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【報告】第52回京都大学11月祭 講演企画「いま、大学で〈学問〉する意味――新しい〈知〉の場所を創るために――」(ゲスト:鈴木謙介氏)

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 2010年11月21日(日)に京都大学NF祭(学園祭)の特別イベントとして、 京都アカデメイア主催・公開討論「いま、大学で〈学問〉する意味」が開催されました。特別ゲストは社会学者の鈴木謙介(チャーリー)さん。大学と学問のこれからのあり方をめぐって、鈴木謙介さんと現役京大生+京大卒業生の間で4時間におよぶ熱い議論が交わされました。その様子を下記にご報告します。




 


 


 


 


 



▼ 動画


・プレゼンテーション







公開討論「いま、大学で〈学問〉する意味」 プレゼン(youtubeの再生リスト)


 


・第一部


第一部は、「大学における〈学問〉の現在」というテーマのもと、「新卒の就職難が社会問題となる昨今、大学の実学志向化&就職予備校化をどう考えるか?」と「研究者の就職難(高学歴ワーキングプア問題)はどうすれば解決できるか?」という2つの議題についてディスカッションしました。    







公開討論「いま、大学で〈学問〉する意味」 第一部(youtubeの再生リスト)


 


・第二部


第二部は、 「大学を超えて〈学問〉する可能性」 というテーマのもと、「大学を超えて〈学問〉し続けるために必要なことは?」という議題を取っ掛かりにディスカッションをしました。    







公開討論「いま、大学で〈学問〉する意味」 第二部(youtubeの再生リスト)


 


・質疑応答







公開討論「いま、大学で〈学問〉する意味」 質疑応答(youtubeの再生リスト)



 



▼ 主催者代表コメント



■ 積田俊雄(総合司会)


新たな思考の始まりとしての大きなうねり。変わろうとする知の内容とその場所を巡って、私たちはその「うねる知」の突端を引っ張ろうと試みた。変わる社会と知の内容。その"変化"を逆手に取る形で京都アカデメイアは、自らのアイデンティティを形成しようとしていた。むしろ、"変化"そのものをも私たちが作り出してやろうと意気込んでもいた。それが今回のイベントに込められた私たちの期待であった。


けれども、実は最も"変化"に対応していなかったものこそ、私たち京都アカデメイアであったのかもしれない、と今になって思う。当日配布したパンフレットでも公言したように、まだ産声をあげて間もない京都アカデメイアにとって、今回のイベントで「華麗な知の饗宴」を披露することは、到底できることでないことは分かっていた。おそらく会場に足を運んでくださった方々は、我々の「未熟さ」にお気づきになったことだと思う。その「未熟さ」は、おそらくは変化に対応することを議論している他ならぬ私たちが、"変化"について鈍感だったということではないだろうか。



そして気になるのは、私たちがどれだけ〈学問〉に対して情熱を持って動いているかということ、その秘めた思いをどれだけ表現することができたかということである。この「旗揚げ公演」の中で、自らが持っている唯一の宝であるその秘めた思いを、私たちは表現しつくすことができただろうか―。


今回のイベントは、もちろん主催は京都アカデメイアであった。だが、講師の鈴木謙介氏をはじめ、コアメンバーではない卒業生にも壇上に上がっていただいた。そして、今後の学問がどうあるべきで、私たち自身はどう振る舞うべきかという問題に関心を持つ多くの方々が、会場に足を運んでくださった。


そう、実は〈学問〉や〈知〉やこれからの大学についての静かな情熱・うねりは、あのイベントの場所にこそすでに生まれていたのであり、京都アカデメイアだけではなく、会場を訪れてくれた全ての人々によって、情熱とうねりは形成されていたのである。少なくとも会場からの意見がなければ、質疑応答でさらに深い議論を展開することもできなかったのだ。「大学で〈学問〉する意味」などという一見アナクロニスティックな議題にもかかわらず、あれだけの人々が集まり、あれだけの時間議論を重ねることができたということ自体、大きな第一歩だったのだと捉えてみたい。


