書名:自由という牢獄――責任・公共性・資本主義
著者:大澤真幸
出版社:岩波書店
出版年:2015

 それにしても、本当にたくさんの本を出す人である(たとえばhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E7%9C%9F%E5%B9%B8を参照)。ここまで多産であると、単に多くの本を出しているという事実のみで、かえって著者の研究の価値が低く見られてしまうのではないか――たとえば一冊一冊の密度は薄いとか、色々な分野に手を出しているがどれも専門的ではないとか、商業主義的であるとか――と、逆に心配になってしまうほどである。言うまでもなく、著者の本の中身を読まずにそのような表面的な情報のみで著者の研究の価値について論ずることは、「知ったかぶり」のそしりを免れえないし、とても学術的な態度であるとみなすことはできない。個人的には、著者から提唱されている理論的なアイデアが、より多くの研究者たちの間で学術的に吟味され、日本の社会(学)理論研究のさらなる発展に寄与することを願っている。もちろんそのためには、著者自身にも、いわゆる「学問的な」(学会的な、と言い換えても良いかもしれない)コミュニケーションに参入する積極性をもう少し見せてもらいたい気もするのだが…。
 さて、まるで書評の最後に述べるかのようなことを最初に述べてしまったが、このように大見得を切ってみたものの、あいにく評者には著者(以下、大澤)の全ての著作を読み、吟味する時間もなければ力量もない(なんと「無責任」な態度だろう!)。よって、ここではとりあえず一冊を選ぶという形で、評者が現在個人的に気になっている「責任」の問題についての論考が収められている、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』という本を取り上げてみたい。大澤にとっての最新作(2015年3月現在における)であるこの本は、2000年前後に書かれた三本の論考――三本の論考は、それぞれ「自由」・「責任」・「公共性」というテーマについて書かれたものである――と、この本のための書き下ろしであるピケティ論を収録していて、全部で四章構成となっている。それぞれの章は一本の論考として独立して読めるようになっているので、本書評では当初の目的に基づいて第二章「責任論――自由な社会の倫理的根拠として」をピックアップして紹介したいと思うのだが、その前に、この本全体をつらぬくテーマについて、すなわち大澤の自由論について簡単に確認しておきたい。

1. 大澤社会学では、なぜ「自由」が重要な問題となるのか
 大澤は2008年にも『<自由>の条件』という本を上梓しており、『自由という牢獄』は『<自由>の条件』に続く自由論を主題とした著作ということになる。では、大澤の理論にとって繰り返し「自由」が主題となるのはなぜなのだろうか。それは、昨今のリベラリズム論の流行に便乗しているからというわけではなく、「自由」をめぐる問題が、大澤の理論的な問いの核心部分と関わっているからである。
 先述したように様々な社会現象について論じている大澤であるが、彼の問いは当初から
一貫していて、それは「社会規範はいかにして成立しているのか」を明らかにするというものである(「社会規範」とは、ここでは「人が行為する際の基準となる道徳やルール」として大まかに捉えておけば良いと思う)。この問いに基づき、大澤は『身体の比較社会学』において、社会規範がいかにして構成されるのかを、原始的な共同体の水準にまでさかのぼって理論的に考察している。ちなみに社会規範なのになぜ「身体」なのかというと、大澤の理論では、この社会規範は超越的な第三者――つまり、個別の社会成員の誰でもなく、かつ社会成員たちからは越え出た存在――からの視点という形式で(たとえば神や王や国家主権などとして)立ち現れることになっているからである。大澤は、このような社会規範の備給元として現れる超越的な第三者の身体(が位置する座)を「第三者の審級」と呼んでいる。たとえば、キリスト教徒にとっての第三者の審級は「神」であり、彼らは神の教えを基準として、つまり社会規範としてそれに基づいて行為することになる。
 このように原理的な社会規範の構成過程を描いたうえで、さらに大澤は社会規範が歴史的にどのように変遷してきたのかを、人類史のレベルで明らかにしようとする。これはすなわち、様々な社会における第三者の審級の在り方を考察する、第三者の審級の比較社会学、すなわち「身体の比較社会学」の試みであるとそのまま言い換えることができよう。おそらくこの比較社会学的研究は現在でも未だに道半ばであり、それゆえ大澤が様々な社会や社会現象を分析の対象とするのも、広い意味ではこの研究の一端であるとみなすことができるのではないだろうか。
