書名:アンチ・オイディプスの使用マニュアル
著者:ステファヌ・ナドー
訳者:信友建志
出版社:水声社
出版年:2010

 著者のステファヌ(ステファン)・ナドー(1969~)は2010年1月に日本語訳が出版された『アンチ・オイディプス草稿』の編者である。ここで紹介する『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』の日本語訳は2010年4月に出版された。原著の出版もそれほど昔のことではない(前者が2004年で後者が2006年)。私たち京都アカデメイアの『アンチ・オイディプス』読書会も現在進行中であり、この本の紹介をする前に、なぜ今『アンチ・オイディプス』なのかを考えたい。

 『アンチ・オイディプス』が最初に出版されたのは1972年である。それからちょうど一世代に相当する時が流れたわけである。オイディプスは世代を取り扱う一つの方法であるとするなら、『アンチ・オイディプス』の子ども世代(そもそもそのような言い方が妥当なのかという疑問はあるが)はどうなるのであろうか? 折しも世代間の格差が問題となっている今日この頃である。

 さて、本書は「マニュアル」と銘打っているので、『アンチ・オイディプス』のわかりやすい解説書を期待する人も多いだろう。その期待の半分は当たりで半分ははずれである。それはどういうことか種明かしをすると、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で示したやり方に忠実に従っているという点では当たりであるが、内容や鍵概念の単なる解説本ではないという点でははずれなのである。

 実はこの二重性そのものが本書のテーマでもある。本文の最初のほうでナドーは「測量する」という語の二つの意味に注意を促している。その二つの意味とは、①地面をべつの土地単位で計測する、②《比喩的に》《俗》空間内を大股で行ったり来たりする、である。つまり、合目的な(といってもべつの単位で計測するだけであるが)意味とそうでない意味の両方があるわけである。

 盲目的にエディプスを当てはめようとする「ポップ心理学者」や、先人が作り出した概念をただただ振り回す「ポップ哲学者」が一つ目の意味で測量する職業家の代表である。これこそが『アンチ・オイディプス』でドゥルーズ=ガタリが最も批判したものである。

 それでは二つ目の意味で測量することを目指せばよいのだろうか。それほど単純ではない。無目的に大股で行ったり来たりすることにどれだけの人が耐えられるだろうか。仮に耐えられたとしても周りの人たちがそれを許さない。

 ここで、なぜ今『アンチ・オイディプス』なのかという問いに戻ろう。日本ではドゥルーズ=ガタリの思想が浅田彰を経由して受け入れられた面が大きいだろう。彼の『逃走論』を真に受けてフリーターになった人も少なくないと思われる。そうこうしている間にバブル経済が崩壊し、現在では真面目に就職活動をする若者が目立っている。

 「アンチ・オイディプス」の次の世代は「アンチ・アンチ・オイディプス」ということでただの「オイディプス」に戻るのだろうか。そのように見える例は他にもある。男女平等が叫ばれた後のジェンダーフリーバッシング、グローバル化の中のナショナリズム、ゆとり教育から学力低下論争への移行、左翼教師への反発からの右翼的な言説への没入…。

 ナドーの言い方を借りると、これらはノスタルジーに過ぎない。しかもそれは過去に実際に存在していなかった状態を目指しているのである。主体がバラバラになる前には統一された主体があったというのも同様にノスタルジーである。

 資本主義はこうしたノスタルジーを活用する。主体がバラバラになることが脱コード化で、改めて統一されることが再コード化だとすると、資本主義は脱コード化を行うだけでなく再コード化をもする。ということは脱コード化を推し進めても、それに反してコード化を促進しても、どちらにしても資本主義に寄与することになってしまう。

 このような資本主義に対抗するためには、脱コード化も再コード化もしない(あるいは脱コード化と再コード化を同時にする)という戦略が必要となる。言い換えると、あれかこれかの二者択一の平面から抜け出す必要があるということである。抜け出した先は、エディプスでもなければ無秩序でもない、主体がまったくバラバラであるのでもなければ統一されているわけでもない、生だけでもなければ死だけでもないような状態である。

 そのようなことが可能かどうかは、各自がこの本を読んで判断してもらいたい。

(評者:浅野直樹)

更新:2012/04/25