だから問題なのは、京都アカデメイアのアイデンティティをいかに形成するかということではないし、私たちが大きなうねりや"変化"を作り出す担い手たろうとすることではなかったのだ。重要なのは、今回のように、私たちがいかなる〈知〉の場所を提供できるかということであり、そしてそれをどれだけ上手に運用できるかということである。それこそが京都アカデメイアのアイデンティティだろう。「うねる知」の突端を引っ張るのは私たちだけではないのだ。そこにコミットする人々全てが担い手なのである。


どうかその旗振り役である私たちの成熟を、今しばらくお待ちいただきたい。今度はもっと洗練した〈知〉の場所を提供したいと思っている。


 




 



▼ スタッフ感想



■ 浅野直樹(パネル司会)


先日はお忙しい中イベントにご参加いただきありがとうございました。参加されなかった方は一番下のリンクや、この欄の上のほうにある動画をご覧いただけると当日の雰囲気がつかめるかと思います。以下ではいただいたご意見、ご感想を参考にして当日の反省をします。


全体的に厳しいコメントを多くいただきました。スタッフやパネリストからも反省の弁が多く聞かれました。しかし私個人としては成功だったと思っております。


まず、会を開くことができたこと自体に意義があります。実は、この企画は受付締切直前に申し込んだものです。何度か打ち合わせをしても、当日がどのようになるかもはっきりせず、どれだけの人が来るかもまったく予想できませんでした。それを一応形にできたのはよかったです。「大学」や「学問」をめぐって問題意識を持っていることが伝わっただけでも価値があります。


次に、批判を多くいただけたということは、少なくともこのテーマに関心がある人が多いということの表れだと思います。それらの批判は基本的に妥当だと感じました。私たちのほうでもその批判に応えられるように努力しますし、みなさまのほうから新しいご提案をいただけるとできる限りのお手伝いをします。具体的には、企画をご提案いただますと、京都アカデメイアとしてWebやビラで告知をし、賛同するスタッフを募ることくらいはできます。


最後に、本音の部分で議論できたことが個人的には満足でした。確かにパネリストに偏りはあったでしょうし、狭い枠内で議論していたこともあるでしょう。しかしうそやごまかしはなかったと信じています。これからいろいろな人と話していく中で問題設定や議論を広げていければよいと思っております。


当日は司会とはとても言えないような拙い進行でお見苦しい点も多々あったと存じます。それにもかかわらず最後までお付き合いいただいたパネリスト、スタッフ、聴衆のみなさまには感謝しております。また、チャーリーさんには失礼なことも言ってしまったと思います。それでもしっかりと受け止めて答えていただいたチャーリーさんにはここで改めてお礼を申し上げたいです。


 


■ 中島啓勝(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程)


正直言って、反省ということじたいがあまり好きではない。あの場で話した内容の是非については、聞いて下さった方にご自由に判断して頂けたらそれで十分だ。


などという戯言を書いて終わる訳にもいかないので、いや、本当は戯言などではなく偽らざる本音ではあるのだが、仕方ないので少し振り返ってみることにしよう。まず、活動開始から数ヶ月という短期間であのような討論会を開催した、京都アカデメイアの野心的な試みには心から感服した。4時間という長丁場にも関わらず大勢の方々に最後までお付き合い頂けたことは、当代きっての論客チャーリーこと鈴木謙介氏を招いていた事実を考慮に入れても素晴らしいことだと思ったし、そしてそんなイベントに参加させてもらえたことは本当に光栄なことだった。プレゼンテーションという名の前説が汚点となったのではないかと、今もただただ心配している所である。



「いま、大学で〈学問〉する意味」というテーマを巡って様々な議論がなされた訳だが、多くの方にご批判を受けた通り、どこか散漫な放談の様相を呈していたことに関してはパネリストの一人として否定できない面がある。大学の今後のあり方について、いかなる具体案を持っているのか、大学を取り巻く広大な社会に対して学問の重要性や魅力をどうアピールしていけるのか、現行の大学制度に囚われないオルタナティブな学問へのアプローチを構想できるのかなどについて、来場された皆さんに満足のいくビジョンを提供できたとは言えない。


