発表者:中島 啓勝

第四回模擬授業  京都学派とは何だったのか

              ――現代文明論としての西田哲学

発表者:中島 啓勝

 第四回目の模擬授業のテーマは「京都学派」。京都大学にいながら、なかなか触れる機会のない京都学派の哲学について、京都学派を専門に研究しておられる中島さんに、分かりやすく解説していただきました。

〔1〕京都学派を巡る情報整理

 京都学派とは何か、西田幾多郎とは誰かということを語る上で最初に留意しておかなければならないことがある。それは、彼らが活躍の舞台としていた京都帝国大学の存在そのものが一種の壮大な「プロジェクト」であったということだ。首都である東京に置かれた帝国大学に続いて設立された京都帝国大学は、単なる「二番目の帝大」としてだけではなく、明らかに東京の帝国大学とは違う建学の精神を持っていた。

 東大が西洋の学問の受容と翻訳、そして国家官僚の養成を急務としていたのに対し、その一定の成果を所与の前提としていた京都帝大は当初から、「横から縦へ」の輸入学問だけではなく、我が国独自の学問の構築と「非・中央」的で自由闊達なアカデミズム環境の整備を目指していた。つまり、京都帝大は近代国家としての変貌を国際社会に示し、自信をつけ始めた当時の日本の社会状況を反映して、オリジナルな知的センターとして成長することを期待されていたのである。

 ある意味で西田幾多郎は、こうした京大の理念を色濃く反映した人材であったと言える。西洋哲学と東洋思想の融合を企図し、後に「西田哲学」と呼ばれるまでになる思索を紡いだ知的巨人であるだけではなく、同僚として田辺元和辻哲郎といった当代きっての俊英を京大に招聘することに尽力し、彼らと共に三木清戸坂潤西谷啓治高坂正顕など、数え切れないほどの人材を育成したことを考慮してもらうと良い。そうすれば西田が「京大プロジェクト」の重要な一翼を担った功労者だったことが浮かび上がるだろう。

 ちなみに、「京都学派」という用語には様々な用法があり、これは必ずしも西田に関連した人たちだけを指す言葉ではない。憲法学や経済学などにも「京都学派」と呼ばれる集団が存在することが知られるが、特に西田たち「京都学派」と並んで著名なものが、戦後の京大人文研を中心に活躍した、桑原武夫今西錦司梅棹忠夫らの知的サークルを指す「京都学派」である。彼らもまた、フランス文学、霊長類研究、生態学など多岐に渡るフィールドでオリジナリティ溢れる国際的業績を挙げた「京大プロジェクト」の重要な一員たちと言える。ただ、今回取り上げるのは、西田を中心とした哲学者・思想家グループとしての「京都学派」である。

 西田たち京都学派を厳密に定義することは極めて難しい。そもそもこの京都学派という言葉は、西田の教え子でありながらマルクス主義の立場から西田の痛烈な批判者となった戸坂潤が、批判対象としてレッテル貼りする際に使ったのがその初出とされる。だが、今ではその戸坂までが西田哲学からの影響を理由に京都学派と分類されることがある。このことからもいかに定義が錯綜しているかがわかるであろう。

 西田哲学の代表的な研究者である大橋良介と藤田正勝の二人はそれぞれ、「〈無〉の思想をベースにした・・・」という風に「学派」という言葉に重点を置いた定義と、「西田・田辺を中心にした・・・ネットワーク」と当時の人間関係を重視した定義を暫定的に主張しているが、どちらも一長一短があると言わざるを得ない。むしろ、京都学派はどんな集団で誰が含まれ誰が含まれないかにこだわるよりも、何故京都学派が問題とされてきたのかに注目することの方が生産的であろう。そして、そのことを考えるためには、京都学派の歴史哲学の問題を避けて通ることはできない。

〔2〕京都学派と「近代の超克」

  京都学派は戦後、一種のタブーとして半ば黙殺されてきたが、その大きな原因は戦前及び戦中の彼らの発言が「知識人による戦争協力」だと批判されたことにある。このことに関連している重要な座談会が二つある。一つは雑誌「文学界」に掲載された「近代の超克」座談会、そしてもう一つは「中央公論」誌に四回に渡って掲載され後に書籍にまとめられた「世界史的立場と日本」座談会である。

