最近読んだ本

高田裕美『奇跡のフォント――教科書が読めない子どもを知って UDデジタル教科書体開発物語』時事通信社、2023

フォントにも「ユニバーサル・デザイン」があることを知ったのは不勉強ながらわりと最近で、新紙幣(そういえばまだ見てない!)に使われているのがユニバーサル・フォントであると知ってからでした。
ユニバーサル・デザインのことって全然ちゃんと知らないな~、フォントや文字というものも好きなはずなのにそういえばよく知らないな~と思って読み始めました。

著者は書体デザイナーとしてフォント開発に打ち込んできた人。あるときロービジョンの子どもたちの問題を知り、さらにその後にディスレクシアの子どもたちの存在を知ったことから、専門家と連携しエビデンスを求めながら誰にとっても読みやすいフォントの開発を目指すことになります。
既存のフォントには、明朝体のはねやはらいの先端の尖りが視覚過敏の子には恐怖に感じられストレスになる等、さまざまな躓きがあることを知りました。

上記のような関心から読み始めたのでありましたが、人脈作りや周囲の人との折衝、業界や会社の事情による紆余曲折、など、お仕事本、ビジネス書としても読める本でした。
私はビジネス書ってほぼ読んだことがないのですが(自分が仕事ができないため仕事のできる人の自慢話を聞かされるようでつらい、というしょぼい理由による)、この本は「成功した人の自慢話」的な雰囲気はぜんぜんなく、子どもたちにUDフォントを届けるため、困難を乗り越えてゆく著者の一途さに最後は一緒に拍手したくなるみたいな本でした。著者は本当にフォントの仕事が好きなのやなあ、と分かる文章で、フォント作成の具体的な工程(気の遠くなるような作業の数々!)の一端が分かるのもよかったです!

ぜんぜん違うジャンルのお仕事本ですが、去年読んだ、岡崎雅子『寝ても覚めてもアザラシ救助隊』(実業之日本社、2022)を思い出しました。

著者の熱量と、それによって知らない仕事の世界を垣間見せてもらえた、という感想が同じだったので思い出したのでした。こちらは、子どもの頃からあざらしが好きであざらし関連の仕事を目指してきたという人による本で、終始著者のあざらし熱に圧倒されました。
秋草愛さん(『どうぶつのおっぱいずかん』の方!)によるイラストも可愛いです。

最近読んだ本

村田です。暑いですね。最近読んだ本シリーズです。

ミン・ジン・リー『PACHINKO』上・下、池田真紀子訳、文春文庫、2020

最初は装丁の美しさに惹かれわわー! と思っていたらば映画化もされて話題になった小説ですが、やっと最近、文庫版で読みました。

日本統治下の朝鮮半島の小さな島から始まり1980年代の日本、四世代に渡る長い物語。
自分と異なる人の人生をまるで体験したかに感じられること、書かれているのはひとり(か何人か)の物語のはずであるのにそれを通してその向こうに広がる数多の人の人生に触れたように感じられること、が小説を読むときの醍醐味だと思いますが、そういう意味で、「小説を読んだ!!」という満足感をたっぷり得られる小説でした。

日本へ渡ったソンジャが商売を始めるところはドキドキする冒険譚のようだし、ハンスは『風と共に去りぬ』とか『嵐が丘』とかに出てきそうだし(どっちも読んだの昔過ぎて話を覚えてませんが…)、全編面白いのですが、しかし「面白い」というときにひっかかるのは、多くの「日本人」読者がそうであろうように、登場人物たちの経験する苦難に自分の国の加害の歴史が関与しているから。そもそも、自死した在日コリアンの高校生が卒業アルバムに差別的な落書きをされていたという事件が作品の着想のひとつになっていることを作者は語っており、かつそうした状況は今でも無くなってはいない。上巻の帯には「いろいろな人に響く、普遍的な”救いの物語”」とあって「普遍性」が強調されていたり、文庫版解説でもわざわざ「日本人を糾弾する物語ではない」ことや善良な日本人も登場することが注記されていたり、いずれもたしかにその通りではあるのですが、こういった免罪(?)がないと、われわれ世代の日本人はこうした物語を読みづらいのかもしれないな、という懸念を感じました。