しかし、それで良かったのではないか、とも思う。そもそも、こうした社会全体で一丸となって取り組むべき大きな問題にそうそう安易に解答など出るはずもないし、討論会とは上品に定められた落とし所に向かって導線をなぞるようなものではないはずだ。我々の力不足は否定すべくもないが、ポジティブであれネガティブであれ、聞いて下さった方々の中で何かしらの化学反応があったのならば、とりあえずの成果があったと言っても良いのではないだろうか。


むしろ戒むべきは、「答え」ばかりを求める態度ではないかと思っている。例えば、制度の不完全性を非難し、誰かによる理想的な制度設計を期待するのは、口を開けて親鳥の運ぶ餌を待つ雛のような幼さではないだろうか。もちろん制度への目配せは重要である。いや、重要どころか不可欠であろう。だがそれは、あくまで我々が主体的にこうした問題に関わり、自らを問題と格闘する場所として開くことが要求される。問題の渦中に飛び込み、自己の判断の正しさを常に問われながら、それでも何かを紡ぎだそうという行為が要求される。そこにあるのは「答え」ではなく、言ってみれば「応え」だ。


京都アカデメイアはまだ漕ぎ出したばかりの小舟だ。波風は高い。しかし、彼らは出来合いの「答え」などに寄りかかろうとはせず、風を受け、波を切り裂いて、時代の要求に「応え」を示そうとしている。僕はそんな気概こそが今必要なのだと本気で信じている。時代錯誤な「精神論」を、もっと振りかざすべきだと思っている。


不満のある方はどんどん不満を伝えてきて欲しい。関わり合いましょう。もっと建設的な議論をするために。それが無理なら、あなたの航海を始めて欲しい。我々よりも建設的な議論をするために。どちらが「応え」であっても、僕には望外の喜びだ。


 


■ 百木漠(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程)


「既存のアカデミズムの枠組みを超えた、分野横断的な学び合いの〈場〉を創る」という理念のもと、京都アカデメイアという知的プロジェクトを開始したのは今年4月のことだった。その活動がわずか半年間で、鈴木謙介さんをゲストに招いて、学園祭で大規模なイベントを開催するまでに成長するとは、予想だにしていなかった。実際に公開討論を終えてみて、いろいろと反省点も残ったのだけれど、京都アカデメイアという試みが確実に成長を遂げていることを実感して、誇らしく思えたのも事実だ。


もちろんまだまだ未熟な部分は多い。京都アカデメイアの考え方や構成メンバーが大学内の文系に偏りがちで、理系の視点や社会の視点を欠いているという批判は、その最たるもので、我々はその批判を真摯に受け止めなければならない。ならば我々が次にするべきことは、理系の意見・考えを積極的に取り入れること、大学外の人々と繋がりをもつ機会を創ること、京大以外の大学の人々と交流する機会を創ること、であろう。そして我々はそれらの目標に向かって、既に動き始めている。その具体的な成果は、HPやブログ、twitterなどを通じて、少しずつ報告していくことができると思う。



幸いなことに、京都アカデメイアの活動に関心を持ってくれる人の数は確実に増えてきている。理系学部や他大学、社会人などからのアクセスも、少しずつではあるが増えてきている。そういった繋がりから、来年に向けて新たなコラボ企画やイベントのアイデアなども生まれてきている。それらのひとつひとつの繋がりや、そこから生まれてくるアイデアを大切にしていきたいと思う。京都アカデメイアの来年の目標は、「理系・文系の枠を超えた知的交流の場を創出すること」、の二つだ。


