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次の京アカ輪読会はダグラス・ラミス『戦争するってどんなこと?』(平凡社)です。

京アカ輪読会では8月24日(土)20:00より、ダグラス・ラミス『戦争するってどんなこと?』(平凡社2014)を読み始めます。元沖縄海兵隊員の政治学者が戦争について易しく説き明かします。予習も予備知識も不要、お試し参加も歓迎。どなたでも無料で参加できます。本は各自でご用意下さい。お問合わせは kyotoacademeia@gmail.com まで!

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最近読んだ本

高田裕美『奇跡のフォント――教科書が読めない子どもを知って UDデジタル教科書体開発物語』時事通信社、2023

フォントにも「ユニバーサル・デザイン」があることを知ったのは不勉強ながらわりと最近で、新紙幣(そういえばまだ見てない!)に使われているのがユニバーサル・フォントであると知ってからでした。
ユニバーサル・デザインのことって全然ちゃんと知らないな~、フォントや文字というものも好きなはずなのにそういえばよく知らないな~と思って読み始めました。

著者は書体デザイナーとしてフォント開発に打ち込んできた人。あるときロービジョンの子どもたちの問題を知り、さらにその後にディスレクシアの子どもたちの存在を知ったことから、専門家と連携しエビデンスを求めながら誰にとっても読みやすいフォントの開発を目指すことになります。
既存のフォントには、明朝体のはねやはらいの先端の尖りが視覚過敏の子には恐怖に感じられストレスになる等、さまざまな躓きがあることを知りました。

上記のような関心から読み始めたのでありましたが、人脈作りや周囲の人との折衝、業界や会社の事情による紆余曲折、など、お仕事本、ビジネス書としても読める本でした。
私はビジネス書ってほぼ読んだことがないのですが(自分が仕事ができないため仕事のできる人の自慢話を聞かされるようでつらい、というしょぼい理由による)、この本は「成功した人の自慢話」的な雰囲気はぜんぜんなく、子どもたちにUDフォントを届けるため、困難を乗り越えてゆく著者の一途さに最後は一緒に拍手したくなるみたいな本でした。著者は本当にフォントの仕事が好きなのやなあ、と分かる文章で、フォント作成の具体的な工程(気の遠くなるような作業の数々!)の一端が分かるのもよかったです!

ぜんぜん違うジャンルのお仕事本ですが、去年読んだ、岡崎雅子『寝ても覚めてもアザラシ救助隊』(実業之日本社、2022)を思い出しました。

著者の熱量と、それによって知らない仕事の世界を垣間見せてもらえた、という感想が同じだったので思い出したのでした。こちらは、子どもの頃からあざらしが好きであざらし関連の仕事を目指してきたという人による本で、終始著者のあざらし熱に圧倒されました。
秋草愛さん(『どうぶつのおっぱいずかん』の方!)によるイラストも可愛いです。

最近読んだ本

村田です。暑いですね。最近読んだ本シリーズです。

ミン・ジン・リー『PACHINKO』上・下、池田真紀子訳、文春文庫、2020

最初は装丁の美しさに惹かれわわー! と思っていたらば映画化もされて話題になった小説ですが、やっと最近、文庫版で読みました。

日本統治下の朝鮮半島の小さな島から始まり1980年代の日本、四世代に渡る長い物語。
自分と異なる人の人生をまるで体験したかに感じられること、書かれているのはひとり(か何人か)の物語のはずであるのにそれを通してその向こうに広がる数多の人の人生に触れたように感じられること、が小説を読むときの醍醐味だと思いますが、そういう意味で、「小説を読んだ!!」という満足感をたっぷり得られる小説でした。

日本へ渡ったソンジャが商売を始めるところはドキドキする冒険譚のようだし、ハンスは『風と共に去りぬ』とか『嵐が丘』とかに出てきそうだし(どっちも読んだの昔過ぎて話を覚えてませんが…)、全編面白いのですが、しかし「面白い」というときにひっかかるのは、多くの「日本人」読者がそうであろうように、登場人物たちの経験する苦難に自分の国の加害の歴史が関与しているから。そもそも、自死した在日コリアンの高校生が卒業アルバムに差別的な落書きをされていたという事件が作品の着想のひとつになっていることを作者は語っており、かつそうした状況は今でも無くなってはいない。上巻の帯には「いろいろな人に響く、普遍的な”救いの物語”」とあって「普遍性」が強調されていたり、文庫版解説でもわざわざ「日本人を糾弾する物語ではない」ことや善良な日本人も登場することが注記されていたり、いずれもたしかにその通りではあるのですが、こういった免罪(?)がないと、われわれ世代の日本人はこうした物語を読みづらいのかもしれないな、という懸念を感じました。

