最近読んだ本(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』)

鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』新曜社、2004

https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b456075.html

 

京アカのFさんから突然「村田さんが読んだら面白がりそう」と薦められた本です。
鶴見俊輔に、上野千鶴子と小熊英二が3日間にわたって戦中から戦後のベ平連の活動までその記憶を聴くという企画。
薦められたときにちょうどまさに鶴見の本を読んでいたこともあって(前回記事で紹介した『限界芸術論』でした)OH!シンクロニシティ! と思って読み始めたらまんまと面白かったのでした。序盤の、宗教は信仰しないしマルクス主義も信仰しないけどタヌキは信仰する、みたいなところでもう、この本を薦められた理由が分かった気がしました。

鶴見俊輔が「こういう人が好きだ」という話が頻繁に出てくるんですが、本書で最も面白かったのは、鶴見の好むその人物類型でした。
たとえば戦争時の印象的な人物として挙げられている大佐。戦争中もインドネシア独立運動の指導者と接触があり、敗戦を知ってすぐに彼らのために動いたというその人は、戦争中も戦後も「大東亜解放」の大義を信じていたといいます。「なかなか位置付けがむずかしいですが、鶴見さんはそういうタイプの人がお好きですよね」(p.46)と小熊英二。
こうした人物像は「一刻者」とか「ヤクザの仁義」とかいう言葉でも語られるんですが、つまり「器用で世渡り上手の優等生」とは対極にあるタイプの純真な人。そして庶民から出てきた人、高い地位に上ろうと思えばできるのにそうしない人、を鶴見は愛していたようです。庶民を理想化しすぎ、みたいに上野千鶴子からツッコミを入れられてもいますが、「一番病」と呼ぶ自分の父親と逆のタイプなのが面白い。
その偏愛は思想の如何を問わず、たとえば三島や江藤淳も全共闘の青年たちも「自分の命を投げ出す不器用さ」という点でシンパシーの対象になっています。鶴見が高く評価する人は保守のほうへ行ってしまいがち、というのも面白い。小熊は、たしかに純真さを保とうとすると保守に行ってしまう必然性があるのかもしれない、と分析しています。左派は理念を掲げるがゆえに理念と現実の矛盾が目立ってしまうから。

鶴見自身は、自分は(一刻者でなく)悪人だという表現をしています。
「一刻者」が矛盾に耐えられない人だとすれば、悪人とは矛盾を呑み込めてしまう人なのでしょう。が、矛盾を呑み込みつつぎりぎりの一刻者であろうとする姿勢といいますか、そういうものが端々で語られてすごい。

たとえば、日本の戦争目的は信じていなかった、しかし「敗北を日本人のあいだにあって受けたい」と思って留学先から日本に帰ったのだ、という話。「勝つ側にいたくないと思ったんだ」「この戦争については、アメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられないと思ったんだ」(p.38)。それでいてやはり日本国家への同一化も拒む。
自分などは防衛機制まみれ人間なのでこういう状況になればたぶん、勝ち馬に乗るか逆に反動形成で「いや日本が正しかったんや」みたいに意固地になると思うんですが、そうした防衛機制をいかに廃して矛盾を処理するか、というひとつのお手本として読みました。

その意味で最も感銘を受けたのは、戦時中に「敵を殺せ」という命令が出ていたらどうしたか、という話。
「殺人を避ける」ことが反省の根本原理であるから命令を断って自殺していたと思いたいが恐怖に屈していたかもしれない。

だから戦後に私が考えたのは、『自分は人を殺した。人を殺すのは悪い』と、一息で言えるような人間になろう、ということだった。それが自分としての最高の理想で、それ以上の理想は、自分に対して立てないし、他人に対しても立てない。(略)和歌でいえば、上の句と下の句との間に隙間ができることを、『腰折れ』というんですが、『一息で言える』というのは、『腰折れ』にならないこと。(略)そこまでくるのに、戦後ずいぶん時間がかかりました。(p.53)

さらに、そんな矛盾の処理が最も難しい形で表れていたのは、「慰安所に愛はあったか」という話題です。
戦時中、鶴見は、ジャワ・シンガポールなどで海軍将校が来たときのための士官クラブ(実質は慰安所)の設営の仕事をしており、そこで働かせる女性の手配もしていたといいます(その費用は「機密費」から出ていたらしい)。日本に帰れない少年兵が慰安所の女性にわずかな時間慰められて感謝する。「私はそれを愛だと思う」とかつて述べて批判されたことについて、鶴見は改めてこのように答えています。