特に印象的だったところ:
・逮捕されていたイサクが帰ってくるところ
・「日本人に金を払わせるのがどれほどむずかしいか知っているかね」
・ソンジャの容貌の描写
・「両親がアメリカに渡ったときにはまだ、朝鮮半島は一つの国だったし」
・自死した高校生の遺族に春樹が会うところ
・母の、死の直前での、娘への突然の言葉

 

 

アジール論を読んでみたい(3)

引き続き『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談2 これからの「働く:を考える」で印象に残った箇所を紹介します。

まず、百木さんが紹介するアーレントの「労働=食うため」「仕事=自分を超えたパブリックな世界をつくるため」「活動=他者との対話・議論・コミュニケーションするため」の3分類のうち活動を重視する「活動的生(Vita Activa)」の考え方が紹介されます。
現代は「労働」が重視され、生産性のない人はいらないとされます。社会のあらゆる領域を経済論理、市場論理で埋め尽くそうとする新自由主義は、この感覚をどんどん推し進めます。

日本で新自由主義を乗り越えるためのヒントとして対談で語られるのが、網野善彦の描き出した「公界(くがい)」の考え方。公界は、国家や社会の主従関係などの枠組みからあふれた「無縁」の場で、神社・仏閣などの宗教施設の境内で、漂泊者、商人、行者、芸能人、遊女なども集まり、そこが「市場」になってさまざまな交換が行われていた、とされています。こういう市場だと、怪しげ(?)な人も排除されない感じ、生きていける感じがしていいですね。

現代では、新自由主義、資本主義の「外部」を、アーレント的、マルクス的、網野的、寅さん的、青木さん的にいろいろな形でつくっていくという点に、アジールの可能性が語られます。
「一つの論理だけで社会を埋め尽くされてしまうと、あっという間に全体主義になってしまう。気をつけなくてはいけないと思います」という対談の最後の百木さんの言葉は、心に留めて、活動していきたいな、とあらためて思いました。 (紹介:古藤隆浩)

 

アジール論を読んでみたい(2)

今回は『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談6 ぼくらのVita Activa-マルクス・アーレント・網野善彦」を紹介します。

アジールとは、本書では「時の権力が通用しない場」、数値化やそれによる序列が優先される現代社会(此岸)において「そうでない原理が働く場」(彼岸)です。そして、彼岸と此岸、生産と消費、生と死、男と女、昼と夜、右と左、敵と味方、文化と自然、秩序と混沌のような「2つの原理」が補完しあっていること、その2つの間を行き来することの大切さ、寅さんがその代表例であることが本書の冒頭で述べられます。

京都アカデメイアの監査役・百木漠さんと青木真兵さんの対談6では「いかに楽しく日々を生活できるか」を考えるときに、網野善彦の「アジール」、マルクス的な「脱成長・脱資本主義」、貨幣と商品交換に取り込まれない「コモン(共有地)」がヒントになることが語られます。

百木さんが提唱する「欲望の方向性や質を、物質的・消費的なものから文化的・学問的なほうに転換していく」という方向、人間がどうしても「過剰なもの」を作り出してしまう(バタイユ)とき、それを戦争や宗教や貨幣・商品に向かわせず。文化的・学問的豊かさを含めた別の方向に向けることは、とても大切な気がします。青木真兵さんが東吉野村で大学中心とは違う仕方で人文知を開こうとしている私設図書館ルチャ・リブロをはじめ、この京都アカデメイアの活動もその一つでしょう。

聖と俗、健常と障がい、中心と周縁、都市と農村など2つの原理を行ったり来たりする人をもっと増やすこと、2つが分かれていながらもたまに交じりあったり、入れ替わったりを増やすことも提唱されています。この世のゲームの外に出て別のゲームを始めることは容易ではありませんが、この対談では「山」というコモン、自然のなかで人間が住める場所を見つけて住まわせてもらっていることに着目します。不便な山の中ならば欲望の暴走を防げそうです。余地・余白がある場所を増やせば、2つの原理を行き来できる人や時間を増やせそうです。

アジールも2つの原理の行き来も、寅さんのように生き方で示していくしかないのかもしれません。同じく百木さんと青木さんの本書の対談2では、寅さんのことがより詳しく述べられ、網野善彦の扱った中世では「無縁」が社会のしがらみから逃れる点で価値をもっていることも述べられます。無縁と有縁も行ったり来たりできると楽に生きられそうですね。   (紹介:古藤隆浩)