 ところで、大澤が描く社会規範の人類史によれば、私たちが生きる現代社会は、社会規範の備給元となる第三者の審級が失効してしまった時代である。現代をポストモダンや後期近代として捉える議論でも見られるこの時代診断は、大澤理論の用語を用いて言えば、現代は第三者の審級が機能不全に陥っているがゆえに、人が物事を判断したり行為したりする際の絶対的な基準が失われてしまった時代であるということになるだろう。ここで最初の「自由」の話題に戻るのであるが、このような現代社会を生きる私たちは、一見とても自由であるかのように映るかもしれない。ふつうに考えれば、私たちの行為を制限する社会規範の弱体化は、私たちがわずらわしい道徳やルールに縛られることなく生きることを可能にするように思われるからである。しかし、この点こそが本書『自由という牢獄』でも重要な前提ともなっているのだが、単に何にも束縛されていない状態は、私たちにとっては必ずしも自由であること(選択が可能であること)を意味しない。たとえば大澤によれば、人は無数の選択肢を与えられたとき、選択肢が多すぎるがゆえにかえって選択できないと感じることがあるという。つまり、現代を生きる私たちは以前より多くの選択肢に開かれているわりに、というよりもそのためにかえって、選択の困難や不可能性に悩まされることになる。そして、困ったときに選択を後押ししてくれるような超越的な第三者の視点はもはやどこにも見出すことができない――これこそが、大澤のいう現代社会における「自由の困難」や「閉塞感」の正体なのである。
 大澤の理論によれば、先に述べた現代における第三者の審級の失効は、それ自体が必然的な帰結である。ここではこれ以上大澤の理論ついて詳細に立ち入ることはしないが、第三者の審級の失効を避けることができない以上、第三者の審級の不在をいかに乗り越えるべきかということが、大澤理論から導かれる(そして大澤理論が抱えている)現代社会の課題ということになるだろう。そして、第三者の審級の失効が、先に述べたような「自由の困難」として現実に現れていることを踏まえると、「自由の困難」に対する処方箋を考えることは、大澤の理論における「第三者の審級の不在」という課題と向き合うことと同義であるということになるのだ。このように、「自由」をめぐる問題は大澤の理論的な問いの核心部分と関わっており、それは大澤が「自由」というテーマを繰り返し変奏する所以であるといえるだろう。実際に自分が抱えている問題を大澤のいうところの「自由の困難」によるものとして実感(共感)するかどうかは読者によるのではないかと思われるが、それはともかく、今回取り上げる『自由という牢獄』でも、引き続き「自由」の問題が全体を通して思考されているのである。

2. 大澤真幸の責任論
 以上のような前提で「自由」をめぐる問題を扱う本書で、「責任」というテーマに対して一章分の文量が割かれているのはごく自然な成り行きであるように思われる。というのも、「責任」の概念と「自由」の概念は、切り離すことができない関係にあると考えられているからだ。通常、私たちは自由な条件の下で行った行為について、その責任が問われることになっている(自由な条件の下ではない、つまり強制された行為については基本的に責任を問われない)。「自由」なくして「責任」を考えることはできないし、「自由」もまた「責任」を前提としている。このような「自由」と「責任」の関係を踏まえると、「自由」が大澤の言うような困難や閉塞を抱えているのだとしたら、「責任」もまた問題を抱えているとみなすべきであろう。では、「責任」は現在、どのような危機に瀕しているのであろうか。以下では、『自由という牢獄』の2章で展開されている大澤の「責任」に関する議論をおってみたい。
 まず、大澤は「責任」という概念を「正または負の帰結をもたらしうる行為の選択を、何者かに帰属させること」として形式的に定義する。しかし、この定義は「責任」と「原因」の区別ができないゆえに、ほとんど内実をもたないものであるという。因果のネットワークとして世界を捉える限り、一つの結果に影響を与えた原因はほぼ無限に見出されるからである。では、「原因」に還元しきれない「責任」概念の固有性とはいったいなんだろうか。ところで、「責任」の英訳はresponsibilityであり、この語には(他者への)応答可能性という意味が含まれている。この点を踏まえ、大澤は「責任」の固有性を、それが含意する社会性に見出そうとする。すなわち、私に対して他者が(何らかの出来事について)応答を迫ってくるように見えるときに、「責任」が生ずるのであるという。では、現代を生きる私たちは、他者から何事かについて応答を迫られたときに、その責任を果たすことができているのだろうか。