このような京都アカデメイアの理念と目標に賛同してくださる方には、ぜひ何らかのかたちで京都アカデメイアの活動に参加してもらえればと思う。模擬授業や他のイベントに参加するでもよし、twitterやブログで絡んでもらうのもよし、公式メールアドレスにご意見・ご提案などをしてもらうもよし、である。HPのコンテンツ充実化に協力してくれる人も大募集中。書評やブックガイド、コラムなど何か書いて頂けるという方はお気軽にご連絡下さい。繰り返しになるが、京都アカデメイアの理念は、新しい〈学問〉のための〈場〉を提供すること。我々が創った〈場〉で知的に面白い何かを提供してくれる人、あるいは我々と一緒にそのような〈場〉を創ってくれる人がいれば、ぜひ一緒に何かやりましょう。自分たちの手で、新しい「学び」の〈場〉を創りだしていきましょう!



 


■ 中森弘樹(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程)


こんにちは、『いま、大学で<学問>する意味』会の前半部のパネリストを担当した中森です。が、パネリストとしては特に何もできなかったなぁという印象で(笑)、むしろ実際のところこのイベントにおける私の役割は、テーマの発案や会の構成など、企画段階におけるアイデアを出すことでした。というわけで、『いま、大学で<学問>する意味』のテーマの発案者としての立場から、「果たしてあの会が当該テーマに応えることができたのか?」という点について振り返ってみることにしましょう。



あの会の趣旨を分かりやすく説明すると、『いま、大学で<学問>する意味』についてゲストの鈴木謙介さん(以下チャーリー)とパネリストたちが討論することで、来場者の方々にもそれについて考えてもらいつつ、あわよくば何か新しいことを伝えることができれば、というものでした。その目的が達成できたかを見る一番の方法は、来場者の反応を見ること、特にご協力いただいたアンケートの内容を見ることです。さて、アンケートの内容とネットやツイッター上にあげられた感想の一部には、(ある意味では)厳しい意見もありました。それらに共通している要素を取り出すと、「パネリストたちの討論が古典を愛する京大生たちの自己弁護にしか見えなかった」といったものです。この批判は、個人的には全くもってその通りであるというか、私が来場者であるならば同じことを書いたであろうと思ってしまいました。このようなご指摘を下さった方は、他の誰よりもこの会の趣旨を敏感に捉えて下さったと言えるかもしれません。その理由を、以下では少しだけ述べたいと思います。


ディスカッションでもさんざん話題になった通り、現在の大学の実学化の流れは、実学になりにくい学問に取り組んでいる院生や研究者にとってはまさに死活問題です。そのような現実を眺めてみて学問の意味を捉え直すという今回の試みは、院生や研究者にとってはそのまま自己弁護のロジックを模索することそのものですね。少なくとも私個人としては、そのような意図があったことは否定しません。そして仮に自分たちの自己弁護のためだけに、NFという場で来場者たちの貴重な四時間を奪うことはあってはならないことでしょう。「そんなことは事業仕分けの会で、蓮舫さんの前でやってくれよ」って言われかねませんよね。


しかし、ここで強調しておきたいのは、「私たちが守りたいもの(=学問?)は、やっぱり他の人にとっても守っていった方が良いものなんじゃないか?」という共通の認識が私たちには確かにあったということです。もちろん、その根拠はパネリストたちによってまちまちでしたし、(チャーリー&ゲストはともかくとして)あの場にいた院生パネリストたちは誰一人としてその根拠をハッキリと説明できなかったであろうとは思います。ですが、それでも私たちが学問のような何だか分からないけれども重要なものを守っていくことは、引いてはみなさまにとっても重要な何かを守ることに繋がるのではないか――そのような意図でもって、私たちはみなさまの貴重な日曜の午後のひとときをお借りしたつもりです。


そして、この点について伝えることこそが、まさに「<学問>の意味」を伝える営為そのものなんですよね。おそらく先ほど挙げたアンケート等のご意見は――あくまで私個人の考えですが――その意図を汲み取った上で、私たちの議論が「自分自身にとっての<学問>の意味」の域をちっとも超えていないということ、つまり「全ての人にとっての<学問>の意味」には全く及んでいないよ、ということを厳しく指摘するものであったと私は捉えています。