【京都アカデメイアの過去ページにも、アジールの紹介があります】
アジールの現在と未来

『渋江抽斎』輪読会も残すところあと2回

森鷗外著『渋江抽斎』(岩波文庫、青空文庫)の輪読会も先週土曜日で9回目、119話中98話まで読み終え、残すところあと2回。意外に(?)楽しめています。
鷗外が『武鑑』という古書を収集していると、鷗外も気づいた『武鑑』の誤りを指摘していた渋江抽斎を知ります(その4)。医者で官吏で哲学文芸にも秀でているという自分と同じ道を歩いた人だと知り(その6)、抽斎について調べたこと子孫から聞き書きしたことを書いていくスタイル(史伝もの)です。ただ、抽斎のまわりにいる人の記述がとても多く、半分もいかない53話で抽斎は没します。
それ以降は、残された妻・賢母で泥棒に裸体で熱湯をかけた武勇伝(その61)をもつ五百(いお)、先妻との間の子でやんちゃで座敷牢(その46)に閉じ込められそうになった青年時代を送る優善(やすよし)=優(ゆたか)、美形ではないが美声で長唄の師匠になる陸(くが)、水木(みき)などの娘、専六=侑(おさむ)、英語が堪能で高等師範学校の学業がつまらず(その97)教師を辞めて慶應義塾に編入する(その100)成善(しげよし)=保(たもつ)をはじめとする周辺人物の記述にますますページが割かれます。家族に限らず、津軽藩関連、医師仲間、学者仲間、芝居系、近所の人などのエピソード満載。
多くの登場人物を楽しめるうえに、人物紹介ではその人の別名をたくさんあげ、転居も多く、一人の人のさまざまな顔も楽しめます。ちなみに、私は森枳園という人のエピソードに惹かれました(その28・95)。
参加者の谷村さんが整理してくれた関係図は参考になります。

森鷗外による渋江家のまとめは東大デジタルアーカイブにあり。鷗外以外に今まで登場人物全員を一覧図にした人はいるのだろうか。きっとどこかにそんな余裕のある人がいるんだろうな、そういう遊び心のある人になりたいのような気持ちになれる幕末明治の多彩な人々の生き方を味わえる輪読会です。
ご関心のある方は、京都アカデメイア kyotoacademeia@gmail.com まで。(紹介:古藤隆浩)

 

 

最近読んだ本

こんにちは。村田です。すっかり暑くなりました。最近読んだ本紹介シリーズです。

・繁田信一『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー、2018)
・藤野裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書、2020)

暴力つながり(?)で選んでしまい禍々しい感じになってしまいました。しかし、内容はいずれも真面目な良書です。

『殴り合う貴族たち』は、2005年柏書房から、2008年角川ソフィア文庫から出たものの増補改訂版。今年の大河ドラマとの関連で話題になっており、タイトルが面白そうだったので読みました。
平安時代の貴族といえば雅やかでお上品なイメージであるが、それに反して実際は盛大に乱闘したり下々の者に暴力をふるったりそれをもみ消したりしていたのだ、という本でした。『小右記』などに基づくエピソードが事件録のような形で収録されています。仕事で平安期の古典に触れることが多いのですが、優美な文化を担っていた人々が一方でこんなことしてはったんやなあ、と勉強になりました。

種々の暴力記録の中、広義の暴力というべきか、法成寺や道長の邸宅を建造するため平安京(の民たちの生活)が破壊されたという話が特に印象に残りました。現代の諸々と重なったからかもしれません。

『民衆暴力』は、明治~大正期の4つの出来事(新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺)を取り上げ、民衆による暴力の諸相を考察してゆく本。2021年の新書大賞にも選ばれたそうで、大変良い本でした。

現代、暴動って言葉は「もう暴動でも起こしたいわ(※起こさない)」的な決まり文句専用のもののようになってしまっていて、すっかり暴力は権力に集約化されている……ことにすら気づかないほど。そんな中、かつての民衆による暴動や騒擾は、野蛮なものとしてイメージされる一方権力への抵抗として称揚されたり憧憬されたりもします。そういや私も子供の頃に社会で「一揆」とか「米騒動」とかを習ったときは「かっこええ~!!」とテンション上がった記憶があります。しかし本書は、単純に野蛮なものでもなければ単純に称揚されるべきものでもない民衆による暴力の諸相を描いてゆきます。

