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最近読んだ本(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』)

鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』新曜社、2004

https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b456075.html

 

京アカのFさんから突然「村田さんが読んだら面白がりそう」と薦められた本です。
鶴見俊輔に、上野千鶴子と小熊英二が3日間にわたって戦中から戦後のベ平連の活動までその記憶を聴くという企画。
薦められたときにちょうどまさに鶴見の本を読んでいたこともあって(前回記事で紹介した『限界芸術論』でした)OH!シンクロニシティ! と思って読み始めたらまんまと面白かったのでした。序盤の、宗教は信仰しないしマルクス主義も信仰しないけどタヌキは信仰する、みたいなところでもう、この本を薦められた理由が分かった気がしました。

鶴見俊輔が「こういう人が好きだ」という話が頻繁に出てくるんですが、本書で最も面白かったのは、鶴見の好むその人物類型でした。
たとえば戦争時の印象的な人物として挙げられている大佐。戦争中もインドネシア独立運動の指導者と接触があり、敗戦を知ってすぐに彼らのために動いたというその人は、戦争中も戦後も「大東亜解放」の大義を信じていたといいます。「なかなか位置付けがむずかしいですが、鶴見さんはそういうタイプの人がお好きですよね」(p.46)と小熊英二。
こうした人物像は「一刻者」とか「ヤクザの仁義」とかいう言葉でも語られるんですが、つまり「器用で世渡り上手の優等生」とは対極にあるタイプの純真な人。そして庶民から出てきた人、高い地位に上ろうと思えばできるのにそうしない人、を鶴見は愛していたようです。庶民を理想化しすぎ、みたいに上野千鶴子からツッコミを入れられてもいますが、「一番病」と呼ぶ自分の父親と逆のタイプなのが面白い。
その偏愛は思想の如何を問わず、たとえば三島や江藤淳も全共闘の青年たちも「自分の命を投げ出す不器用さ」という点でシンパシーの対象になっています。鶴見が高く評価する人は保守のほうへ行ってしまいがち、というのも面白い。小熊は、たしかに純真さを保とうとすると保守に行ってしまう必然性があるのかもしれない、と分析しています。左派は理念を掲げるがゆえに理念と現実の矛盾が目立ってしまうから。

鶴見自身は、自分は(一刻者でなく)悪人だという表現をしています。
「一刻者」が矛盾に耐えられない人だとすれば、悪人とは矛盾を呑み込めてしまう人なのでしょう。が、矛盾を呑み込みつつぎりぎりの一刻者であろうとする姿勢といいますか、そういうものが端々で語られてすごい。

たとえば、日本の戦争目的は信じていなかった、しかし「敗北を日本人のあいだにあって受けたい」と思って留学先から日本に帰ったのだ、という話。「勝つ側にいたくないと思ったんだ」「この戦争については、アメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられないと思ったんだ」(p.38)。それでいてやはり日本国家への同一化も拒む。
自分などは防衛機制まみれ人間なのでこういう状況になればたぶん、勝ち馬に乗るか逆に反動形成で「いや日本が正しかったんや」みたいに意固地になると思うんですが、そうした防衛機制をいかに廃して矛盾を処理するか、というひとつのお手本として読みました。

その意味で最も感銘を受けたのは、戦時中に「敵を殺せ」という命令が出ていたらどうしたか、という話。
「殺人を避ける」ことが反省の根本原理であるから命令を断って自殺していたと思いたいが恐怖に屈していたかもしれない。

だから戦後に私が考えたのは、『自分は人を殺した。人を殺すのは悪い』と、一息で言えるような人間になろう、ということだった。それが自分としての最高の理想で、それ以上の理想は、自分に対して立てないし、他人に対しても立てない。(略)和歌でいえば、上の句と下の句との間に隙間ができることを、『腰折れ』というんですが、『一息で言える』というのは、『腰折れ』にならないこと。(略)そこまでくるのに、戦後ずいぶん時間がかかりました。(p.53)

さらに、そんな矛盾の処理が最も難しい形で表れていたのは、「慰安所に愛はあったか」という話題です。
戦時中、鶴見は、ジャワ・シンガポールなどで海軍将校が来たときのための士官クラブ(実質は慰安所)の設営の仕事をしており、そこで働かせる女性の手配もしていたといいます(その費用は「機密費」から出ていたらしい)。日本に帰れない少年兵が慰安所の女性にわずかな時間慰められて感謝する。「私はそれを愛だと思う」とかつて述べて批判されたことについて、鶴見は改めてこのように答えています。

慰安所が日本国家による女性に対する凌辱の場だったということを、認めます。(略)ただ私は、愛というものを、特別に純粋培養されるものと思っていない。どういう状況でも仕方でも、愛は生まれると思う(p.72)