このように私たちはまだまだ未熟で、言葉足らずであるがゆえに、チャーリーという偉大な先駆者の力を貸りつつ、「<学問>の意味」をみなさまと一緒に模索しようという意図でパネリストによるディスカッションという形をとりました。私たちにとって大切な何かが、きっとみなさまとっても大切な何かであるということを伝えること――この試みがどの程度成功したかについては、これ以上ここで申し上げることはできませんし、あとはみなさまの判断に委ねるしかありません。ただ、先に挙げた厳しいご指摘がある一方で、多くの方々が四時間もの長いあいだ会場に残って下さったという事実に関して、楽観的な私は拙い希望を見出してしまったりもするわけです。そして、京都アカデメイアのメンバーがそれぞれ掴んだであろう感触は――それが希望であれ絶望であれ――今後彼/彼女らが「自分たちが大切だと思っているもの」を人に伝えてゆく際の貴重な経験となるはずです。


さて、そのような貴重な経験の場をいただけたのは、まさにみなさまのお力添えあってのものです。最後になってしまいましたが、急な依頼を引き受け&当日は無茶な議論も笑顔で(?)まとめて下さったチャーリー、同じく急な依頼にも関わらず参加して下さったゲストの信友さんと玉置さん、裏方に回ってもらったスタッフの方々、そして当日足を運んで下さった全てのみなさまに深く感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。


 


■ 田中いくみ(京都大学 総合人間学部4回生)


本番を終えた翌日、友人に出くわし「公開討論会見に行ったよ。前半だけだけど」と話しかけられた。こちらの企画を途中退室し、別の会場でやっていた「アフガン イラク 伝えきれなかった真実」という題の講演会に参加したのだそうだ。


私はそれを聞いて一瞬ドキリとした。イラクの講演会が開催されているその時、別の場所で、私がやっていたことは何だったのか。私たちの企画に来てくれた人達に対して、イラク講演会より優先してもらうに値するようなものを何か提供できたのだろうか? 戦争・難民・貧困…そうした今・リアルに起こっている事実をよそにして<学問>について語ること。それは、なんだかとても悠長な・恵まれた人だけができる・鈍感な行為のように見える。「平和」で「豊か」な日本でも状況は同じ。毎朝9時には出社して、12時間後に家に帰り、明日のために栄養を採り、眠り、また満員電車に乗る…そんな生活を送る以外に選択肢のない社会人にとって<学問>なんて何の意味があるのだろう?そんなものは好きな人だけやっていればいいじゃないか。


だけど、本当に<学問>ってその程度のものだろうか?<学問>は「趣味」の一種で、私たちが抱える切実な問題――経済的貧困・暴力・閉塞感に満ちた日常――に対して何の貢献もしてくれないのだろうか? 来場者から寄せられた意見・質問のいくつかは、まさにこうした<学問>の存在意義を鋭く問い直すものだった。私はそのような問題意識に深く共感する。討論会を終えて、私はこの問題を次のように考え続けている。


<学問>とは、平たく言えば、知る ということ。何かを認識するということ。――何を知るのか?――色々。自然・文化・社会…知る対象は色々ある。○○学(○○の中には特定の対象が入る)は無数に存在するし、今後も増えていく。だけど実際、どの○○学も「○○について知る」ことを目的にしながら、結局は「○○について知る私 を知る」ことが最終目的になっている。これは重要だ。 ○○について私がどんなふうに認識するのか、それ自体が<学問>の対象になる。


私が○○についてどのように認識しているか・判断するか ということは、自分とは異なる認識を持った人との出会いを通じて、初めて意識される。 ‘私とあの人は同じ○○について語っているのに、どうしてこんなにも考え(見方)が違うのだろう。’‘この人に出会うまで、○○について考えたこともなかった’という経験が、<学問>のきっかけになる。その意味で、<学問>は(大学の内外を問わず)日常生活レベルで必要とされているはずだ。


勿論、些細な違いをきっかけにいちいち<学問>していたら、毎日は進まない。多少の違いは、「私とあなた、違いますね。まぁでもそれについて深くは突っ込まずにおきましょう」と片づけるのが普通だ。けれど、私たちがわざわざ<学問>しないことが「普通」で、本当にいいのだろうか?他人と自分の認識が、どう違うのかを徹底的に解明せず、ただ「違うね」というだけで終わらせること。それこそが、もしかすると日常の閉塞感の原因ではないだろうか?