 大澤によれば、現代社会では、かつてないほど責任の所在を明確化するべきという圧力が高まっているという。そのような傾向の最たる例はいわゆる「自己決定論」とその結果としての「自己責任論」であろう。しかし、私たちも日ごろ目撃している通り、「自己責任論」のコミュニケーションでは多くの場合、自己が責任を担う(つまり結果について他者からの呼びかけに応えようとする)という宣言がなされるわけではなく、逆に「責任は〇〇にある」や「この事態は〇〇の自己責任である」といったような責任の押しつけ合い、すなわち「帰責ゲーム」になりがちである。つまり、責任の所在をクリアにしようとすればするほど、責任の所在は人々の間を循環してしまうという事態が頻繁に生じているというのである。
 このような事態に対処する制度として生まれたのが、たとえば保険制度であるという。保険は、ある出来事の責任を加入者全員で背負う(負担する)制度であるが、その際に責任は捉えがたい領域に拡散してしまうことになる。さらに大澤は、この保険制度では負担しきれないような事件がしばしば生じてしまうことがまさに現代社会の特徴であることを強調する。たとえば原発事故のような極限の大惨事では、その責任はもはやどこにも帰すことができない(ちなみにこの大澤の責任論は2000年に書かれたものであるが、その内容は時間の経過によって古くなるばかりか、むしろより現実に妥当するものとなっていることを大澤は自賛?している)。
 以上のように、私たちは責任を厳密に扱おうとすればするほど、責任はその帰属先を失ってしまうことになる。このような責任が置かれているジレンマを、大澤は「責任の不発化」と呼んでいる。では、このように責任が不発化してしまう原因を、大澤はどのように説明しているのだろうか。結論から言えば、その原因もまた、やはり第三者の審級の不在に求められるという。たとえば、原発事故のような極限の大惨事では、それがいざ起こってしまったときのリスクを見通す超越的な視点を私たちはどこにも見出すことはできないため、誰もその選択を引き受けることができない。そのような極端な例ではなくとも、前述した「自由の困難」を抱えている状況にあっては、無限に開かれた選択肢の中から根拠のある選択を行うことは実質的に不可能であるといえよう。つまり、第三者の審級が有効に機能していない状況下では、私たちの選択は常に空虚なものとならざるをえないし、それゆえ誰も出来事に関する他者からの声に応じること――すなわち責任を取ること――ができないのである(以上のテーゼに従えば、出来事に対する呼びかけに応えてきたのは第三者の審級であり、その応答先もまた第三者の審級であったということになりそうである。大澤も指摘するように、第三者の審級が機能していない社会では、第三者の審級の失効ゆえにもはや自明ではなくなった責任の帰属先をなんとか定めるために、訴訟や裁判が頻発することになる。まさにアメリカのように)。
 以上が、大澤が論じている責任の危機である。ここまでの内容は、ウルリッヒ・ベックのリスク社会論やそれを継承する議論からそう遠く離れているわけではなく、自然な分析の範疇にあるといえるだろう。しかし、そのような責任の危機に対して大澤が提示する処方箋は、かなりアクロバティックなものであるといえる。「そもそも、他者からの呼びかけに人が応えずにいられなくなるのはなぜなのか?」(本書58頁)――以下では、この問いへの大澤の回答を、簡単に見ておこう。
 まず、大澤はそのヒントとなる現象を、阪神大震災や戦場という極限状況下において、10分や10センチの差で偶然生還した者たちが抱える苦しみのなかに見出そうとする。彼/彼女らが生き残り、家族や仲間が死んだのは偶然の産物であり、その結果が彼/彼女たちの選択に帰属することはないように見える。しかし、それにもかかわらず、彼/彼女らは自らが生き残ったことに対して深い罪の意識を感じてしまうのだという。この現象から大澤は、ヤスパースが「形而上の罪」と呼んだ、積極的に選択されたどのような行為とも関係のないところで成立する罪の次元、私たちにとっての根源的な責任の次元が存在することを指摘する。そして、私たちはこうした根源的な責任から逃れるすべを考えるより、それを積極的に担う方法を考えるべきであり、このように責任の概念を捉え直さないかぎり、自由が空洞化した現在において責任の概念に意味を持たせることはできないという。
