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第三回 他者を理解することから社会学へ ――アルフレッド・シュッツの理解社会学入門入門

発表者:中森弘樹

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 三回目の模擬授業となる今回は、社会学の入門の一環ということで、「他者を理解する」という身近なテーマに沿って、アルフレッド・シュッツの理論の紹介と解説を行いました。







▼ 「他者を理解する」ということ

  私たちは日常生活世界において、常に他者のことを「理解」しています。ここでいうところの「他者を理解する」とは、もう少し詳しく説明すると「他者の行為の意味を理解する」ことを指しています。例えば、目の前から走ってくる人がいたとして、その人が単にジョギングをしているのか、それとも私に体当たりしようとしているのか、そのことを判断できないと私たちは次の自分の行為を決めることができません。つまり、他者の行為の意味を理解することなしには、私たちの日常生活はおぼつかないものとなってしまうのです。

ところで、私たちの日常生活は大抵のシチュエーションで円滑に進行しています。この事実は、私たちの「他者理解」が日常生活では概ね「上手くいっている」ということを示しているはずです。その一方で、「他者理解」が難しい、上手くいかないシチュエーションも確かにあります。それによって人間関係の齟齬が生じていることもまた事実でしょう。そこで今回は、「私たちが他者の行為の意味をどのように理解しているのか」という身近でかつ重要なテーマについて考えてみることにしました。そしてそのために、他者理解について深く考えた社会学者であるアルフレッド・シュッツの理論を簡単に紹介していきます。



▼ アルフレッド・シュッツとは

 アルフレッド・シュッツ(1899-1959)は、ウィーン生まれのユダヤ人で、1939年にアメリカに亡命後は、銀行員との二足のわらじを履いて執筆活動を行った社会学者です。社会学者としては他分野ではそれほど有名ではないかもしれませんが、社会学の中では一つの理論的な源流を作った人物として重要です。今回取り上げるのは、『社会的世界の意味構成――理解社会学入門』という本で、原著(Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie.)は1932年に出版されています。

 では、シュッツの業績は社会学の中でどのように位置づけられているのでしょうか。それについて簡単に説明しておきます。シュッツよりさらに少し前に生きた社会学者で、マックス・ヴェーバーという巨匠がいますが、ヴェーバーが社会学の根本的な方法論として提唱したのが、「理解社会学」という方法でした。その内容は、簡単に述べると「社会は成員の社会的行為からなっており、そのような社会的行為を理解することが社会学である」
というもので、よって他者が自らの行為にどのような主観的な意味を付与しているのかが重要な問題となります。このヴェーバーの理解社会学を独自に継承し、発展させたのがシュッツです。シュッツはフッサールの現象学の手法や、ベルクソンの「持続」の概念を取り入れ、「私たちが他者の行為の意味をいかに理解しているのか」を説明する優れた理論を築き上げます。このようなシュッツの方法論は「現象学的社会学」と呼ばれ、シュッツを祖とした現象学的社会学は、その後の社会学の理論的な潮流の一つとなりました。



▼ 私の行為の意味を理解するプロセス

 では、シュッツは「他者の行為の意味を理解する」プロセスをどのように説明しているのでしょうか。シュッツはそれについて説明するために、まずは私たちがどのようにして私自身の行為の意味を理解しているのかを論じます。

 シュッツはまず、私たちにとって「意味がある」とはどういうことであるのかを明らかにします。シュッツによれば、「意味がある」とは、ある体験が反省によって他の体験からはっきりと区別されることを指します。つまり、ある体験は私によって反省的に捉えられて初めて他から区別され、意味を持つことになるのです。ここから、シュッツの行為概念における重要な区別が導かれることになります。それは、「遂行的行為」(今まさに行っている行為)と「達成的行為」(終わってしまった行為)の区別です。私たちは、行為を遂行中であるまさにそのときに、その行為を捉えることができません。捉えることができるのは、常に行為が終わった後、つまり達成的行為のみです。よって、私たちにとっての有意味である行為とは、常に私によって反省的に捉えられる達成的行為のみであるということになります。そのようにして私は、既に終わってしまった行為を反省によって振り返ることで初めて、その意味を理解することになります。



 ここで、次のような疑問が生じるかもしれません。それは、「行為を行う前にその行為を思い浮かべて計画する時点で、その行為は私にとって有意味であるし、その意味を私は理解していることになるのではないか」というものです。たしかにシュッツにとっての行為とは、そのような事前の「企図」を必ず伴っています(それに対して、事前の企図なしで行われるのが行動)。この疑問に対してシュッツは、企図とは未来完了時制的に、行為がすでに終わった後の視点に立ち、行為全体を眺めることによって行われるものであると述べます。つまり、企図の時点で私が計画する行為もまた、行為が終わったものとして未来完了時制的に捉えられる達成的行為なのであって、この点はシュッツの行為概念の中核をなす考え方であるといえます。

