【エッセイ】どこで学ぶか
2014/12/29
大窪です。
先日、佐伯啓思さんの『西田幾多郎』(新潮新書)が手元に届いたので読み始めました。
西田幾多郎は、『善の研究』の著者で、いわゆる京都学派を形づくったことで知られる哲学者です。
本のまえがきは「哲学の道」についての話からはじまります。京都大学から東に向けて少し行ったところにあるその場所は、西田が思索にふけったことから名づけられたといいます。
実際に行ってみるとわかりますが、なんということのない小川沿いの小道です。しかし、最近では京都の観光名所にもなっていて、とても、静かに考えを巡らせながら歩いている暇などなさそうです。佐伯さんいわく、いっそのこと、哲学者以外、進入禁止にでもしたらどうか(!)、と。
ともあれ、西田にとっては、どこで哲学的な思考をするのか、は重要なことだったようです。もちろん、個人的な事情だけではなくて、彼の非常に晦渋で独特な、そして、ある種の”東洋的”な哲学が、伝統、文化に育まれた、京都で生み出されたということも、やはり偶然ではなかったのでしょう。ちなみに、「場所」は、西田哲学のキーワードのひとつです。
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京アカ塾の開催場所は、受講生の方の要望にあわせてさまざまです。
私の場合、これまでのところ、喫茶店やレストランでおこなうことが多いですが、お店によって、雰囲気やかかっている音楽、他のお客さんの声、照明の明るさ、テーブルの質感、そして、コーヒーの香りなど、さまざまです。あるいは、同じ店でも、その日、その時間によっても違ってきます。
とくに意識しているわけではないと思いますが、そうした状況によって、こちらの話し方や考えるモード、ペースも影響されていると思うときがあります。店内が静かだと話す調子もゆっくりと、賑やかだと少しスピードを上げて。また、その場の雰囲気に応じて、話す内容や受け取り方も変わってきます。場所を変えると、それがまたガラッと変わることもあります。
学びの場所というと、わたしたちはすぐに学校や教室をイメージしますが、本当は、それが唯一というわけではありません。たとえば、街場のカフェなどが、学びの場所になることもあります。とりわけ、答えの決まっていないような問いを考える場合なら、なおさらです。そして、その「場所」とは、じつは固定してあるものではなくて、人同士の関係や、周りのいろいろなものとの関係から成り立っているものです。
ありがたいことに、京都には素敵な喫茶店が数多くあります。最近ではお店を紹介した本がいくつも出され人気があるようです。その中で、自分だけの学びの場所を、あるいは、友人や仲間と共有する場所をみつけてみるのもいいですね。