慰安所が日本国家による女性に対する凌辱の場だったということを、認めます。(略)ただ私は、愛というものを、特別に純粋培養されるものと思っていない。どういう状況でも仕方でも、愛は生まれると思う(p.72)

「そういう場でも、『愛』がありえたことを私も疑いません(略)けれでもやっぱり、それは権力関係のなかでの出来事です。女性たちがその状況を自分で選んだとは、とうてい言えない」(pp.73-74)「女の側からいうと、愛もあったかもしれないが、権力関係もあった」(p.75)と追及する上野に一定同意しつつ、

AかBか、とは私も思いませんよ。愛と被害が、両方とも成り立つと思います。だけど同時に、そこに愛があるという譲れない線が私にはある。(pp.75-6)

と鶴見。このくだりは私もスリリングな思いで読み、「愛」という言葉のセレクトはやはりロマンティックすぎる気がするし、そこには上野の指摘する女性への視線の冷たさがあるのかもしれない、しかし、「愛と被害は両方とも成り立つ」という言葉は、昨今話題にされ始めたグルーミング的性加害/被害の問題においても重要かもしれない、と思いました。
慰安所をめぐる論は最も上野の追及が厳しいくだりでもあり、最後は「上野さん、まあそのあたりでちょっと……」(小熊)という宥めで終わっています。この本、聴き手の二人が鶴見を敬慕しつつもまったく容赦しないのもすごい(こんな聴き方できない)。

【その他私が面白かったところ・気になったところ】

・食糧不足が起これば戦争が革命に転化する(共同炊事が起こって、金持ちである自分の実家は略奪されて、共産主義革命になる)と思っていたが予測は外れた。「どんなに空襲や食糧不足がひどくなっても、日本人は共同炊事ができなかったんだよ」

・八月十五日の放送を聴いたときのこと。天皇が自国の被害の話ばかりで他国への加害を語らないことに違和感を感じ、「非常に嫌な感じがしましたね。もう、天皇は嫌な奴だと思った。自分が長いあいだ残虐なことをやってきたんじゃないかって」(p.125)という言葉が痛快。にもかかわらず自分の命が助かったことについては「天皇のおかげだ」とも思ったという。

・60年安保の話。当時を知らないので、TVでデモの盛り上がりが映されていてみんながそれを見て参加しに行く、という状況がなかなか想像できず、その熱気を想像しながら読んだ。学生運動を支持する人の中には、戦中の少年兵や戦死した息子・兄弟の姿をだぶらせていた人もいただろう、というのは盲点だった。「戦争を知らない孫たち」世代としてはついつい「1945年で一区切り」みたいにイメージしてしまうが、1960年なんてまだ戦争の記憶が生々しい時期だったのだ。

・竹内好の葬式で増田渉が心筋梗塞で倒れたが丸山真男が硬直して動けず立ったままブツブツ言っていた、というエピソードがなぜか好き。丸山は「武田(泰淳)が竹内を呼んで、竹内が増田を呼んだ」と呟いていたらしい。「そういうときでも、言うことが思想史的なんだよ(笑)」(p.184)。そこへ助けにきたのが埴谷雄高。

・鶴見は丸山真男の「ファシズムは亜インテリがつくった、皆さんは東大に入ったから亜インテリではありません」という発言を批判して、小熊に訂正されているが(正確には丸山はそうは言っていない旨)、その後ももう一度同じことを言っている。再度訂正され「私は自分の偏見に沿って丸山真男をねじまげているな」(p.307)と反省してるのがなんか可笑しい。

・明治以来の朝鮮人差別についての議論、60年代以降は高度成長で「差別で自尊心を支える」必要はなくなった……?みたいな話の流れの中で、「金があれば差別がなくなるというわけでもないでしょうが。でも、また日本人は金がなくなってきたから、差別もひどくなるかもしれないね」(p.334)という言葉がある。本書は2004年刊。その後たしかに日本は貧しくなっている。今は実際どうなんだろう……?と考えてしまった。鶴見の言った通りかもしれない。しかし韓国・朝鮮(人)に対する視線だけでいえば少なくとも若い世代においては良い方向に変わっているかもしれない。だがそれは本書でも言われていたように、韓国が裕福になったからということかもしれないし……。

最近読んだ本(民藝運動とその周辺)

おひさしぶりです。村田です。最近読んだ本シリーズです。

去年は「民藝運動100年」だったそうです。
(だいぶ前の話ですが)秋に京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)で「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展を観ました。