 そのためには、この根源的な責任の感覚が、どこから生じているのかを見定めておく必要がある。おそらくここからが重要なのであるが、大澤によれば、先に見た極限状況下において紙一重で生存した者たちが重い罪責感を抱くことになるのは、生存者たちが「私が死者でありえた」(にもかかわらず「私がどうしようもなく私である」)と感覚してしまうからであるという。大澤はこの「私が他でもありえた」ということを根源的偶有性と呼んでおり、一切の責任の可能性の根底には、根源的偶有性に規定された責任があると洞察する。つまり、通常責任は、私が私であること、私がやったことに対して生じると考えられているが、そのような私の自己同一性に帰せられる通常の責任が発効するためには、逆に「私が私ではないかもしれない」という根源的偶有性を根拠にした責任が有効でなくてはならないというのだ。
 しかし、このような偶有性を根拠にした責任は、「失敗してしまったが、本当はちゃんとできたんだ……」という浅薄な責任逃れの論法に堕してしまわないだろうか。この点に関して大澤は、人が根源的偶有性に開かれているためには、「私が私である」という<同一性>への深いコミットメントが必要であることを強調する(注1)。単に「私は本当は〇〇するはずだった」で終わるのではなく、「私が他でもありえた」にもかかわらず、一方で「私はどうしようもなくこうである(私である)」という、<同一性>に基づいた根源的偶有性を自覚することで初めて、私たちは責任を引き受けることが可能となるのである。以上が、責任の危機への処方箋として大澤が導き出した独創的なテーゼであるといえよう。

3. 賛同と疑問――「責任を感じること」と「責任を果たすこと」の相違について
 本書で展開されている大澤の責任論を、大雑把にではあるが確認してきた。上記の理論的な帰結を踏まえたうえで大澤はさらに実践的な提言を行っているが、その内容については本書で実際に確認してもらうとして、ここではこのスリリングな責任への処方箋の理論に感化される形で、それに対する賛同と疑問とを表明しておきたい。
 もう一度、大澤の議論の流れを再度確認しておくと、私たちが抱えている責任の困難とは、責任を厳密に扱おうとすればするほど、責任はその帰属先を失ってしまうことになるという「責任の不発化」にあった。このような状況下において私たちが責任を担うために、現実に私たちが否応なく他者の呼びかけに応えざるをえない状態(極限状況下で、紙一重で生き残った生者の罪責感)を検討することで、そこに責任の根源的な原理を見出そうとする。その原理とは、「私が他でもありえた」という根源的偶有性から生ずる責任のあり方であった。たしかに、「私が他でもありえた」という根源的偶有性は、責任のみならず私たちの倫理の根幹をなしているように思われる。たとえば、私たちが自分より弱き者たちの抱える苦しみに対して一縷の責任を感じ、その呼びかけに応じなければならないと思うことがあるのは、弱きものたちの苦しみが自らの選択によって生じているとみなしているからではないはずだ。その責任は、「私が弱きものでもありえた、しかしそれでも私は(偶然にも)そうはならなかった」という、ある種の罪の意識から生じているとみなすのが自然であるように思われる。あるいはそれは、ロールズ的な契約論によって合理的に正当化される正義によって説明可能であるのかもしれないが、ロールズの正義論もまた、「無知のヴェール」という「私」の偶有性を自覚させる装置をその理論の中に組み込んでいるという事実を無視することはできないだろう。よって、たしかに根源的偶有性は、責任の帰属先を探し続けるという「帰責ゲーム」に陥ることなく、私たちを責任へと開かせる普遍的原理となりえそうだ。この点については、異論は全くない。
 ただし、「私が責任を自覚すること(責任感を感じること)」と、「私が実際に責任を担ったり果たしたりすること」は、別の問題とはいえないまでも、同一に扱うことはできないのではないか。換言すれば、「ある出来事について他者に応答しなければならないと私が思う」ということは、かならずしも「ある出来事について私が他者に応答する」ことに繋がらないのではないか(少なくとも前者は後者の十分条件ではないし、場合によっては必要条件でさえないかもしれない。私たちは、責任感を全く感じることなく、結果的に他者への責任を果たしていることがあると思われるからだ)。この疑問は、単なる理論の実践可能性についての批判ではなく、理論的な批判となりうる。この点について、以下では若干ではあるが評者の考えを述べておきたい。
