書名:「移民国家ドイツ」の難民庇護政策
著者:昔農英明
出版社:慶應義塾大学出版会
出版年:2014

1.本書の概要

 本書は、長期にわたるフィールドワークと膨大な文献の渉猟を通じて、戦後ドイツの移民・難民政策がどのように変容して現在に至るのか、そして、現在の移民・難民政策がどのような形で規定され、いかなる問題点を孕んでいるかについて、その構造的布置を、脱国家化・超国家化・再国家化という鍵概念を用いて明らかにする意欲的論考である。
 グローバル化の進展とともに、国内外の脱国家的主体(多国籍企業・市民社会・国際NGOなど)や超国家的主体(EUなど)の影響力増大によって国民国家の力は相対化し、先進国における移民の保護は発展してゆく方向にある――脱国家・超国境の研究視点を重視するこれまでの研究においては、このような見方が一般的であった。
 著者はこのような見方の一面性に対して批判の目を向ける。超国家化・脱国家化が一方で進展すると同時に、それへの連携や反作用によって国家主権の再強化(再国家化)の動きもみられ、しかるべき保護を受けられずに翻弄され窮状に陥っている難民や非正規移民がいるという現実があるのだ。
 そもそもドイツでは、ナチス時代に膨大なユダヤ人難民を生み出した反省から、第二次大戦後は基本法(日本の憲法に相当)の諸規定によって、他国からの亡命者を歴史上かつてない寛容さで受け入れてきた。しかし、戦後の経済成長が頭打ちになった1970年代ごろから、豊かなドイツ経済に憧れる事実上の労働移民が、「経済難民」として庇護制度を悪用している、という扇動的な議論が優位を占めるようになる。そして、ついに1993年、基本法の改正によって難民庇護制度はかつての寛容さを失い、制限的なものとなる。これは1970年代以降、文化的にドイツに近い東欧出身者に加えて、他の内戦地帯のムスリム難民(近年では特にクルド人)の数も増していたこととも並行していた。
 またこのころからEU統合の動きに伴って、EUの枠での移民・難民の流入制限が図られてゆく。それと連動して、ドイツの移民・難民政策は、難民受け入れの負担をEU諸国にも分担させる方向へ向かう。かくして、陸路ドイツに入国する者の庇護申請を事実上認めないいわゆる「安全な第三国」規定や、「迫害のない国」とされる国の出身者の庇護申請を認めない規定などが設けられるようになった。
 さらに、2001年の9.11テロをはじめ、各地で頻発するテロへの警戒から、EUは種種の高度監視テクノロジーを導入してゆく。そして、犯罪者やテロリストとともに難民や非正規移民の監視データがEU域内の各国間で相互補完的に共有・ネットワーク化され、あらゆるセキュリティ対策が講じられてゆくようになる。こうした現代の国境を越えた監視制度では、効率的な取り締まりのために、ある集団をリスクのある監視すべき集団として特定する保険統計主義的な思考様式が広まってゆく。そこでは当然、難民それぞれの個別的な事情は捨象される。
 その一方で、2000年ごろから、ドイツでは国内に不足しているIT技術者などの高度な能力を持った労働者の受け入れの必要が増してくる。そのため、ドイツの経済と社会にとって利益のある高度人材など「望ましい移民」の受け入れ促進と、難民など「望ましくない移民」の流入制限という選別が行われるようになってゆく。それは移民の統合政策の方針にも反映されている。そこでは人権の尊重や個人の自由、男女平等などの普遍的な価値規範を移民自身が自覚的に遵守することが基準とされるが、事実上ヨーロッパ的価値の遵守を基準とし、多文化社会化を抑制する論理に立つものであった。したがってまた、統合を進める鍵としてドイツ語の習得に力点が置かれた。そして、難民認定やその後の定住や滞在のための支援などが、こうした移民政策に沿った形で行われるようになるため、非ヨーロッパ系、ことにムスリム移民が排除される傾向にある。こうした現状を著者は明確な分析によって浮き上がらせている。
 このような状況下においては、当然ながら、しかるべき庇護を受けられずに危険な本国や第三国に強制的に移動させられる事例が出てくる。ところが、こうした国家による難民認定からは漏れて退去強制の危機に直面している難民を、キリスト教会の教区共同体が保護している事例がある。すなわち「教会アジール」である。中世に存在した教会での庇護の理念を、教区市民が現代に適合する形に組み換えて実施しているこの活動について、綿密な聞き取り調査にもとづく分析をおこなっていることが、本書の一大特徴をなしている。
 教会アジールが最初に実施されたのは、難民庇護が制限的になって以後の1983年ベルリンにおいてであり、パレスチナ人難民一家が強制退去させられそうになっている状況で即興的に行われた。以後、教会での同様の難民庇護はドイツの各地に広がった(評者註:全キリスト教会連邦教会アジール連合のサイトによれば、2017年9月現在で558件の人々が教会アジールで庇護を受けている)。 
 教会アジールはさしあたり国家の難民認定制度に対する市民社会からのアンチテーゼとも言えるであろう。しかし、著者によれば、ドイツの歴史における教会と国家の独特な関係ゆえに、教会アジールは「国家対市民社会」という対立図式に還元しきることはできない。ドイツでは政教分離が不徹底であり、二大キリスト教会(ルター派とカトリック)は公法上の存在として、教会税や宗教教育などの特権を享受している弱みがある。また無論、不法滞在の難民を匿うならば、教会関係者が逮捕される可能性もある。
 そのため、教会指導部はこうした教区民の「下からの」アジールに必ずしも賛同的ではない場合が(とくに初期には)多いようである。しかしその一方で、こうした難民とのローカル(身近)な関係を築いた教区市民の活動が、国家の制度の瑕疵を批判的に補填し、再審査や難民認定につながるケースも実際にある。著者は、国家の公権力への対抗的公共圏としての教会アジールの意義を、その限界とともにバランスよく分析している。

