月別アーカイブ: 2012年1月

橋下徹×山口二郎討論(報道ステーションSUNDAY)を学問的に検討してみる

浅野です。

報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。

「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。

この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。

さて本題に入りましょう。

心理学的な検討

中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。

この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。

この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。

政治学的な検討

橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。

テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。

ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。

教育学的な検討

教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。

哲学・倫理学的な検討

先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。

「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。

この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。

この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。

自分の頭で考えた検討

率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。

教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。

あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。

そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。

さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。

勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。

アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめ

浅野です。

第1回アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめです。これはあくまでも浅野個人が記憶に基づき当日の話には出なかったことなども盛り込みながら再構成したものです。補足やご批判があればぜひコメントを書き残していってください。途中からになりますが、当日の模様の録画も残してあります。

アカデメイア・カフェ第1回「最近の大学ってどーなん!?」(USTREAM中継動画の録画)

1.学生運動、自治について
今回の最大のテーマは「大学の自治」だったように思います。事前にテーマを細かく設定せず、その場の流れに任せた結果そうなりました。

その背景にはキャンパス内での喫煙・飲酒の禁止や夜間の出入り禁止など、大学によるキャンパス規制が厳しくなってきている状況があります。このあたりのことは府大キャンパスフォーラムで詳しく話されることでしょう。

「大学の自治」と言えば学生運動と切り離せません。この場には学生運動に否定的な人もいれば肯定的な人もいて、主張には共感するけれども手段が有効的でないと感じている人もいました。ここではその議論の詳細には立ち入りませんが、こういう議論ができるということ自体が大切だと思います。

大学のもう一方の当事者は教職員です。最近では各地の大学でFD(Faculty Development)と呼ばれる教育開発の取り組みがなされています。こうした流れが加速すると、大学ごとに独自の教育観を打ち出すまでに至るかもしれません。教職員にせよ学生にせよ、大学教育への意気込みは人によって大きく異なるのが実情ではありますが。

他方でユニオンエクスタシーなどが取り組んでいるように、大学の非正規職員は現行の法律や判例を根拠にして3年や5年で雇い止めされるという問題があります。かなりの部分の仕事を非正規職員に頼っているにもかかわらずです。このような状況ですと職員が主体的に大学を運営するのは難しいですし、そもそも職員の雇用を法的な形式論でしか扱えないということ自体が大学の自治の低下を示しています。

大学の自治といえば大学寮もはずせません。少なくとも京大の寮にはまだ自治がかなり残っているように思われますが、寮の自治をやめて大学が管理しようとする動きもありますし、寮生の間でも面倒な自治には関わりたくないという人もいます。学生一般にしても大学に強い帰属意識を持っている人もいれば帰属意識をまったく持っていないような人もいます。学生は大学の構成員なのでしょうか、それとも消費者なのでしょうか。次に学費を軸にしてそのことを考えてみます。

2.学費は高い? それとも安い?
現在の国公立大学の授業料は原則的に年間535,800円です。これを高いと見るか安いと見るかは究極的にその人の価値観によるでしょうが、いくつか考慮すべき材料があります。

まず、実際の教育・研究活動で必要な費用を考えに入れなければなりません。大雑把に文系的なところでは図書館の本と論文やレジュメの印刷が費用のほとんどを占めます。教員が学生に関わる度合いは様々なので、その人件費をどう計上すればよいかはわかりません。それでも一人当たり年額535,800円は高いように感じます。ましてや大学にはそれなりの税金も投入されているのですから。しかし工学系や医学系となると話は大きく変わります。数億円もするような機械を使うことも日常茶飯事です。そう考えると535,800円は安く見えます。

今度は得られる見返りから検討します。4年で卒業するとしたら合計二百数十万円かかります。大学を卒業することにより生涯年収がそれ以上に上がればお得な投資であり、そうでなければ損な投資になります。これも分野によって様相は大きく異なります。極端な例としては、文系の学部から大学院に進学すると、交通事故などの際に算定される生涯年収がむしろ低くなるという話を聞いたことがあります。これが本当だとすれば学費を払って大学院に進学すると金銭的にプラスがないどころか投資した額以上の損失があることになります。

それでも大まかに言えば大学に行けば(少なくともこれまでのところは)生涯年収が上がってお得だから、多くの人が大学に行くようになった(日本の多くの場合でより正確に言えば親が子どもを大学に通わすようになった)のでしょう。それでは生涯年収の上昇をもたらす大学とは何なのかを次に考えます。

3.大学が就職にもたらす価値
現在では大学卒業を見込んで就職活動をすることが一般的になっていることもあり、大学を論じるにあたって就職を避けることはできません。卒業見込みの一年半ほど前から就職活動が始まるので、四年制の大学でも約半分、短大や大学院の修士課程では約4分の3の期間を就職活動をして過ごすことになります。せっかく年間50万円以上も払って大学に通っているのに、これはどういうことでしょうか。