「そういう場でも、『愛』がありえたことを私も疑いません(略)けれでもやっぱり、それは権力関係のなかでの出来事です。女性たちがその状況を自分で選んだとは、とうてい言えない」(pp.73-74)「女の側からいうと、愛もあったかもしれないが、権力関係もあった」(p.75)と追及する上野に一定同意しつつ、

AかBか、とは私も思いませんよ。愛と被害が、両方とも成り立つと思います。だけど同時に、そこに愛があるという譲れない線が私にはある。(pp.75-6)

と鶴見。このくだりは私もスリリングな思いで読み、「愛」という言葉のセレクトはやはりロマンティックすぎる気がするし、そこには上野の指摘する女性への視線の冷たさがあるのかもしれない、しかし、「愛と被害は両方とも成り立つ」という言葉は、昨今話題にされ始めたグルーミング的性加害/被害の問題においても重要かもしれない、と思いました。
慰安所をめぐる論は最も上野の追及が厳しいくだりでもあり、最後は「上野さん、まあそのあたりでちょっと……」(小熊)という宥めで終わっています。この本、聴き手の二人が鶴見を敬慕しつつもまったく容赦しないのもすごい(こんな聴き方できない)。

【その他私が面白かったところ・気になったところ】

・食糧不足が起これば戦争が革命に転化する(共同炊事が起こって、金持ちである自分の実家は略奪されて、共産主義革命になる)と思っていたが予測は外れた。「どんなに空襲や食糧不足がひどくなっても、日本人は共同炊事ができなかったんだよ」

・八月十五日の放送を聴いたときのこと。天皇が自国の被害の話ばかりで他国への加害を語らないことに違和感を感じ、「非常に嫌な感じがしましたね。もう、天皇は嫌な奴だと思った。自分が長いあいだ残虐なことをやってきたんじゃないかって」(p.125)という言葉が痛快。にもかかわらず自分の命が助かったことについては「天皇のおかげだ」とも思ったという。

・60年安保の話。当時を知らないので、TVでデモの盛り上がりが映されていてみんながそれを見て参加しに行く、という状況がなかなか想像できず、その熱気を想像しながら読んだ。学生運動を支持する人の中には、戦中の少年兵や戦死した息子・兄弟の姿をだぶらせていた人もいただろう、というのは盲点だった。「戦争を知らない孫たち」世代としてはついつい「1945年で一区切り」みたいにイメージしてしまうが、1960年なんてまだ戦争の記憶が生々しい時期だったのだ。

・竹内好の葬式で増田渉が心筋梗塞で倒れたが丸山真男が硬直して動けず立ったままブツブツ言っていた、というエピソードがなぜか好き。丸山は「武田(泰淳)が竹内を呼んで、竹内が増田を呼んだ」と呟いていたらしい。「そういうときでも、言うことが思想史的なんだよ(笑)」(p.184)。そこへ助けにきたのが埴谷雄高。

・鶴見は丸山真男の「ファシズムは亜インテリがつくった、皆さんは東大に入ったから亜インテリではありません」という発言を批判して、小熊に訂正されているが(正確には丸山はそうは言っていない旨)、その後ももう一度同じことを言っている。再度訂正され「私は自分の偏見に沿って丸山真男をねじまげているな」(p.307)と反省してるのがなんか可笑しい。

・明治以来の朝鮮人差別についての議論、60年代以降は高度成長で「差別で自尊心を支える」必要はなくなった……?みたいな話の流れの中で、「金があれば差別がなくなるというわけでもないでしょうが。でも、また日本人は金がなくなってきたから、差別もひどくなるかもしれないね」(p.334)という言葉がある。本書は2004年刊。その後たしかに日本は貧しくなっている。今は実際どうなんだろう……?と考えてしまった。鶴見の言った通りかもしれない。しかし韓国・朝鮮(人)に対する視線だけでいえば少なくとも若い世代においては良い方向に変わっているかもしれない。だがそれは本書でも言われていたように、韓国が裕福になったからということかもしれないし……。

最近読んだ本(民藝運動とその周辺)

おひさしぶりです。村田です。最近読んだ本シリーズです。

去年は「民藝運動100年」だったそうです。
(だいぶ前の話ですが)秋に京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)で「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展を観ました。

「民藝」は「民衆的工藝」の略。
1925年、木喰上人が制作した木喰仏に惹かれ各地を調査していた柳宗悦が、河井寛次郎や濱田庄司らとともに調査の旅に出る中で思いついた語であるとのこと。彼らは弘法さんや天神さんなどの市で、無名の人の作る雑器「下手物(げてもの)」を蒐集し、その日常性に美を見出すも、「下手物」という語が世間で誤用され始めたので別な言葉を作る必要が生じ、「民藝」の語が生まれました。