 前者は、小林秀雄亀井勝一郎など当時の「文学界」周辺の人脈から様々な分野の参加者が一同に介して行われた一大イベントであったが、そこに西田の門下からは西谷啓治、鈴木成高下村寅太郎が参加した。この座談会は戦後痛烈な批判を浴びることになったが、竹内好の有名な分析の通り内容としてはむしろ散漫で、取り立てて「戦争協力」だと言うほどの議論が行われたとは言いがたい。ある意味ではその冗漫さこそが鈍感や不誠実として批判されたと言えるかも知れない。

 京都学派にとっては、不発に終わった「近代の超克」座談会よりも、西田門下だけでメンバーを固めた「世界史的立場と日本」の方こそが自分たちの思想を披露する上では重要であったことは間違いない。こちらは「近代の超克」座談会に参加していた西谷と鈴木に加えて、高坂正顕と高山岩男を合わせた四人で行われた。

 先述した大橋良介の研究によると、この頃彼ら「世界史グループ」やその師匠である西田や田辺たちは、海軍の秘密会合に参加していたことがわかっている。そこでは当時絶対的な発言権を持っていた陸軍の専横をいかに食い止め、戦争を拡大させずに軟着陸させるにはどうすれば良いか、または敗戦となった場合にはどうやって国を再建するかについても話されていたという。こうした活動は陸軍および官憲に露見するや否や身分の保障はない危険な綱渡りであり、「世界史グループ」の四名はそうした状況を背景に表の世界ではギリギリの思想表現を試みていたのである。

 しかし、たとえ当時の陸軍に対する批判的な姿勢があったにせよ、そして言論統制の状況下で戦争に対して批判的な言説は発表できなかったにせよ、彼らが座談会で示した立場は「戦争の理念化」であった。つまり、戦争そのものを否定する立場ではなく、今次の戦争が日本の、そして世界史の現状においていかなる意義を持ち、どのような形で行われなければならないかをその哲学的視座から説くというものだったのである。

 彼らは当時の国際情勢を、西洋中心の世界が綻び、真の意味で世界は一体となる時代、つまり「世界史的時代」と診断した。そして、世界が真に一体となる時代は同時に、それぞれの国家や民族がその個性を存分に発揮して世界文化に影響を与えていく時代でもあると考えていた。その中心選手こそ、西洋と東洋の狭間にあってそのどちらをも吸収し、そのどちらをも生かすことで成長してきた我が国日本である、日本は単に西洋の植民地帝国主義を破るだけではなく、世界に範を示す存在として主体的に行動していかねばならない。戦争は、こうした日本の立場を表明する道義的な行動でなければならない。これが、彼らが座談会で示した共通見解であり、世間一般には彼ら四人の見解が西田を中心とした京都学派の統一見解であると見なされた訳である。

 もちろん、「世界史グループ」四名がただ単に暴走して自分勝手な思想を披瀝した、と断ずることはできない。西田や田辺は明らかに彼らの活動を後ろで支援していたし、何よりその精神的支柱として大いなる示唆を与えていたであろう。しかし、明らかに「日本の主体化」を前面に押し出していった四名とは対照的に、師である西田は「日本文化の問題」の中ではっきりと、「最も戒むべき」は日本の主体化であると論じ、帝国主義政策に邁進する当時の政府に懸念を表明していた。世界史的時代における日本の役割について同じ価値を奉じる彼らが、戦争について明らかな見解の相違を見せるのは何故か。これは京都学派の歴史哲学を考える上で最大の問題の一つだと言える。

京都学派とその歴史哲学は、戦時中は自由主義的で日和見的だと批判され、戦後は帝国主義を擁護し哲学的空論に終始したと批判された。実際、彼らは戦争に直接コミットすることはほとんどなく、そして政治の現実に対し、あまりにも無残に抵抗できなかった。だが、それだからと言って彼らの歴史哲学の試みは本当に無駄だったのか。戦後、日本では先ほどから何度も取り上げられてきた「あの戦争」のことを一般的には「太平洋戦争」と呼び習わしている。しかし、実際の戦争中、「あの戦争」はこの国の人々にとっては「大東亜戦争」という戦争であった。何故なら「太平洋戦争」、‘the Pacific War’とは、戦勝国、そしてその代表であったアメリカ側からの呼称であるからだ。

