せよと主張するナチス的な全体主義と通じます。
 『メノン』に見られるように奴隷と対話することで無理数の発見へと導いたソクラテスとはその点で対照的です。ソクラテスは自分が間違っているかもしれないという謙虚な姿勢を常に持ち、相手の身分を問わず対話を通じて真理への接近を目指す真の合理主義者であるのに対し、プラトンは少数の人が直観的に得た知識を権威によって正しいとする擬似合理主義者だと、ポパーははっきり述べます。
 このことを理解して私ははっとしました。「専門家でも大学関係者でもないけれども京都アカデメイアの活動に参加することはできますか」という質問をよくされますし、私自身も大学に属しておらず専門家でもない者が学問をしようとする際に壁を感じることがあります。しかしその壁は擬似合理主義者の壁であって、真の合理主義の観点からは所属や専門家かどうかということは問題とならないはずなのです。



3.アリストテレスからヘーゲル


 所属や専門を問わず学問できると言うと、専門用語も知らない素人に科学や知を探求できるはずがないという反論が聞こえてきそうです。そこで専門用語についてのアリストテレス的な本質主義的解釈とポパーが提唱する唯名論的解釈を紹介します。
 「小犬とは若い犬である」という文があるとします。アリストテレスのような本質主義的解釈ではこれを「小犬とは何か」という問いに対する答えだとみなすのに対し、現代の科学で一般に採用されている唯名論的解釈ではこれを「われわれは若い犬を何と呼ぶべきか」という問いに対する答えだとみなします。つまり、後者では専門用語は略記的記号に過ぎないということになります。「小犬」という専門用語を知らない人がいたら「若い犬」だと説明すればよいだけの話です。
 言葉巧みに叙述するという技巧も合理主義的な科学にとって必要不可欠なものではありません。ヘーゲルの弁証法を使うと何とでも言えてしまうのであり、そこにあるのはただ言葉のうまさだけです。そのことについてはレヴィ=ストロースに語ってもらいましょう。



 こうして私は、すべての問題は重大なものでも些細なものでも、いつも同じ一つの方法を適用することによってけりをつけられるということを学んだ。その方法というのは、問題の伝統的な二つの見方を対置させることにある。まず、常識を正当化することによって第一の見方を導入し、次にその正当化を第二の見方を使って崩し、最後に第一と第二のものが、いずれも同じように部分的なものであることを示す第三の見方の助けを借りて、どちらにも優位を与える ことなく、退けてしまうのである。第一のものと第二のものは、言葉の技巧によって同一の実在の相補う二つの側面に還元することができる。たとえば、フォルム〔形〕とフォン〔内容〕、コントナン〔含むもの〕とコントニュ〔含まれたもの〕、エートル〔存在〕とパレートル〔外見〕、コンティニュ〔連続〕とディスコンティニュ〔不連続〕、エッサンス〔本質〕とエグジスタンス〔実在〕など。こうした修練は、思考する代りに一種の駄洒落を弄することであり、つまりは言葉の上だけの問題になってしまう。すなわち、それは用語のあいだの類音、同音、多義などといったことであり、それらは次第に純粋に思弁的な見せ場を作り出すのに役立つことになり、立派な哲学の研究とは、それを上手に行なったものということになるのである。
 ソルボンヌでの五年間は結局、この「体操」の修得に充てられたということができる。そかし、この体操の危険性は明白である。まず、これらの観念再構成の方法は極めて簡単なので、この遣り方で取り組めない問題はないからである。教授資格試験、特に最高の試練であるあの講述(籤を引いて決めた一つの問題を、数時間準備したあとで論ずるのであるが)の準備のために、学友と私とは最も馬鹿げた課題を出し合った。私は十分間の準備で、堅固な弁証法の構築に基づいて、バスと電車それそれの優越についての一時間の講演を行なうことができると自負していた。この方法は、どこにでも通じる合鍵を提供してくれるだけでなく、豊富な思考の題材の中に唯ひとつの、いつも似たような形式――場合により、ごく初次的な修正は行なわれるが――しか認めないように仕向けてしまうのである。それは、幾らか楽譜に似たところがある。その楽譜がト調とかヘ調で読まれるということが解りさえすれば、楽譜は唯ひとつのメロディーに還元されてしまうのである。この観点からすると、私の受けた哲学の教育は、知能を練磨すると同時に精神を枯渇させてしまうものであった。



レヴィ=ストロース著、川田順造訳『悲しき熱帯〈1〉 』(中央公論新社、2001)pp.72-73


4.マルクス


 プラトンとヘーゲルに関しては辛辣だったポパーもマルクスのことは一定評価しています。労働価値説などには難点があるものの、マルクスの姿勢はおおよそのところ合理的であり、当時の悲惨な労働者の窮状を明らかにするという人道的側面が評価されます。その一方で科学の名のもとに未来の予言を行なって後の時代の人たちを本質主義的思考へと導いたことが決定的にまずかったと批判されます。
 マルクスは来たるべき未来の予言はしていても、その未来社会での具体的な制度についてはほとんど何も述べていないので、ロシアのようにいざ革命が起こった場合に、どのような制度設計で運営すればよいかがわからなくなります。
 さらに悪いことに、予め未来が決定されているのであれば、ファシズム(全体主義)も革命の準備段階にすぎないという位置づけになり、それに対して抵抗する必要性も感じられなくなってしまいます。労働者の境遇は段々と悪くなってついには革命に至るというマルクスの窮乏化理論に従えば、労働者の境遇が悪くなることさえもが革命にとって必要なことになってしまいます。
 教条的なマルクス主義者にとっては、マルクスが予言した未来の共産主義革命が絶対であり、目の前の労働者の境遇が悪化したとしても、革命への道筋だということでむしろ喜ぶべきものとなってしまいます。そうではなく、未来が決まっているわけではないのだから自分の今の考えも誤っているかもしれないと意識しつつ、試行錯誤と合理的な対話により少しずつよりよい社会を目指すピースミール社会工学が重要なのだとポパーは主張します。
 私が教条的なマルクス主義的な活動家集団に対して抱いていた違和感の正体がはっきりしました。今の労働者の境遇は悲惨だという問題意識は共有しつつも、労働者といっても正規雇用と非正規雇用とでは大きく異なるなどと具体的な話を進めていくと「マルクスがこう言っているからこうなのだ」といったところに突き当たってしまうとやるせなくなります。自由な意見を封殺されて団体の意思決定がなされることにも私は耐えられません。彼らが危機を煽って楽しんでいるように見えるのも嫌です。問題意識は共有しているのですから、合理的な対話を通じて、少しずつでも改善していきたいのです。



5.おわりに


 ここまでは本書に全面的に賛同してきましたが、批判がないわけではありません。
 真の合理主義は誤謬可能性(反証可能性)を前提とするということはよいとしても、現代の科学のように反証をするためには大がかりな装置が必要だとすれば、事実上一部の人にしか反証をすることができなくなってしまいます。そこまでいかなくても、大学などで長く勉強をして知識が豊富な人とそうではない人とが議論をすれば、よほど気をつけないと前者が後者を言い負かしてしまうことになりがちです。
 ポパーは民主主義を大切にしますが、民主主義にかかるコストという問題もあります。きめ細かに自分たちの意見が反映されるような仕組みがあると理想的ですが、数年に一度選挙をするのがせいぜいのところです。しかもその選挙で自分の意見が反映されたと感じるのは難しいです。
 それでも本書で言われているように希望をもって少しずつよくしていこうと努力していきたいです。



(評者:浅野直樹)

更新:2017/01/05