浅野です。
10月16日(日)に同志社大学で開催された岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」に行ってきました。いい会だったのでここにまとめておきます。私の疑問や感想は赤字で書きます。Ustreamの動画も残っているので、お時間がある方はそちらもご参照ください。
岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 – 岡田斗司夫公式ブログ
話(わ)BOTぶろぐ – 岡田斗司夫講演 「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 (12分割)
全体が三部構成になっています。第一部は仕事の話(約1時間)、第二部はお金の話(約30分)、第三部は勇者の話(約30分)です。
第一部の仕事の話を一言で表現するなら「就職はオワコン(終わったコンテンツ)である」です。その理由は、大学を卒業しても就職できない人が4割いて、運よく就職できたとしても日本の会社の平均寿命は7年しかないということです。これはかつてない状況で、今の若者の親世代は頑張れば就職できると思っている人が多いけれども、4割の人が就職できないというのはシステムの問題だと言えます。就職をめぐる状況がこのように変化したのはインターネットなどのおかげで私たちの生活が便利になったことにあります。例えばAmazonは私たちの生活を少し便利にして多数の書店を潰しました。
それなら就職できる勝ち組を目指せというのは狭い発想です。仮に正社員として就職できたとしても長時間労働や過重な仕事が待っています。そうした二者択一から抜け出すために恋愛という補助線が引かれます。
今回の話としてこういう展開なのは理解できます。しかし地域型ユニオンなどに入って労働条件を身の回りから少しずつよくするという選択肢も考慮に入れておきたいです。正社員は簡単に解雇できませんし、労働時間や有給休暇を活用することができます。
ネットワークの発展が変化をもたらしたという点では恋愛をめぐる状況も同じです。岡田斗司夫さんが引き合いに出したデータによると携帯電話の普及率と既婚女性の浮気率とは正比例しているそうです。生涯未婚率が4割を超えつつあるというのも就職の状況と似ています。
就職がオワコンであるならどうすればよいのでしょうか。そう、今流行りの3万円ビジネスです。3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をするというのが岡田斗司夫さんの処方箋です。
実は私自身かなりこれに近い生活をしています。英語、数学、小論文、心理学などをあちこちで教えることでいくらかの収入を得て、無償で労働相談を受けたりWebプログラミングの勉強をしており、京都アカデメイアの活動では交通費など持ち出しです。しかし50個というのは体力的にも時間的にも無理です。
第二部はお金の話です。こちらも結論は「お金はオワコンである」になるのですが、お金とはそもそもどのようなものかという説明がきわめてオーソドックスな形でなされました。お金は特定の目的を達成するためには回り道だけれどもわずらわしさから逃れることができるという説明です。例えばiPodが欲しければ新品を定価で買うほかに、中古で買う、友人から貸してもらう、友人から譲ってもらうなどの方法があります。友人から借りたりもらったりしたほうが安くつくし、使い方を教えてもらえるし、そのiPodをめぐる物語にも参与できるという利点があります。
就職をしなければならないという主な理由には食うためには金を稼がなければならないというものがあります。しかしこのように他の方法を探ればそれほどお金は必要ありません。「食うため」と言っても文字通り食うために使うお金や生活必需品に使うはそれほど多くはないというのが岡田斗司夫さんの主張です。
確かに文字通り食うために使うお金はそれほど多くないかもしれません。しかし私の場合だと自炊をする時間があまりないので月3万円はかかりますし、家賃や携帯電話代(仕事や日常生活を営む上での必需品)などを合わせるとそれなりの金額になります。税金や健康保険、国民年金を入れても年間300万円くらいあればとりあえず十分だとは言えます。この金額を多いと見るか少ないと見るかは人それぞれでしょう。
私たちはいかに無駄なものを買っているか、モノに執着しているかということを示すためにゴミ屋敷や大量販売のスーパーが引き合いに出されます。ゴミ屋敷はモノに執着するあまり周囲の立地条件まで下げてしまっていると言えます。大量販売のスーパーで玉子を50個安く買っても使い切れずに駄目にしてしまうことも多いでしょう。
ここはシンプルにそのモノをうまく活用できているかという「もったいない」の精神で考えてもよいかなと思います。
大正時代くらいには一人が働きに出れば15人くらいを養えたのに、最近では一人が一人を養うのがやっとの状態になってしまっているのが問題だということになります。お金は他人のために使えというのが岡田斗司夫さんの持論です。
そのことを示す具体例を岡田斗司夫さんがやっているクラウドシティというソーシャルネットワークから二つ出されました。一つはメンヘラーの女の子に対して自分ができるのはお金を出すことだけなのかと書き込んだ男性の例です。岡田斗司夫さんの答えは「そうだ、そういうときにお金を使え」というものです。もう一つはニートの弟といっしょに住んでいるけれども生活費は2万円くらいしか増えていないし家事をしてくれるからまったく問題ないという「愛されニート」という言葉を生み出した女性の例です。
どちらの例もリアリティがあります。ところがもし設定を少し変えてみるとどうでしょうか。メンヘラーのおじさんにその男性はお金を出そうとするでしょうか。街にいるその辺のニートが家事をするといってその女性は弟と同じように住まわすでしょうか。若い女性だ、血縁者だという要素が決定的な気がします。また、仮にそうしたお金の出し方が可能だとしても、お金を出してもらっている人が虐待されたり奴隷のように扱われたりする危険性があります。大正時代の家の例だと働きに出ている家長が横暴な振る舞いをするということもよくあったと想像します。
岡田斗司夫さんは政府の役割を過小評価していると私は思います。先のメンヘラーの女の子の例だと医療をとりあえず無料で受けられるところを紹介したり、生活保護の申請に同行することも周囲の人たちにできることではないでしょうか。
このあたりは第三部の勇者の話と重なります。勇者とは方々で困っている人たちを助ける人のことです。これからの職業で重要なのは技術や能力(Contents)と共同体(Community)と人柄(Character)の3Cです。その中でも人柄が大切だというのが最後の結論です。具体的には毎日5分を他の人のブログをほめたりtwitterでRTをしたりすることに費やすことから始められます。
話としてはだいたいわかるのですが、これだと養われるためにも職を得るためにもコミュニケーション力が大いに求められるなぁと少し憂鬱になります。
概要は以上です。ところどころ疑問はありつつも、大筋ではその通りだなと思いながら話を聞いていました。合理的にリスクヘッジを考えている反面で人に優しくしようという愛も感じたのがおもしろかったです。
最後に興味深い話をしてくださった岡田斗司夫さんと、『私たちは生涯、働かないかもしれない』という講演会を主催した器の大きい同志社大学学生支援課に感謝の意を表します。