民藝運動のことはずっと気になっていたのでしたが、ぼんや~りしか知らなかったので、これを機会にいろいろ読んでみました。

以下、民藝運動+その周辺について読んだものです。

 

【民藝運動】

●柳宗悦『工藝文化』岩波文庫、1985
長年積読していた本でしたがこの機会に読みました。昭和17年の著作。民藝の思想のアウトラインがよく分かりました。

・近代以降、美術は個人主義・自由主義のもとに、天才とされる個人の独創的表現が尊ばれるようになった。しかしそれは逆に自己に縛られることであり、真の自由ではない。

・美術は純粋性ゆえに尊ばれ、工藝は実用性ゆえに低くみられてきた。だが、美と生活を分離させることは健全ではない。

・民衆的工藝とは、貴族的工藝や個人的工藝と異なり、一般民衆のために作られ・実用を第一とし・多くの需要に応ずるため多量に作られ・低廉であり・職人の手によるものである。

・資本主義下での機械的生産は、質と美を無くし、人道的問題を起こし、地方性も奪ってしまった。

● 高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT、2020

5年前に人から薦めてもらった本ですが、これもやっと読みました!
基本的な歴史、民藝運動にかかわった人たちの人となりやエピソードも面白く、タイトルの通りわかりやすい入門書でした。著者は自らも工芸店を営んでいる人です。

特に、「民藝は反近代主義なのか?」という話が面白かったです。
民藝は、共同体や伝統への回帰を謳う反近代主義のように誤解されがちですが、そうではない、というのが本書の主張。新しいメディアである雑誌を使って思想を発信し産業界からの支援も受けるなど、近代的手法の上での運動だったことが示されています。「当時の若者に自分のこの運動に参加することでなにかを得られる、と思わせた」(p.123)という表現に、当時の雰囲気を想像しました。

また本書に通底する問いは、どこまでが「民藝」か? というものです。
手仕事全般を指す? 特定の作り手のものを指す?無名の作者による安くてシンプルなものを指す? ……本書いわく、「○○だから民藝」といえるものは、ない。
「民藝」がある程度の規模になったとき、それに権威が付与され、柳の言った「実用性」や「無銘性」が民藝の条件であるように思われてしまった。しかし、たとえば「実用性」を「実用的でなければならない」ととらえるのでなく「非鑑賞性=鑑賞を目的として作られたのではない」と読み替え、「無銘性」を「無銘の職人によるものでなければならない」ととらえるのでなく「非有銘性=自らの名をあげるために作ったものではない」と読み替えればよいのでは、というのが本書の提言です。曰く、「民藝」は連帯のための言葉であり、排除のための言葉ではなかった。

しかし、「○○だから民藝」と言える絶対的な条件はないが、「一個だけ例外がありまして。『柳が選んだから、民藝』、これだけは仕方がない(笑)」(p.154)というのは、アール・ブリュットにおけるデュビュッフェの存在と似ているな、と思いました。
私はアール・ブリュット/アウトサイダー・アートと呼ばれる領域に関心があり、これらの概念にまつわる難しさと「民藝」のそれってちょっと似てそう、ということも「民藝」が気になった理由の一つだったのでした。(後で触れます)

●柳宗悦『琉球の富』ちくま学芸文庫、2022

民藝展で知ったことのひとつは、民藝運動が朝鮮・アイヌ・琉球の工芸品から多くのインスピレーションを得ていたということでした。非西洋の表現を接取しながら発展してきた西洋の前衛芸術と同様、「周縁」(しかも自国が支配する地域)の風物に関心を示すとき、それが純粋な関心であってもどうしてもそこには搾取の意味合いが生じてきます。民藝運動の人々はどのような態度でそれらに接していたのかを知りたく思っていたところ、ちょうど、柳が琉球・沖縄について書いた文章を集めた本が出ていたので読んでみました。

沖縄の建築や工藝を紹介しながら繰り返されるのは、「沖縄にはわれわれが失った美があり、沖縄の人もそれを誇るべきである」という主張です。たとえば、日本の瓦屋根は「美しさの乏しい」「汚い」色で「面白味の全くないもの」になり果ててしまった、と嘆いた後、

ですが何たる幸いなことか、日本本土の凡ての瓦屋根が冷いものに化した今日、実に琉球ばかりは、残らず本葺の瓦屋根を現に用いているのです。(略)私達はもう見ることが出来ないと考えた本葺の家のみが並ぶ町を、思いがけなくも眼のあたりに眺めるのです。夢のようにさえ想えるのです。(p.19)