たとえば、第1章で取り上げられる「新政反対一揆」は、上から押し付けられる新たな規範への反発であったという点で権力への抵抗といえます。実際ひと頃の研究では、民主主義的で進歩的な闘争として評価されていたそうです。しかしその過程では「異人」をめぐるオカルト的な流言があり、さらに、支配者に対する暴力だけでなく、「賤民廃止令」によって解放されようとしていた被差別部落の人びとへの酷い暴力が起こりました。この理由を本書は、もともとの差別意識に加え「異人」への不安が他者の排除へ転化したのでないかとしています。何かが変わりゆく中で誤ってマイノリティが権威と同一視され攻撃の対象となるのは、現代も同じかもしれません。

関東大震災での朝鮮人虐殺を取り上げた第4章・第5章は、弱者への一方的な暴力であるという点で第3章までのテーマとは一見異なるように見えますが、本書で最も読まれるべき章と思います。それに、マイノリティを攻撃者と見なしてしまうメカニズムは第1章に書かれたそれと相似であるし、虐殺の主体となったところの自警団の結成は第3章で触れられています。

この出来事は、災害下でパニックに陥った民衆の流言による、とされがちですが、実際には軍隊や政府の主導がありそれが暴力のハードルを下げたこと、その後に証拠隠滅の指示があり民衆による犯行だけが裁かれたことがまず書かれています。そのうえで、日本の民衆がいかなる論理で虐殺に至ったのかを、実際に記録された証言などから拾ってゆきます。
本書はそれを心理学的に分析する本ではないですが、そこに見られる「投影同一化」のような心理(攻撃している側なのに攻撃を受けている側であるように感じる)や報復を恐れるゆえにより殺害を進めるしかなくなってしまうというメカニズムは、現代でも他人事では無いものだと思いました。

さらに、このできごとの中で、朝鮮人を保護した人びと、知り合いは保護したが見ず知らずの相手の虐殺には加わった人びと……とさまざまな行動を取った者がいたことが記されます。朝鮮人への暴力が警察署への暴動に転じた事件なども。「権力に抵抗する民衆」か「被差別者を迫害する民衆」か……「こうした事実は、そのように民衆像を二分させて歴史を捉えることには問題があるのだと教えてくれる」(p.200)。

また、暴力の被害者を完全に無力な客体と見なすのでなく、その抵抗の痕を探ろうとする姿勢も本書の特徴でした。
コロナ禍の中の執筆の大変さや迷いが伝わるあとがきも良かったです。

 

 

宮本輝『灯台からの響き』のなかの森鷗外『渋江抽斎』

6月1日(土)20時からのオンライン輪読会で読み始める森鷗外『渋江抽斎』が、
宮本輝『灯台からの響き』(集英社)という小説に出てくると知り読んでみました。

主人公(康平)が友人から薦められて読み始めるくだりでは、
「実在した渋江抽斎という江戸時代の学者の周りにいた人々の履歴や、どうでもよさそうなエピソードや、その係累のそれぞれの個性や特技などが事細かく描かれていて」
「退屈で、……何回その文庫本を放り出そうとしたかしれない」
「だが、最後の数ページにさしかかったときき、康平は、ひとりの人間が生まれてから死ぬまでには、これほど多くの他者の無償の愛情や労苦や運命までもが関わっているのかと……」
という紹介でした。

その他の箇所でも
「自分が知り得たものをありのままに書いたればこそ、優れて史伝文学となった」
「『渋江抽斎』のように調べに調べて書いたら……」
「『渋江抽斎』は、夥しい死というものの羅列と言ってもいいくらいだ。……しかし、死んでも消えないものを残していく」
などの記述があります。

渋江抽斎やそのまわりの人々への森鷗外の関心を、輪読会で一緒に読む人たちや自分の関心と重ね合わせれば読み進められる!?
予習不要な輪読会ですので、『渋江抽斎』じたいはその場で味わおうと思います。
お気軽参加者募集中。ご関心のある方は京都アカデメイア kyotoacademeia@gmail.com まで。

6月1日(土)20:00より、森鴎外『渋江抽斎』の輪読会を始めます

京アカオンライン輪読会では6月1日(土)20:00より、森鴎外の史伝『渋江抽斎』の輪読会を始めます。どなたでも参加できます(無料)。
予備知識も予習も不要、一回だけの参加も歓迎です。本は各自でご用意下さい。お問い合せはkyotoacademeia@gmail.comまで!