「民藝」は「民衆的工藝」の略。
1925年、木喰上人が制作した木喰仏に惹かれ各地を調査していた柳宗悦が、河井寛次郎や濱田庄司らとともに調査の旅に出る中で思いついた語であるとのこと。彼らは弘法さんや天神さんなどの市で、無名の人の作る雑器「下手物(げてもの)」を蒐集し、その日常性に美を見出すも、「下手物」という語が世間で誤用され始めたので別な言葉を作る必要が生じ、「民藝」の語が生まれました。

民藝運動のことはずっと気になっていたのでしたが、ぼんや~りしか知らなかったので、これを機会にいろいろ読んでみました。

以下、民藝運動+その周辺について読んだものです。

 

【民藝運動】

●柳宗悦『工藝文化』岩波文庫、1985
長年積読していた本でしたがこの機会に読みました。昭和17年の著作。民藝の思想のアウトラインがよく分かりました。

・近代以降、美術は個人主義・自由主義のもとに、天才とされる個人の独創的表現が尊ばれるようになった。しかしそれは逆に自己に縛られることであり、真の自由ではない。

・美術は純粋性ゆえに尊ばれ、工藝は実用性ゆえに低くみられてきた。だが、美と生活を分離させることは健全ではない。

・民衆的工藝とは、貴族的工藝や個人的工藝と異なり、一般民衆のために作られ・実用を第一とし・多くの需要に応ずるため多量に作られ・低廉であり・職人の手によるものである。

・資本主義下での機械的生産は、質と美を無くし、人道的問題を起こし、地方性も奪ってしまった。

● 高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT、2020

5年前に人から薦めてもらった本ですが、これもやっと読みました!
基本的な歴史、民藝運動にかかわった人たちの人となりやエピソードも面白く、タイトルの通りわかりやすい入門書でした。著者は自らも工芸店を営んでいる人です。

特に、「民藝は反近代主義なのか?」という話が面白かったです。
民藝は、共同体や伝統への回帰を謳う反近代主義のように誤解されがちですが、そうではない、というのが本書の主張。新しいメディアである雑誌を使って思想を発信し産業界からの支援も受けるなど、近代的手法の上での運動だったことが示されています。「当時の若者に自分のこの運動に参加することでなにかを得られる、と思わせた」(p.123)という表現に、当時の雰囲気を想像しました。

また本書に通底する問いは、どこまでが「民藝」か? というものです。
手仕事全般を指す? 特定の作り手のものを指す?無名の作者による安くてシンプルなものを指す? ……本書いわく、「○○だから民藝」といえるものは、ない。
「民藝」がある程度の規模になったとき、それに権威が付与され、柳の言った「実用性」や「無銘性」が民藝の条件であるように思われてしまった。しかし、たとえば「実用性」を「実用的でなければならない」ととらえるのでなく「非鑑賞性=鑑賞を目的として作られたのではない」と読み替え、「無銘性」を「無銘の職人によるものでなければならない」ととらえるのでなく「非有銘性=自らの名をあげるために作ったものではない」と読み替えればよいのでは、というのが本書の提言です。曰く、「民藝」は連帯のための言葉であり、排除のための言葉ではなかった。

しかし、「○○だから民藝」と言える絶対的な条件はないが、「一個だけ例外がありまして。『柳が選んだから、民藝』、これだけは仕方がない(笑)」(p.154)というのは、アール・ブリュットにおけるデュビュッフェの存在と似ているな、と思いました。
私はアール・ブリュット/アウトサイダー・アートと呼ばれる領域に関心があり、これらの概念にまつわる難しさと「民藝」のそれってちょっと似てそう、ということも「民藝」が気になった理由の一つだったのでした。(後で触れます)

●柳宗悦『琉球の富』ちくま学芸文庫、2022

民藝展で知ったことのひとつは、民藝運動が朝鮮・アイヌ・琉球の工芸品から多くのインスピレーションを得ていたということでした。非西洋の表現を接取しながら発展してきた西洋の前衛芸術と同様、「周縁」(しかも自国が支配する地域)の風物に関心を示すとき、それが純粋な関心であってもどうしてもそこには搾取の意味合いが生じてきます。民藝運動の人々はどのような態度でそれらに接していたのかを知りたく思っていたところ、ちょうど、柳が琉球・沖縄について書いた文章を集めた本が出ていたので読んでみました。