2.書評

〈再生した教会アジール―日本では?〉

 ドイツの移民政策を規定する諸要因とその相互連関を総体的に整理してみせる著者の能力と労力には驚嘆するほかないが、とりわけ評者が関心を引かれたのは教会アジールという事象である。
 一般に、近代化の過程で世俗国家が主権を確立するにしたがって、かつて存在した宗教的なアジールは消滅し、大使館など国家主権に基づくアジールのみが残ると考えられている。それは大筋としてはもちろん正しいと思われるが、消滅したはずのアジールが、現代のドイツでは国家の制限的な難民庇護政策に抗する教区市民の活動として、装いを変えて現に復活しているのである。この事実そのものがまず興味深い。イスラーム世界における再聖化現象などとも併せて、近代化=世俗化という図式的な単純化を戒める現象である。
 むろん、現代の教会は、中世におけるがごとく、法的に庇護権を承認されているわけではない。本来的には庇護権は国家が独占しているものであり、政府は警察を動員して教会の建物に押し入り、難民を本国に強制送還することも法的には可能である。しかし、著者も言うように実際にそのようなことが行われることはまれであり、政府も警察も表立った形で圧力をかけることはあまりない。それは教会の伝統的な尊厳への敬意が市民の間で共有されており、当局が教会に暴力的に踏み込むことは市民感情と対立するからである。
 しかし、かつての宗教的アジールが国家の制度の中に取り込まれて解体されたように、この蘇生したドイツの教会アジールも、これを再国家化せんとする政府の圧力を受ける。著者によれば、連邦内相オットー・シリーは2001年、難民庇護にかかる費用を協会が自己負担するという条件で、一定数の難民の庇護認定の権限を教会に付与するという、教会アジール合法化の提案をおこなった。しかし、それは国家が難民庇護の責任を放棄し、なおかつ体よく教会に財政負担を負わせるものであるとして、教会関係者からは拒絶された。
 こうして、国家による「取り込み」策は頓挫した。しかし、この「取り込み」策を積極的な方向にむかって逆手に取る道筋もありうるのではないか、と評者は考える。つまり、庇護に必要な財政負担さえ担えば――もちろん教会離れのすすむ今日においてはそれが一番困難なことであろうが――キリスト者の良心に基づく難民庇護という人道的活動を、国家の認定を俟たず自らの判断で行うことができるようになる。むろん、これによって教会アジールは国家の制度の瑕疵を暴く「対抗的公共圏」としての批判力を鈍らせることにはなるだろう。しかし逆に、資金源を確保しつつ教会で庇護認定される人々の絶対数を増やしてゆくことで「もう一つの公共圏」としての自律性を獲得してゆく道筋も――言うは易く行うは難しだが――可能性としては考えられるであろう。
 評者がなぜ敢えてそのようなことを言うかといえば、日本の場合との比較を考えるからである。ドイツに比べて政教分離が厳密な日本では、宗教教団が国家から公的援助を受けているというしがらみがない。したがって、その点に限って言えば、送還されれば身に危険が及びかねない難民を庇護することへのハードルはむしろ低いはずであろう(政府と対立することで宗教法人としての認可を取り消されるという懸念はあろうが)。
 だが、日本の宗教教団が難民の人道支援にどの程度関心を持っているかといえば――むろん無関心ではないにせよ――多くの教団にとって必ずしも優先的な関心事ではないのではなかろうか。しばしば話題になる日本の難民認定基準の尋常でない厳しさ(例えば2016年は申請者数10,191件に対し、認定者数28件。2016年度のドイツは申請者数745,545に対し認定者数256,136)や、入管での難民の虐待的処遇などについて、日本の宗教界の考えを知りたいところである。