森鴎外の史伝『渋江抽斎』

 

『昭和史 新版』読み終わりました

京アカオンライン輪読会は昨年12月からの 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史 新版』(岩波新書、1959年)が5月18日で読み終わりました。「新しい戦前」というコトバも使われ出しているこの時期に京アカのメンバーと読め、考えを深める楽しい時間を過ごせました。個人的にいまとくに印象に残っている内容は下記の6点です。

・明治維新以来の「帝国主義」~国外の植民地・領土を増やしていくことが豊かになる道という価値観(満州の夢!)が、農村の凶作、世界大恐慌などでリアルに感じられていたのか。

・自由民権運動の流れを汲んだ大正デモクラシーの時期はいまと遜色ない進歩的・民主的思想や軍縮思想も生まれていたが、政府側がコソコソと少しずつ進めてきた団体活動の取締や新聞雑誌や個人の思想への統制のために、開戦、国家総動員体制に公然と異を唱えることができなくなった。

・張作霖爆殺、盧溝橋事件、五一五事件など軍部の「やったもの勝ち」を許してしまう、だらしない政党政府・藩閥政府内部のパワーバランス。二二六事件で鮮明になる陸軍の皇道派と統制派の争い。ノモンハン事件、ミッドウエー海戦、ガダルカナル敗退などの敗戦が現場からきちんと伝えられず失敗をかくす風土など、組織のあり方。

・陸軍内部の教育、北一輝などの右翼思想、吉野作造の民本主義、大杉栄のアナーキズム、京都学派の哲学など当時の思想を原典で読んでみたくなった。

・戦争に負けてアメリカの占領を歓迎したのもつかの間、中華人民共和国建国、朝鮮戦争の時代から、アメリカの要求をどうかわすか呑むかの国際政治のかけひきをしていたが、近年どういう外交政策を日本政府がとろうとしているのだろうか。

・総じて、現代の政府や組織のあり方は、当時を思い起こさせるものが多い。

「新しい戦前」というコトバが予言の自己実現機能を果たさないように、失敗を知り、失敗から学ぶことが必要ではないかとあらためて感じさせられました。昭和史に思いをめぐらす時間をいただき、ありがとうございました。(文責・古藤隆浩)

アジール論を読んでみたい(1)

皆さんは「アジール」にどんなイメージをお持ちですか? 時の権力が及ばない場所? 世間の価値観とは違う場所? 網野善彦の中世史の縁切寺、楽市楽座、芸能民、無縁・非定住のイメージ?

京アカ以外に居場所妄想会という活動に参加している私は、最近、自分でアジールをつくりたいのかな、と思い始めました。そこで検索をかけると京アカ・舟木徹男理事長のアジールに関する著作も出てきました。まず、手始めに、

舟木徹男著 「第7章 精神の病とその治療の場をめぐる逆説――アジール/アサイラム論の観点から」(松本卓也・武本一美編著『メンタルヘルスの理解のために』ミネルヴァ書房、2020 所収)

を読んでみました。感想メモを記しておきます。

舟木氏は本稿でアジールの主な機能として「庇護」(不可侵の避難所)と「治癒」(聖なるものにふれて癒される場)をあげます。そして、狂気の庇護と治癒の場としての「精神科病院」が「アジール」の英訳語の「アサイラム」とも名付けられていることに着目し、そこに2つの逆説が隠されていることを示唆します。

1)自由で非権力的で平和な「アジール」が管理的・抑圧的な「アサイラム」に転化すること。

2)管理的な「アサイラム」(病院・監獄)が病者にとって現実社会からの庇護をもたらす「アジール」に転化すること。

この逆説を私たちはどう考えればよいのでしょうか。アジールづくりの実践のなかで、今後追求してみたい課題です。

本章には他に「刑法39条・医療観察法」「社会的入院と世間」の課題が、本書他章には「岩倉の精神医療」「スピリチュアルペイン」など他書ではあまりお目にかかれない視点が書かれていて、精神障がいにも関心のある私にはおもしろく読めました。

本章を導入にして、オルトヴィン・ヘンスラー 著 舟木徹男 訳・解題『アジール―その歴史と諸形態』  (国書刊行会)を読み解き、現代のアジールの実現の可能性/不可能性を考えてみたい、と思っています。(文責・古藤隆浩)