 「あの戦争」を「太平洋戦争」として見るということは、つまり勝者の側から戦争を捉える視点に与するということに他ならない。そのこと自体の成否はともかく、戦後日本は「あの戦争」について、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の二つの立場のジレンマの中で、思想的総括を先送りにしてきた。京都学派の歴史哲学が十分な考察もないまま黙殺されてきたことは、単に京都学派だけの問題ではなく、「あの戦争」についてどう考えるかから逃げることでもあった。現代はあの当時よりも様々な意味でグローバル化が進み、より本格的な世界史的時代を迎えていると言っても過言ではない。日本は、我々はどう行動していく必要があるのか、どのような未来を描けば良いのかという課題は、どこかで歴史という相対的で具体的な問題の「意味」を考えるという、哲学的な営為を要求している。京都学派の歴史哲学は無謀かつ蛮勇に過ぎたのかも知れないが、こうした大きな課題を引き受けようとした、誠実な先駆者たちだったのではないだろうか。

〔3〕現代文明論としての西田哲学

 20世紀末に冷戦体制が崩壊して以来、国際秩序を巡る言説は混沌の一途を辿ってきた。時にアメリカの一極支配をリベラルデモクラシーの勝利として描き出す言説(「歴史の終わり」)が現れたかと思えば、中国やイスラム圏の台頭を世界の多極化として警鐘を鳴らす言説(「文明の衝突」)が現れたりもした。今世紀に入ってもこうした言説の混乱は解消されることなく、それどころか2001年のアメリカ同時多発テロ以降、国際秩序の将来像は未だ全くの五里霧中といった観がある。

 しかし元を正せば、冷戦以前の二度の世界大戦の時代もまた、国際秩序についての見取り図が描けない時代であった。ドイツの哲学者ヘーゲルは哲学の到達すべき形として歴史哲学を構想したが、歴史哲学という試み自体が歴史を抽象的な法則に当てはめて恣意的に解釈するものとして批判された。そしてそれから時はたち、初めての世界大戦を経験したヨーロッパ世界で、「西洋の没落」を唱えたシュペングラーや、世界を多極的な文明世界として捉える歴史学を構想したトインビーたちが登場したのは、歴史哲学の根本的な挫折というハンディキャップを抱えながらも何とか歴史の意味を問おうとする文明論の登場に他ならなかった。文明論は歴史哲学のような学的体系性を持たず、多様な研究領域からなり、理論の面でも実証の面でも中途半端な、いわばキメラのような存在である。20世紀において、歴史哲学の血を引く者はこのキメラのような文明論の形を取るか、それともヘーゲルの歴史哲学を裏返しにしたようなもう一つの歴史哲学、唯物史観の形を取る他はなかった。

  マルクス主義、そして唯物史観は政治イデオロギーとしての実効性を備えた歴史哲学として20世紀を通じて猛威を振るったが、その歴史観に貼りついた進歩主義という根本理念が動揺を迎えて久しい今、それをそのまま是認するのは難しくなってしまった。また、歴史の意味を問うということを「大きな物語」として疑問視し、その問い自体が失効したという立場に立ったいわゆるポストモダンの思想も、「大きな物語の失効」という歴史判断に立つ以上、やはり歴史の意味を問うゲームからは逃れ切れてはいない。我々は歴史哲学を批判することはたやすいが、歴史の意味を問わずにはいられないというアポリアに直面している。

 先ほども述べたように、文明論とは不完全極まりない異形のキメラである。しかし、我々はそこから始めなければならないし、そこから歴史哲学をいかに批判的に継承できるかを考えなければならない。ところで、西田哲学はよく体系性を持たないと批判される。西田自身は体系化ということに非常にこだわったようだが、確かにその用語の定義の甘さ、論文の冗長さなどを見ても本人の意図が上手く達成されたとは考えにくい。

 しかし、それにも関わらず西田哲学が今も思想的有効性を持つのは、彼の思想が世界の根源的な事実に迫ろうとすると同時に、常に世界に対して開かれた自由さを備えているからではないだろうか。西田哲学を「哲学であって、哲学ではないもの」として呼ぶことができるとすれば、文明論もまた「歴史哲学であって、歴史哲学ではないもの」と言うことができる。この二つの交点に、歴史の意味を問い未来への指針を見出すヒントがあるのではないだろうか。