特に印象的だったところ:
・逮捕されていたイサクが帰ってくるところ
・「日本人に金を払わせるのがどれほどむずかしいか知っているかね」
・ソンジャの容貌の描写
・「両親がアメリカに渡ったときにはまだ、朝鮮半島は一つの国だったし」
・自死した高校生の遺族に春樹が会うところ
・母の、死の直前での、娘への突然の言葉

 

 

アジール論を読んでみたい(3)

引き続き『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談2 これからの「働く:を考える」で印象に残った箇所を紹介します。

まず、百木さんが紹介するアーレントの「労働=食うため」「仕事=自分を超えたパブリックな世界をつくるため」「活動=他者との対話・議論・コミュニケーションするため」の3分類のうち活動を重視する「活動的生(Vita Activa)」の考え方が紹介されます。
現代は「労働」が重視され、生産性のない人はいらないとされます。社会のあらゆる領域を経済論理、市場論理で埋め尽くそうとする新自由主義は、この感覚をどんどん推し進めます。

日本で新自由主義を乗り越えるためのヒントとして対談で語られるのが、網野善彦の描き出した「公界(くがい)」の考え方。公界は、国家や社会の主従関係などの枠組みからあふれた「無縁」の場で、神社・仏閣などの宗教施設の境内で、漂泊者、商人、行者、芸能人、遊女なども集まり、そこが「市場」になってさまざまな交換が行われていた、とされています。こういう市場だと、怪しげ(?)な人も排除されない感じ、生きていける感じがしていいですね。

現代では、新自由主義、資本主義の「外部」を、アーレント的、マルクス的、網野的、寅さん的、青木さん的にいろいろな形でつくっていくという点に、アジールの可能性が語られます。
「一つの論理だけで社会を埋め尽くされてしまうと、あっという間に全体主義になってしまう。気をつけなくてはいけないと思います」という対談の最後の百木さんの言葉は、心に留めて、活動していきたいな、とあらためて思いました。 (紹介:古藤隆浩)

 

アジール論を読んでみたい(2)

今回は『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談6 ぼくらのVita Activa-マルクス・アーレント・網野善彦」を紹介します。

アジールとは、本書では「時の権力が通用しない場」、数値化やそれによる序列が優先される現代社会(此岸)において「そうでない原理が働く場」(彼岸)です。そして、彼岸と此岸、生産と消費、生と死、男と女、昼と夜、右と左、敵と味方、文化と自然、秩序と混沌のような「2つの原理」が補完しあっていること、その2つの間を行き来することの大切さ、寅さんがその代表例であることが本書の冒頭で述べられます。

京都アカデメイアの監査役・百木漠さんと青木真兵さんの対談6では「いかに楽しく日々を生活できるか」を考えるときに、網野善彦の「アジール」、マルクス的な「脱成長・脱資本主義」、貨幣と商品交換に取り込まれない「コモン(共有地)」がヒントになることが語られます。

百木さんが提唱する「欲望の方向性や質を、物質的・消費的なものから文化的・学問的なほうに転換していく」という方向、人間がどうしても「過剰なもの」を作り出してしまう(バタイユ)とき、それを戦争や宗教や貨幣・商品に向かわせず。文化的・学問的豊かさを含めた別の方向に向けることは、とても大切な気がします。青木真兵さんが東吉野村で大学中心とは違う仕方で人文知を開こうとしている私設図書館ルチャ・リブロをはじめ、この京都アカデメイアの活動もその一つでしょう。

聖と俗、健常と障がい、中心と周縁、都市と農村など2つの原理を行ったり来たりする人をもっと増やすこと、2つが分かれていながらもたまに交じりあったり、入れ替わったりを増やすことも提唱されています。この世のゲームの外に出て別のゲームを始めることは容易ではありませんが、この対談では「山」というコモン、自然のなかで人間が住める場所を見つけて住まわせてもらっていることに着目します。不便な山の中ならば欲望の暴走を防げそうです。余地・余白がある場所を増やせば、2つの原理を行き来できる人や時間を増やせそうです。

アジールも2つの原理の行き来も、寅さんのように生き方で示していくしかないのかもしれません。同じく百木さんと青木さんの本書の対談2では、寅さんのことがより詳しく述べられ、網野善彦の扱った中世では「無縁」が社会のしがらみから逃れる点で価値をもっていることも述べられます。無縁と有縁も行ったり来たりできると楽に生きられそうですね。   (紹介:古藤隆浩)

【京都アカデメイアの過去ページにも、アジールの紹介があります】
アジールの現在と未来