そして、ただ「違う」で済ませられないにも関わらず、「私とあなたの考え方が、どのように違うのか」を知ろうとすることを怠った結果が、「アフガニスタン イラク」ではなかったのか?


<学問>は、私が<世界>と関わるための方法であり、それはつまり「趣味」ではなくもはや倫理という次元の営みなのだと思う。だから実際に<学問>するのはとてもしんどい。それでもやはり私たちは切実に必要としているのだ、<学問>するために・<世界>と誠実に関わっていくために、自分のエネルギーを注ぎ込めるような場所と時間を。


 


■ 村田智子


長い大学生活で初めてNFに関わるという(遅めの)青春の一頁であったのだが、ビラ絵描いた以外はほとんど企画には協力できず、当日はカメラ回してました裏方です。カメラ越しにパネリストの並んだ図をみると、やはり鈴木さんの服装は目立ちました。白と黒のボーダーのニット(ネコ耳つき)に、オオ、その中は赤い「無線衝突」Tシャツであった。無線衝突Tシャツとは、パンク・バンド The Clash のアルバム・ジャケットでジョー・ストラマーが着ていた有名な(?)Tシャツなのである。


若者の就職難の70年代の英国で、The Clash は、「すべての若きパンクスたち」に向かって歌ったのやった。「若きクズどもよ、人生なんて笑いとばせよ、泣くに値するものなんて何ひとつないぜ」。この日集まった、それぞれに困難な状況を抱えたであろう若者たちに鈴木さんが何らかのメッセージを込めてそのシャツをお召しになっていたのかどーか、までは知らない。人生なんて笑いとばせよ、しかし、笑いとばすにはたぶんそれなりの武器が必要なんであろう。それがこの日「知」だとか「つながり」だとか言われてたものなのかもしれん。で、その「つながり」がどのようなものになっていくんか、或る程度内輪的なものになるのかモット広がっていくのか、ということが、スタッフ間でもイメージの異なるところであってこの日の議論の隠れ論点のひとつでもあったんだろう。現在のところ京アカは、京大とその周辺の出会い系的に機能していて個人的にはイイなと思ってるけれど、何年か経ってわれわれが「若き」クズどもでなくなった頃、つまりそれぞれに、若くないクズや《大学》の研究者やしゃかいじんや《在野》の研究者やその他の何かになったりならなかったりする頃に、どのような「つながり」が保たれているのかいないのか。イヴェントが終わると、早速ブログやtwitterに来場者の方からのご感想がupされていた。感想や批判を言語化するのに時間のかかる私は、ネット時代の瞬発力にいつも驚く。パネリストの皆は早速、それらの感想・批判や会場アンケートを回覧し、真摯な議論を始めた。「終わった!飲み会だ!」モードになってた私は、皆の持久力にいつもながら驚いた。


■ アダチセンリ


会場受付をしながらの参加だったので討論をずっと聴いていたわけではありません。という但し書きから簡単な感想を書かせていただきます。


ぼくは人文系学問をかじっている学部生です。共感できる言葉はYUKI(ジュディ&マリー)の「散歩道」という曲にある「難しい言葉ばっかりじゃあのことも仲良くなれない」です。小学校のころの同級生との会話にはまったく必要のない言葉を大学になって大量に手に入れて、違和感と寂しさを感じています。というようなバックグラウンドを知っていただいた上で、斜に構えたような内容にもなにとぞご容赦いただきたいと思います。但し書きその2。