答えは簡単です。一つの割り切った考え方では、就職の際に評価されるのは大学に入ることができたことから想定される基礎学力のようなものです。大学で何を身に着けたかということではありません。ユニクロが大学一年生から採用活動をする方針にしたのも、この考えを裏付ける一つの証拠になり得ます。だからこそドライに戦略を考えて就職活動する人が内定を得て、まじめに大学で勉強しようとする人が苦労するのかもしれません。このあたりのことはもはや人ごとじゃない!就活をめぐるタブーなき大”論”闘でも話されました。

もちろんこれは一つの割り切り方であり、分野によっても異なります。医学系や工学系なら数億円の機械を用いて練習してきたという能力そのものを買われることも多いでしょう。だからこそ研究室での活動を妨げないように自由市場での就職活動ではなく教授推薦での就職があったりするのだと思います。法学系なら法律の知識や複雑な論理を考える力を生かして資格を取るという道もあります。

この分析が正しいとすれば、そして大学新卒の就職活動を通じた就職が難しくなってきているのだとしたら、中途半端に大学に行くよりも手に職をつけられるような専門学校に行くほうが賢い選択になります。実際、ここ数年は専門学校人気が高まりつつあるとの報道を目にします。本田由紀さんがドイツを参考にしながら提唱しているあり方ですね。

経済合理的に考えれば考えるほど実学系以外の大学には魅力がないことになります。特に悲惨なのが文系大学院の博士課程で、水月昭道さんの著書のタイトルから「高学歴ワーキングプア」という言葉が普及するほどになりました。京都アカデメイアは最初は文系大学院生が中心となって始まりましたし、他にも近いところでは佛大・社会学研究ゼミがあります。研究職という視点から大学を捉えることもできますが、今回はその話は脇に置いて、もう少し広く社会という視点から大学について考えます。

4.社会の中の大学
大学は社会の中に存在しており、大学と緊密な関係を保っている社会組織が教会→国民国家→私企業(資本主義)と移り変わってきたということを吉見俊哉さんの『大学とは何か』で学びました(吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだを参照)。先に見たような就職に関する大学の位置づけは国民国家から私企業へと移行する際の過渡期的な現象であると考えると、今後は実学系以外の大学は衰退すると予測されます。実際、大阪の知事から市長になった橋下徹さんは「私は大学は私立がやるものと思っている」と言い、その線での政策を推し進めるつもりのようです。こうなると実学系を中心とした経営体としての大学が中心になりそうです。

この路線にはいくつかの疑問があります。第一に、教育は企業モデルになじまないということが挙げられます。企業モデルでは合理的に計算して利益が最大になるように投資します。しかし教育では計算通りにいかないことがたくさんあり、そちらのほうが本質だとも言えます。また、仮に教育の効果をある程度計算できるにしても、その期間は長くて短期的な投資にはなじみません。内田樹さんが言っていることですね。研究についても同じことが言え、遊びから生まれる発見などもあり成果を完全に計算することはできず、仮に計算できたとしてもその期間は非常に長くなることもあります。

第二に企業モデルだとお金が払えないと大学に行くことができません。それは大学に行きたいけれども行けない人にとって不幸であるだけでなく、社会の損失にもなります。優秀で熱意もあるがお金がない人が大学に行けないのは合理的ではありません。優秀で熱意がある人には奨学金を出せばよいではないかと言われるかもしれませんが、優秀さを測定するのは困難であり、先ほど述べたように思いがけない成果が生まれるのが教育・研究です。

第三に、企業モデルで行われる研究に内在的な疑問や批判が生じるのかという問題があります。これはおそらく実際に起こっていたことなのですが、例えば原子力発電所を作るための研究をしていてこのままでは危険だと思っても、批判をしたりコストのかかる安全装置の設置を提案したりするのが経済的な関係から難しくなってしまうということです。

ここまで三点に渡って個人的な意見を硬い言葉で表現しましたが、要は、何をやりたいかなど高校生までではわからないし、大学に入ってからいろいろな人に会う中で価値観が変わることもあるし、大学では自由に物が言えたほうがいいし、大学って楽しいところだから来たい人が来られるようになったほうがいいというだけのことです。

このように考えると、大学には少なくとも企業の論理だけではない何かが存在するはずです。教養教育が必要だというのもその一つです。XmajorCollege Caféでやられているように専門分野を越えて出会った人同士が議論するのもそうです。こうした企業の論理だけではない別の何かを名指すとするなら「市民」でしょうか。それなら大学という枠にこだわることもないわけで、scienthroughや各地で行われているサイエンスカフェ、哲学カフェのように大学の外で活動することもできます。京都アカデメイアでも地域の寺子屋とも言うべき山の学校と共同イベントをしたことがあります。そして今回のアカデメイア・カフェの場そのものもそうです。

アカデメイア・カフェをまとめようと思って書き始めたのに自分の意見を前面に出してしまう結果になりました。修正や補足をぜひともお願いいたします。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。