沖縄の建築や工藝を紹介しながら繰り返されるのは、「沖縄にはわれわれが失った美があり、沖縄の人もそれを誇るべきである」という主張です。たとえば、日本の瓦屋根は「美しさの乏しい」「汚い」色で「面白味の全くないもの」になり果ててしまった、と嘆いた後、

ですが何たる幸いなことか、日本本土の凡ての瓦屋根が冷いものに化した今日、実に琉球ばかりは、残らず本葺の瓦屋根を現に用いているのです。(略)私達はもう見ることが出来ないと考えた本葺の家のみが並ぶ町を、思いがけなくも眼のあたりに眺めるのです。夢のようにさえ想えるのです。(p.19)

本土で失われた純粋なものが沖縄には残っている、という主張は、当時の国語学の主張とも併行していたのでしょうか。柳は言葉についても述べています。

或る人々は沖縄の言葉の如きは既に過去のものであって、新しい日本にとって無用であるかの如く述べているのです。併し和語を純粋なものに整理する為には、如何に沖縄の言葉が吾々に多くの暗示を与えるかを知らないのです。和語への自覚が澎湃として興って来た今日、其の存在は幾多の感謝を以て顧みられねばならないのです。なぜ沖縄の人達は自分達の言葉が最も古格ある大和言葉を保有していると云うことを誇りにしないのでしょうか。(p.22)

こうした見方(周縁には純粋な何かが残っているという憧憬)も、現代であれば「オリエンタリズム」として批判されるかもしれません。しかし、柳が、この時代に、国による方言政策(土地の言葉を禁じようとする)を公然と批判していたことはすごいことだと思います。
また、単に「本土で失われたものが残っている」という点のみでなく、「小さな島の小さな王国に、嘗てどんな力があったのか、実に不思議なほど、凡てのものを琉球の血と肉とにして了った」「琉球は決して模倣の国ではない」(p.113)と、独創性の点でも沖縄を評価しています。

【民藝の周辺】

以下は「民藝」をちょっと離れて、それと関連する(してそうな)本です。

● 軸原ヨウスケ・中村裕太『アウト・オブ・民藝』誠光社、2019

民藝は「周縁」との接触から始まったはずですが、本書は、その民藝のさらに周縁を検討していく本、といえましょうか。たとえばこけしとか「木っ端人形」とか。

現代のわれわれは「民芸品」といえば、観光地の土産物屋で売られているようなああいうもの(なんか和風の小物とか)をイメージしますが、そうしたものは『わかりやすい民藝』では、民藝運動とは関係のない「いかみん」(いかにも民藝)と呼ばれていました。しかし本書はいかみん中のいかみんであろう「味の民芸」(岡山のチェーンレストラン)の話から始まるのが面白い! 柳宗悦の「民藝」と一般化した「民芸」の乖離を示すと同時に、「これはこれですごいことです」とも言われています。

著者二人の対話の中でいろんな話が出てきて勉強になりましたが、特に、今和次郎の「平民工芸」の話が興味深かったです。
今和次郎といえば考現学の人ですが、柳宗悦や柳田国男が農村で廃れゆく工藝品を見ていたときに、今和次郎は前衛的な工藝運動を見ていた。そして、柳・柳田とも都市の工藝運動とも異なるもの(その中間のもの?)を発見した。
私も街角のへんな一角だとかいろんな貼り紙だとかを見つけながら歩くのが好きで、こういうものをどう位置づけたらええんやろか、と思っていたので、「ブリキのガス灯」発見の喜びを綴った文章など面白く、このへんの系譜(考現学から路上観察とかトマソンとか)を整理する一助になりそう、と思いました。

●鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999

そんな流れで、昔に読んだこの本も再読してみました。 「限界芸術」は鶴見が1950年代に唱えた概念ですが、純粋芸術(ファイン・アート)、大衆芸術(ポピュラー・アート)よりもさらに広大な領域で、芸術と生活との境界線にあたるものものを指します。この概念を知ったときは「なるほど! これは便利な概念(私の好きな諸々がこれで表せる!)」と思ったのでした。

鶴見は、柳田国男を「限界芸術の研究者」、宮沢賢治を「限界芸術の作家」、柳宗悦を「限界芸術の批評家」としています。限界芸術の諸様式はすべてが共通の地下道をもっていてそれは各地各時代の具体的な集団生活の様式である、とか、明治以後の工場式の生産様式が労働と愉しみを分離させた、という論も、柳の民藝論と通じています。が、一方で、限界芸術は更に民藝の枠をも超えるとされます。民藝は機械生産を軽視し手仕事のみを評価したが、「限界芸術は、柳の考えた民芸というわくをこえて、カメラとか、映画とか、あるいはまたアマチュア放送などを含むものとしてとらえられることがのぞましい」(p.45)。

街角のへんな一角や貼り紙を見るのが好き、と上に書きましたが、「限界芸術」というパースペクティブならそうしたものものも広くとらえられそうです。あるいは、われわれは自身が日々生産する、メモの切れ端の落書きとか、台所収納の工夫とか、即興の鼻歌とかも?