当日パネリストの方々が「自分の経験を離れた話ができない」と批判されていましたが、僕はまったくと言っていいほどできません。但し書きその3。



「大学で〈学問〉する意義」という大きなテーマのもと、さまざまな話題がでました。個人的にはパネリストの方々のキャラクターや研究内容などを事前にある程度知っていたこともあってかなり楽しめたのですが、来場者の方からあった「文系への偏り」「話が内輪」という指摘は、当日初めて壇上のチャーリー氏、他のパネリストを見た人にとっては当然のことのように思えました。他の方から「会場とのやりとりがもっとほしい」という要望があったようですが、会場全体で問題意識を共有する工夫がもっともっとできるのでは…と、次に期待したくなります。


「大学で〈学問〉する意義」・・・全然わかりません!保留にしておきます。(税金で大学生しているのだから、社会に還元した方がいいとは思います。)人それぞれとしか言えない気が・・・。


公開討論をざっくりと聴いて触発されでてきた願いは「〈学問〉する人は自分のスタイルを鮮烈に提示してほしい」ということです。やるならしっかりやってほしい。魅力的であってほしい。自分の興味と、アカデミズム・学会や社会の要請とのジレンマの中で自分マーケティングを行ってほしいと考えます。そういう志向もあり「覚悟をもって学問やれ(中島)」「学問と仕事はダブルキャリア。意識的に鍛えることが必要。(チャーリー氏)」などの発言は印象的に響きました。


大御所の学問へのスタイルが垣間見れるものとして、


1 『講義のあとで1』『同・2』『同・3』丸善、2009年。:今西綿二、田中美知太郎、下村寅太郎はじめ大御所による学問・研究に関するエッセー集。

2 広中平祐・藤沢令夫『知の発見―叡智』てらこや出版、1983年。

3 高坂節三『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年。

(4 村上ポンタ秀一というドラマーの教則dvd。これは〈学問〉ではないですが。)


あたりは好きだったので、ご紹介させていただきます。念のため断わりをいれておきますが、あくまで研究内容云々はおいといて、学問に対するスタンスに触れるためのものです。


さて、大学の外で〈学問〉をするときはどのような形になるのでしょうか。個人的には本読む程度で十分満足できます。仲間をつのって読書会をやるとか。極めて人文系ディレッタント的な考え方と思いますが。これを読んでくださっているみなさま、どうでしょうか?


一文系学部生が失礼いたしました。


討論中にでたいつか使ってみたい言葉:「世の中はセクシーなものにしか近づかない」



「今読んでいるのは論語ではねえが。」

「お師匠はんがこれがらはおなごも学問しねばだめだっておっしゃったの。」

「それはええことだあ。おれも子供の頃何度も何度も読んだでなつかしの。」

「針仕事習って上手になれば、いつかは着物や浴衣が縫えるようになるだろ。だば、学問したら何の役に立つんだろう。」

「学問は針仕事のようには役にたたねえかもよ。学問しれば自分の頭でものを考えれるようになる。この先世の中どう変わっても、考える力持ってればなんとかして生きて行くこともできる。これは男もおなっこも同じことだ。」(映画『たそがれ清兵衛』台本より)


自分ひとりの頭で考え、自分ひとりの知恵で生み出したと思っていても、本当はすべてこれ他から教わったものである。 教わらずして、学ばずして、人は何一つ考えられるものではない。 幼児は親から、生徒は先生から、後輩は先輩から。 そうした今までの数多くの学びの上に立ってこその自分の考えなのである。 自分の知恵なのである。 だから、よき考え、よき知恵を生み出す人は、同時にまた必ずよき学びの人であるといえよう。 学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。 語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児、先輩のきびしい叱責、 後輩の純情な忠言、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、 どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、 宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。 そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。 これらのすべてに学びたい。 どんなことからも、どんな人からも、謙虚に素直に学びたい。 すべてに学ぶ心があって、はじめて新しい知恵も生まれてくる。 よき知恵も生まれてくる。 学ぶ心が繁栄へのまず第一歩なのである。 (松下幸之助『道をひらく』「学ぶ心」より)


 




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