 このことの重要性を、シュッツの有名な動機概念と照らして見てみましょう。シュッツは行為の動機を、目的動機(~のために~する)と理由動機(~だから~する)の二つに区別します。たとえば、「ヘビを避けるために回り道をする」は目的動機の文であり、「ヘビが怖いので回り道をする」は理由動機の文ということになります。さて、これまで見てきた行為のプロセス(企図→遂行→達成の一連のプロセスを、反省によって捉える)の中では、目的動機が、まさに企図の際に未来完了時制的に捉えられる達成的行為に対応しているとシュッツは述べます。そして、企図された達成的行為=目的動機のために、私たちは遂行的行為を実行してゆくことになるわけです。では、理由動機の方はどこに位置付けられるのでしょうか。シュッツによれば、理由動機はある行為の企図=目的動機へと私の注意を向けさせたものとして位置付けることができます。そして、そのような理由動機は、行為が達成された後に、企図のさらに前の時点のものとして、あくまでも過去完了時制的に捉えられるだけです(理由動機→企図=目的動機→遂行→達成 ←反省によって捉える)。このように企図を行為のプロセスの中に位置付けることで、二つの動機と行為の関係も整理することができるのです。



▼ 他者の行為の意味を理解するプロセス

 このように私自身の行為の意味を理解するプロセスを把握した後に、いよいよシュッツは「他者の行為の意味を理解する」プロセスの説明へと向かいます。

 ここで最初に確認しておくべきことは、私たちは他者の行為の意味を、他者がその自身の行為の意味を理解するのと全く同じように理解することは不可能であるということです。
この事実は、見も蓋もないものであると思われるかもしれません。しかしシュッツは、だからといって他者理解の可能性が閉ざされるわけではない、と論じます。上記の事実に従えば、私たちの他者理解はある意味では「解釈」に留まってしまうわけですが、現に私たちの社会生活ではその「解釈」が非常に功を奏しているのであり、よってシュッツの主眼は、そのような蓋然性の高い他者理解を私たちがどのように行っているのか、に置かれているといえます。

「他者の行為の意味を理解する」プロセスを説明する際の大前提として、シュッツはまず「他我の一般定立」について述べます。他我の一般定立とは、簡単にいえば私もあなたも同じ意識を持っていていること、そして私たちが日常生活でそのような他者の存在を自明なものとして受けいれていることを指しています。ここでは、私もあなたも同じように自身の行為の意味を理解していて、私たちにとってそのことが自明であること、この程度に理解しておけば十分でしょう。

以上の前提を踏まえた上で、シュッツは私たちが他者の行為の意味を理解するプロセスについて論じます。シュッツの議論では、他者が自身の行為の意味を記号によって表明しているか否かによって場合分けをして説明されていますが、両者は本質的には同じプロセスであるので、ここでは他者が自身の行為の意味を表明していない場合について、簡単に紹介します。まず、私は他者の達成的行為によって引き起こされた外的世界の経過(他者が泣いたり、走ったり、…)を知覚する。次に、私はその情報によって解釈した達成的行為を企図として思い描いてみて、頭の中でこの達成的行為を遂行する(つまり、目的動機を仮定してみて、その目的動機に方向付けられる遂行的行為の経過を想像してみるわけです)。そして、頭の中で実行される遂行的行為が、企図=目的動機を満たすかどうか、等のチェックを行う。以上のプロセスで、私たちは他者の行為の意味を理解しているとシュッツは説明します。

さて、このプロセスによる他者理解は、私が他者についての知識をたくさん持っているほど、他者の行為の意味を絞りやすくなります。たとえば、見知らぬ人がただ走っているのを見ても、私は彼/彼女が走っている多種多様な目的動機を想像せざるをえませんが、走っているのが友人のA君で、しかも私がA君のアルバイトの時間を知っていた場合、A君がアルバイトに遅刻しないために走っている、といったように他者の行為の意味を絞りやすくなります(このことは、必ずしも理解の「正しさ」につながるとは限りませんが)。

以上のプロセスについてシュッツは、私とあなたの意識体験を同一視することによって、私たちはいわば「人物の取り替え」を行っていると説明しています。しかしシュッツ自身が強調するように、このプロセスは先に見た私の行為の意味理解と、他我の一般定立の前提の範囲内であくまでも行われているという点に注意しておくべきでしょう。

▼ 多様な社会的次元における他者理解

 さて、これまでは基礎的な他者理解のプロセスを見てきましたが、シュッツの理論がユニークであり優れているのは、様々な社会的次元における他者理解を想定して、このプロセスを場合分けして論じているところです。シュッツは、私にとって存在している社会的世界を、ここでは4つに分けて論じています。順番に見ていくことにしましょう。