●播磨靖夫『人と人のあいだを生きる 最終講義 エイブル・アート・ムーブメント』(どく社、2025)

エイブル・アートの提唱者である著者がエイブル・アートについて語る本です。
エイブル・アートというのは和製英語で、障害者による芸術を扱うムーブメントを指します。90年代に企業の後援も受けながら盛り上がりました。
欧米発祥のアール・ブリュット/アウトサイダー・アートの類似概念のようでありつつ、そちらへの言及はほとんどなく、むしろ民藝運動・限界芸術・宮沢賢治などの話が多く出てきます。たとえば柳宗悦の「不完全の美」という概念。また、自己表現に呪縛されると逆に類型的な表現を再生産することになり個性が失われる、というのも『工藝文化』において柳が主張していることです。
欧米のアール・ブリュット/日本のアール・ブリュットの相違はしばしば論じられていますが、殊に日本のアール・ブリュットをめぐる言説は、一方で病跡学的な天才論に接続しつつ、もう一方で民衆の手仕事を広く評価しようとする民藝や限界芸術の理念に接続しているのかな、と考えました。

なんか話が広がってきたので今日はこのへんで。

 

京アカオンライン輪読会 次はデューイ『学校と社会』を読みます。3月7日(土)20:00~

正会員の舟木です。京アカオンライン輪読会では、3月7日(土)20:00~より
J.デューイ『学校と社会』を読みます。どの訳でも結構ですので、本は各自でご用意ください。
予習不要、最初だけお試し参加、飛び石参加も歓迎。どなたでも参加できます。
お問い合わせはkyotoacademeia@gmail.com まで!

京アカオンライン輪読会では、次に旧約聖書『サムエル記』を読みます

京アカオンライン輪読会では、1月24日(土)20:00より、旧約聖書の『サムエル記』を読みます。どの訳でも結構ですので、本は各自でご用意ください。どなたでも参加できます。
お問合せは kyotoacademeia@gmail.com まで。
また、以下をはじめ、ネット上にも色々訳はあるようなので、必ずしも本は買わなくても大丈夫です。

『古事記』オンライン輪読会は終了しました

『古事記』オンライン輪読会は1月10日で最後まで終わりました(最後の方は読みにくい人名ばかり列挙されていてまるで早口言葉のようでした)。ご参加下さった皆様、ありがとうございました。
京アカオンライン輪読会は、来週は1回休みです。次に輪読する本を近日中にお知らせします。

最近読んだ本(陰謀論)

おひさしぶりです。村田です。メリクリです。

「陰謀論」に関する本をいくつか読んだので紹介します。

● 烏谷昌幸『となりの陰謀論』(講談社現代新書、2025)

 

今年出た本でよかった本です。

様々な陰謀論が紹介されており、本書で初めて知るものもありました。たとえば「鳥は本物ではない運動」とか「ゴム人間陰謀論」とか。ネーミングを聞くだけでついつい「いやちょっとwww」と言いたくなってしまうのですが、本書はそうした説を揶揄するのが目的ではなく、陰謀論をグラデーションとして捉えようとする良書でした。

陰謀論には、多数の人に信じられているものと多数の人が荒唐無稽と感じるものがあります。前者はケネディ暗殺陰謀論など。後者は「は虫類人」「平面地球」など。著者もかつて、昨今は否定されているケネディ暗殺陰謀論を信じていたとして、陰謀論をスペクトラムで考えねばならないことに思い至ります。そして人々は皆、そのスペクトラムのどこかに境界線を引き、境界を超えた向こう側に対しては「烙印を押された知識」の態度を取っているのだとします。
これは自分の実感に照らしてもよく分かる考え方でした。たしかに、私から見て「陰謀論者」に見える人もより極端な陰謀論に関しては「自分はあんな陰謀論者じゃないですよ」的な言い方をすることがあるし、また私の世界観も、別の人から見れば陰謀論的に見えることでしょう(私はお金持ちとかはだいたい悪いことをしていると信じています)。
陰謀論を個人的誤謬でなく社会的問題としてとらえ、それは人々の「世界をシンプルに把握したい」欲望や剥奪感(大事なものが奪われる感覚、たとえば「外国人によって土地が奪われる」みたいなやつ)によって増殖するのだ、というのが本書の一貫した主張です。そのとき政治的立場は関係ありません(左右問わず陰謀論は広まりうる)。