〈市民的不服従と「無縁の論理」〉

 既述のようにドイツの教会アジールが近代化=世俗化という単純化を戒めるものであるにせよ、社会全体の趨勢として再聖化や宗教的アジールの復活が今後いっそう進むとも考え難いことは事実であろう。では、広く問うて、難民――政治的亡命者にかぎらず、経済的・社会的・精神的に窮状にある人間――にとってのアジールは、今後の社会においてどのような形で創出されうるのだろうか?本書でも言及されている「市民的不服従」との関係から考えてみよう。
 「市民的不服従」とは、みずからの良心が不正とみなす国家・政府の行為に対しては,公共の福利のためにあえて法律を破っても抵抗するという思想と行動であり、アメリカの詩人ヘンリー・デイヴィッド・ソローに由来する。ドイツの教会は既述のように国家からの公的援助を得ている以上、教会アジールをいわゆる「市民的不服従」として実践することに関しては、これを論外とする意見が教会関係者のあいだでも主流であるようだ。
 だが、これは逆に言えば、国家とのしがらみさえなければ、教会アジールは「市民的不服従」として実行され得る可能性があるということを示唆してはいないだろうか。そして、さらにいえば、教会アジールが「市民的不服従」として実行され得ることは、逆に「市民的不服従」こそが、今後の社会にある種の「アジール」を――実施主体が「教会」であろうとなかろうと――生み出す道筋の一つであることを示唆してはいないだろうか?
 日本中世史を舞台にアジールの諸形態を考究した歴史家の網野善彦は、アジールの背後にあってこれを成り立たせている人類史的な普遍的原理を「無縁の原理」と呼んだ。それは中世には宗教的アジールという形で発現した。現代では宗教はその力を失ったが、無縁の原理そのものは「幼子の魂のごとく」不滅であり、姿を変えてまた発現すると網野はいう。
 この「無縁の原理」の現代的な現れとして、安富歩はガンディーのサティヤグラハ運動やキング牧師の公民権運動を挙げている。両者の本質は、「市民的不服従」にあるといいうるだろう。したがって網野風に言えば、市民的不服従は「無縁の原理」が「幼子の魂のごとく」現代において甦る一つの形態であり、現代社会に新たなアジールを生み出す一つの道筋だといえよう。このように教会アジールをその原理の次元で考えるとき、我々は「難民」と「アジール」という現代の問題を、より広い地平のなかで考えてゆくことができるのではなかろうか。

〈日本と難民〉

 最後に、時事的な問題との関連から。現在(2018年6月)、北朝鮮と日米政府の関係は、いまだ予断を許さない状態にある。北朝鮮の政権が遠くない将来に混乱・崩壊するならば、相当数の難民が日本にやってくる可能性がある。そのとき、日本社会と難民との関係の在り方が、正面から問われることになるであろう。その際「武装難民を射殺」という政府首脳の発言――彼もキリスト教徒であるらしいが――に見られるような偏見から、私たちは冷静に距離を取ることができるようになっていなければならない。第二次大戦後に寛大な難民受け入れを進め、今その岐路に立っているドイツの難民・移民政策を分析した本書は、我々がこれから難民について考えるための重要な論点に満ちている。専門の研究者の範囲を超えて広く読まれることを願う。

※この書評は雑誌『宗教と社会』24号掲載の研究ノート「アジール研究の現状と今後の方向性―網野善彦から自然法と公共性へ」(舟木徹男)において既に公表した内容と部分的に重なっています

(評者:舟木徹男)

更新:2018/06/11