 まず、私が今まさに居合わせている、「社会的直接世界」を挙げることができます。直接世界は、私と時間を共有し、私が直接に体験している世界であり、そこで私は「隣人」と呼ばれる他者を直接体験しています。直接世界では、私は隣人と体験を共有したりすることができますが、隣人たちを観察する際には、やはり私は隣人の行為の意味をこれまでの原則に沿って理解することしかできません。しかし、直接世界における他者理解にあたっては、他の社会的次元にはない特徴があります。それは、他者が私の目の前に隣人として直接的に現前していることです。それによって、私たちは隣人たちの行為によってもたらされた外的な変化の情報をリアルタイムで得たり、また隣人たちとコミュニケーションを取ったりすることができます。つまり、隣人たちの表情が目の前で変わったりするのを目撃したり、しゃべったりすることができるわけです。それによって、私は隣人の行為の意味を常にチェックすることができ、直接世界における他者理解は促進されていきます。

 次に、私と同時代に並存している社会である、「社会的同時代世界」を挙げることができます。同時代世界は、私にとってのかつての直接世界であり、これからも直接世界になりうる世界と、今はまだ直接世界になったことはないが、これから直接世界になるかもしれない世界の2タイプがあります。そして、同時代世界に存在する他者を、シュッツは「同時代人」と呼んでいます。たとえば、昼間学校で会ったが今は目の前にはいない友人A君は、前者のタイプの同時代世界に属する同時代人であり、一方でまだ会ったことはないが、話の中ではよく出てくる友人の友人は後者のタイプの同時代世界に属する同時代人ということになります。さて、このような同時代人は、今まさに私にとって現前していないために、みなある種の類型として捉えられるという特徴があります。つまり、頭の中で描かれる友人A君は、A君そのものとは同じではありえないのです。そして、直接世界からの離れ具合にしたがって、その類型はどんどん抽象的に、言い換えれば一般的なものになっていきます。たとえば頭の中で思い浮かべる友人A君は、A君そのものではないが、かなりA君に近い個別具体的な類型であるといえますが、教師一般、日本人、そして人類といったような直接世界の人物からは離れた類型は、非常に抽象的で一般的なものであるということです。さて、このような同時代人に関しては、私たちが頭の中で自由に思い描くことができるがゆえに、様々な理解の可能性に開かれているように思われます。しかし、シュッツはそのことを否定します。というのも、シュッツにとって類型とはあくまでも私の問題関心に沿って構成されるものだからです。つまり類型によって同時代人を捉えること自体が、すでに何らかの私の意図に基づいている、ということになります。そのような類型としての他者の行為には、あらかじめ私によって理由動機や目的動機が設定されているので、その行為の意味への理解も、限定的なものに留まらざるをえないというわけです。



 最後に、過去の世界である社会的先代世界と、未来の世界である社会的後代世界の二つが挙げられます。社会的先代世界は、私自身よりも以前にあった社会的世界で、すでに経過して完了したがゆえに、私と一度も共存することのなかった世界です。この世界に存在する他者を、シュッツは「先人」と呼びます。それに対して、もはや私が居なくても他者によって生きられるであろう世界が社会的後代世界であり、後代世界に存在する他者をシュッツは「後人」と呼びます。先代世界における「先人」については、私は決して彼/彼女らとコミュニケーションを取ることができないので、その情報は隣人や同時代人の言明や、記録によって得るしかありません。つまり、私にとって先代世界は、あくまでも他者の直接世界と同時代世界に留まるわけです。ここでシュッツは、先人が先代社会において自己の行為の解釈に用いた解釈図式と、私が用いる解釈図式が必然的に異なるものであることに注意を促しています。その一方で、シュッツによれば未来の後代世界は私にとって全く不確定なものに留まるので、私は後人に接近することすらもままなりません。それゆえ後人を理解すること以前に、後人を類型化する作業でさえも不十分なままで終わるということです。



▼ 終わりに

 さて、以上のようなシュッツの社会的世界の四類型は、現代を生きる私たちの他者理解を考える上でも有用でしょうか。たしかにシュッツが述べるように、直接世界において他者と直接に向かい合う場合の方が、同時代世界の他者を理解する場合よりも、その行為の意味についての理解が促進されるケースは多そうです。そうすることによって、人間関係の齟齬を避けることも場合によっては可能でしょう。しかし、模擬授業の質疑応答でも質問として挙がったように、「どこまでが直接世界における関係で、どこまでが同時代世界における関係であるのか」が現代社会では曖昧なものとなっています。たとえば、私たちが電話やメールでコミュニケーションを取る相手は、果たして隣人なのでしょうか、それとも同時代人なのでしょうか。また、同時代人であるにもかかわらず、隣人よりもむしろ強いリアリティを持つ存在をどのように位置付けるべきであるのかという問題もあります。そして、そのような従来の区分では捉えることのできない他者は、どの程度理解しがたい/し易い存在で、またその際にどのような不都合が生じるのでしょうか。シュッツの理論枠組みはあくまでも1932年の時点で形成されたものであり、それは有用な基本概念ではありえても、それをそのまま現代社会に適用することを求めるのは酷であるように思われます。よって、これからシュッツを読む私たちの課題は、シュッツの理論枠組みを適宜応用・修正しつつ、他者理解についての思考をよりいっそう深めていくことにあるといえるのではないでしょうか。