一方、重要であるなと思ったのは以下の点。

「留意すべきは、陰謀論者が常に針小棒大な論理で物を考える事実があるにしても、現実政治において陰謀や謀略の果たす役割をあまり軽視し過ぎることも問題であるということです」(p.38)

実際に「陰謀論だと思っていたら本当に陰謀だった」パターンもあるわけで、だからこそ難しい。
では、何をもって「陰謀」と「陰謀論」を区別すればよいのか? といえば、「認識論的権威」に拠るしかないが、今日もはや「認識論的権威」が機能しない状況――大統領となった人までもが自らの影響力を高めるため陰謀論を利用する状況――があり、それこそが陰謀論の興隆を可能にしているのであると本書は言います。

もうひとつ重要なのは、
「陰謀論の内容が馬鹿げていることは、かえって恐ろしい効果を生み出す」(p.159)
というところ。
荒唐無稽な陰謀論に「いやちょっとwww」と言いたくなる、と冒頭で書きましたが、しかし実はそれらは荒唐無稽だからこそ、「踏み絵」として機能するということ。
著者はナチスの例を挙げていますが、たしかに「馬鹿げた言説にのれるかどうか」で忠誠を試す踏み絵は、身近でもいろんな集団で用いられますよね。わざとけったいな新人研修をさせる企業とか理不尽な部活のルールとか。

 

● 雨宮純『あなたを陰謀論者にする言葉』(フォレスト出版、2021)

こちらは陰謀論ウォッチャーによる、最新の陰謀論とその周辺の見取り図が描かれた本です(といっても4年前の本なのでここからまた状況は変わっているのでしょうが……)。
表紙には「ジョブズ」「量子力学」「ビートルズ」「ボードゲーム」といった、それ自体では陰謀論と関係ないワードも書かれており、陰謀論への入口が意外なところに潜んでいることが示されています。同時に、狭義の陰謀論だけでなく、カウンターカルチャーやニューエイジへ、ニューソートから自己啓発へ、というムーブメントの系譜が示され、現在「陰謀論」と呼ばれるものが複数の流れの融合の上にあることが分かります。
ひとつひとつの事項の解説は完結ですが、大きな見取り図として勉強になりました。

とりわけ私が関心があるのは、「スピリチュアルが右翼も左翼も包摂するのはなぜか」ということと「精神性を追求するはずの自己啓発が金儲けと結びついてしまうのはなぜか」ということだったんですが、本書がそれを整理する一助になりました。
マメ知識的にも初めて知ることが多く興味深かったです(特に、「『金持ち父さん貧乏父さん』ボドゲや『七つの習慣』ボドゲが存在して多くのボドゲ会で持ち込み禁止になっている」という話)。

余談ですが、ビジネス書(?)をメインで扱っている出版社のようで、この本に挟まっていたチラシに、本書で触れられている「引き寄せ」を唱える人が載っていたのがちょっと面白かったです。

● 斎藤貴男『カルト資本主義 増補版』(ちくま文庫、2019)

上の本で知って読んだルポ本です。2000年の文庫の増補版なのでベースになっている話は古いものが多いのですが、大変勉強になりました。これについては長くなりそうなので、また別に書きたいと思います。

『あなたを陰謀論者にする言葉』では、「大企業が悪いことをしている」という価値観が陰謀論につながる一面を持つことが指摘されていますが、本書では、大企業が超能力研究や永久機関研究に関わっていたり、大企業の経営者がニューエイジやニューサイエンスに接近していたり、という一面が取材されています。

上述の「精神性を追求するはずの自己啓発が金儲けと結びついてしまう」という現象や、上掲書で雨宮氏が昨今のヨガや瞑想ビジネスのターゲットとして挙げている(かつての反近代合理主義者とは違う)「既存の体制や保守的な価値観からは自由になろうとしますがテクノロジーは大好き」な人々、「資本主義や市場経済を否定することは」ない人々、という類型がずっと気になっていたのでしたが、まさにそうしたことについて書かれていました。
詳しくはまた。