アカデメイア・カフェ

こんにちは、京アカです。

京アカではこれまで、月一回の定例イベントとして「模擬授業」をやってきましたが、今月より新たに、「アカデメイア・カフェ」企画を始めます。
月にひとつテーマを決めて、皆でわいわいディスカッションをしようという企画です。
第一回のテーマと日時は以下の通りです。

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テーマ:「最近の大学ってどーなん!?」

USTREAM:kyoacaで生中継をします(予定)
日時:1月22日(日)14:00-17:00
場所:京都大学 附属図書館 共同研究室 (googleマップ) 
定員:20名程度
※附属図書館前に13時50分に集合ください。
※参加費無料(身分、所属を問わずどなたさまでもご参加いただけます)

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趣旨など詳細につきましては、以下のページをご覧ください。
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/seminar.html
興味をもたれたら、どなたでもお気軽にお越しください。

カフェと言いつつ、場所は図書館ですが(笑)

畑の大根が甘い!!

こんにちは、あけまして、別になんもめでたかないが、おめでとうございます、さいきん畑の話しかしてない(む)です。

畑の野菜たちもそろそろ本格的に収穫期に入ってきました。
畑は寒いが野菜たちは元気。
霜がおりて腐る前に収穫や!収穫や!豊年だ!豊年だ!(志賀直哉)
素人農業なもんであんまりきれいにはいかんですが、虫食い野菜もそれはそれでおいしい。とりわけ感動したのが大根。

大根、太いし、甘い!!
びっくりするほど甘いのです。
年末、アカデメイアのみんなで会議(という名のぼうねん会)いたしまして、そのときも、炊いたりシチュウに放り込んだりしたんですが、なまで食べても十分甘くておいしい!
おやつとしてぽりぽり齧れる!
キムチ鍋に入れると、辛い中に甘いのがじんわりしてすばらしいのです!

という感動を伝えたいだけの記事でした。

f:id:kyotoacademeia:20111222152246j:image:w360

穴があいても甘い。今年もよろしくお願いいたしますだいこん。

2011年の活動ふりかえり

 

百木です。
あけましておめでとうございます。本年も京都アカデメイアをどうぞよろしくお願いします。
年があけてしまいましたが、備忘録的に昨年の京都アカデメイアの活動を振り返っておきます。

1月 「理系」×「文系」ワークショップ
2月 模擬授業「ロマン主義から決断主義へ」(発表者:小林哲也)
3月 模擬授業 「学びの夕べ」(京都アカデメイア×山の学校)(発表者:浅野直樹、百木漠)
4月 異分野学生交流会
5月 合ケン。(Scienthrough×京都アカデメイア共同企画)
6月 模擬授業@大阪大学「蛍光イメージングの基礎と実用例」(発表者:栗下泰考)
7月 模擬授業「「ビラがパズル学」基礎ゼミナール」(発表者:東田大志)
8月 お休み
9月 模擬授業「文化人類学入門:太平洋の小国家から見える世界」(発表者:比嘉夏子)
10月 人環フォーラム学生講演会「ジンカンってどんなところ?」
11月 NF企画:真山仁講演会
12月 お休み

このように京都アカデメイアはだいたい月一回のペースで活動しています。大学の長期休暇期間などにはお休みすることもあります。こうやって振り返ってみると、去年一年間で反省することもあり、予想以上にうまくいったこともあり、いろいろと考えるべきことは多いです。ともあれ、各イベントに参加・協力いただいた皆さん、どうもありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。

アカデメイアスタッフの側では、4月を期に就職・上京して直接的な活動からは離れた後輩もおり、新たにスタッフとして加わってくださった方もおり、という感じで、流動的にメンバーが入れ替わりつつ、マイペースに活動が続いています。とくに社会人のHさんや同志社のIくんなどが新たにメンバーに加わってくれたのは嬉しいことでした。設立の経緯から、これまでは京大の人環・総人のメンバーが多かったのですが、最近では社会人の方や他大学の方からのアクセスも増えており、アカデメイアの輪が少しずつ広がってきているかなと感じています。

模擬授業が合計で12回を重ね、一周した感があるので、今月からは新たなイベントなども企画・実験していけると良いなと考えています。具体的には「京都アカデメイア・カフェ(仮)」として、毎回ひとつのテーマを決め、それについて参加者みんなでざっくばらんにディスカッションしながら勉強をするというイベントを企画中です。具体的なテーマ、日時、場所などは改めてwebサイトやこのブログで告知します。できればust中継やtwitterでの連動なども試してみたいと考えております。

その他にも「新しくこんな企画をやってみたい・やってほしい」とか「京都アカデメイアの活動に参加してみたい」という方がいればお気軽にご連絡ください。→kyotoacademeia□gmail.com(□に@を入れてください)
今年も「所属や専門にかかわりなく、みんなで勉強できる場所をつくる」という目標を実現していきたいと考えていますので、皆様どうぞよろしくお願いします。