 大澤の議論において根源的偶有性による責任を見出す契機となったのは、極限状況下で紙一重で生き残った生者たちの抱く罪責感であった。ここで、彼/彼女らは根源的な責任を自覚している一方で、その自覚が苦痛として現れてしまっていたことを見逃すべきではないだろう。大澤が紹介している事例によれば、彼/彼女らは根源的偶有性に晒されたとき、身動きすらとれなくなっているようである。この事実から、彼/彼女らにとって根源的偶有性(による責任)は、端的に重過ぎるということが見て取れるのではないか。もちろん、彼/彼女らの置かれている状況はある意味で極限事例なのであるが、しかしそこから普遍的に妥当する倫理を導き出そうとするかぎり、そのような偶有性に基づく責任にともなう、根源的であるがゆえの責任の「重さ」を無視するべきではないように思われる。  
 私たちは、責任を自覚した際に、その責任が重く根源的であればあるほど、かえって責任を果たすことができなくなってしまう恐れがある。そのような状況に置かれている人間は、「責任」の概念に照らして、「責任ある態度」をとっているものとみなすことができるのだろうか。この点について、R. Goodin(1986)が行った義務と責任の区別が参考になる。Goodinによれば、「義務」は行為への意志を重視し、その結果については問わないのに対して、「責任」はある結果を生じさせることを重視する帰結主義的な倫理であるという。このように責任を捉えるのであれば、「責任を自覚しているが、しかし私には責任を果たすことはできない」という態度は、結果的にとても責任を果たしているとはいえない、ということになってしまう。そして、このような態度(思うだけで何もしないという態度)を無責任であるとみなす見方は、実際にある程度一般的に妥当するように思われるのだ(もちろん、先の紙一重の生存者たちに対して、これ以上責任を果たせというのは無理があるが…)。せっかく高貴な責任を自覚しても、責任が無責任へと「堕落」する落とし穴は、こんなところにもポッカリと開いているのである。
 先に紹介したように、大澤は根源的な責任から逃れるすべを考えるより、それを積極的に担うことを考えるべきであると述べていた。しかし、そのような根源的な責任は、その重さゆえに、ある種の免責の可能性なくして担うことは不可能なのではないだろうか。私たちは、常に根源的な責任を目の前にして、それを担い続けることができるほど強い主体ではありえないし、そのような強い主体のみを想定して応答を続けることは、私たちの志向する責任の性質からしても妥当ではないはずである。だとすれば、大澤によって提示された責任のポジティブな可能性を徹底するためには、逆説的ではあるが、同時に無責任であるということの意味も徹底的に捉え直す必要があるように思われる。これまで述べてきた、避けるべき無責任へと責任が堕落するのを回避するために、「責任にとって意味のある無責任」のあり方を探求すること――それは、無責任な態度の(すなわち自らの行為の結果について応答することを考えない態度の)人物が結果的に責任を果たしうることがあるという現象のことを指しているのか、あるいは責任とは無縁であることを一時的に許容する責任のアジール(避難所)のようなものを確保することであるのかは、まだ分からないが――これこそが、普遍的な責任の倫理を構想する、「常に弱きものでもありえる」私たちの責任なのではないだろうか。


(注1)たとえば私を他の存在と区別する「名前」は、「もし大澤が社会学者ではなければ…」という仮定的な文章を可能にする。このことから、名前は単に「社会学者」や「男性」や「57歳」のような記述の束に換言しきれるものではなく、そのような記述を訂正する可能性を持っていることが分かる(もし、名前が記述の束に換言されるのであれば、「大澤が社会学者でなければ…」という仮定は、「社会学者が社会学者でなければ」という変な文章になり、仮定としての意味をなさなくなってしまう)。同様に、「私が私である」という<同一性>への深いコミットメントは、「常に他でもありうる」という訂正可能性を想定すること、つまり根源的偶有性の自覚を可能にする。

【参考文献】
Goodin, Robert. E., 1986, “Responsibilities,” The Philosophical Quarterly, 36(142): 50-6.

(評者:中森弘樹)

更新:2015/04/24