浅野です。
報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。
「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。
この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。
さて本題に入りましょう。
心理学的な検討
中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。
この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。
この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。
政治学的な検討
橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。
テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。
ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。
教育学的な検討
教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。
哲学・倫理学的な検討
先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。
「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。
この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。
この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。
自分の頭で考えた検討
率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。
教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。
あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。
そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。
さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。
勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。