本土で失われた純粋なものが沖縄には残っている、という主張は、当時の国語学の主張とも併行していたのでしょうか。柳は言葉についても述べています。

或る人々は沖縄の言葉の如きは既に過去のものであって、新しい日本にとって無用であるかの如く述べているのです。併し和語を純粋なものに整理する為には、如何に沖縄の言葉が吾々に多くの暗示を与えるかを知らないのです。和語への自覚が澎湃として興って来た今日、其の存在は幾多の感謝を以て顧みられねばならないのです。なぜ沖縄の人達は自分達の言葉が最も古格ある大和言葉を保有していると云うことを誇りにしないのでしょうか。(p.22)

こうした見方(周縁には純粋な何かが残っているという憧憬)も、現代であれば「オリエンタリズム」として批判されるかもしれません。しかし、柳が、この時代に、国による方言政策(土地の言葉を禁じようとする)を公然と批判していたことはすごいことだと思います。
また、単に「本土で失われたものが残っている」という点のみでなく、「小さな島の小さな王国に、嘗てどんな力があったのか、実に不思議なほど、凡てのものを琉球の血と肉とにして了った」「琉球は決して模倣の国ではない」(p.113)と、独創性の点でも沖縄を評価しています。

【民藝の周辺】

以下は「民藝」をちょっと離れて、それと関連する(してそうな)本です。

● 軸原ヨウスケ・中村裕太『アウト・オブ・民藝』誠光社、2019

民藝は「周縁」との接触から始まったはずですが、本書は、その民藝のさらに周縁を検討していく本、といえましょうか。たとえばこけしとか「木っ端人形」とか。

現代のわれわれは「民芸品」といえば、観光地の土産物屋で売られているようなああいうもの(なんか和風の小物とか)をイメージしますが、そうしたものは『わかりやすい民藝』では、民藝運動とは関係のない「いかみん」(いかにも民藝)と呼ばれていました。しかし本書はいかみん中のいかみんであろう「味の民芸」(岡山のチェーンレストラン)の話から始まるのが面白い! 柳宗悦の「民藝」と一般化した「民芸」の乖離を示すと同時に、「これはこれですごいことです」とも言われています。

著者二人の対話の中でいろんな話が出てきて勉強になりましたが、特に、今和次郎の「平民工芸」の話が興味深かったです。
今和次郎といえば考現学の人ですが、柳宗悦や柳田国男が農村で廃れゆく工藝品を見ていたときに、今和次郎は前衛的な工藝運動を見ていた。そして、柳・柳田とも都市の工藝運動とも異なるもの(その中間のもの?)を発見した。
私も街角のへんな一角だとかいろんな貼り紙だとかを見つけながら歩くのが好きで、こういうものをどう位置づけたらええんやろか、と思っていたので、「ブリキのガス灯」発見の喜びを綴った文章など面白く、このへんの系譜(考現学から路上観察とかトマソンとか)を整理する一助になりそう、と思いました。

●鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999

そんな流れで、昔に読んだこの本も再読してみました。 「限界芸術」は鶴見が1950年代に唱えた概念ですが、純粋芸術(ファイン・アート)、大衆芸術(ポピュラー・アート)よりもさらに広大な領域で、芸術と生活との境界線にあたるものものを指します。この概念を知ったときは「なるほど! これは便利な概念(私の好きな諸々がこれで表せる!)」と思ったのでした。

鶴見は、柳田国男を「限界芸術の研究者」、宮沢賢治を「限界芸術の作家」、柳宗悦を「限界芸術の批評家」としています。限界芸術の諸様式はすべてが共通の地下道をもっていてそれは各地各時代の具体的な集団生活の様式である、とか、明治以後の工場式の生産様式が労働と愉しみを分離させた、という論も、柳の民藝論と通じています。が、一方で、限界芸術は更に民藝の枠をも超えるとされます。民藝は機械生産を軽視し手仕事のみを評価したが、「限界芸術は、柳の考えた民芸というわくをこえて、カメラとか、映画とか、あるいはまたアマチュア放送などを含むものとしてとらえられることがのぞましい」(p.45)。

街角のへんな一角や貼り紙を見るのが好き、と上に書きましたが、「限界芸術」というパースペクティブならそうしたものものも広くとらえられそうです。あるいは、われわれは自身が日々生産する、メモの切れ端の落書きとか、台所収納の工夫とか、即興の鼻歌とかも?

●播磨靖夫『人と人のあいだを生きる 最終講義 エイブル・アート・ムーブメント』(どく社、2025)

エイブル・アートの提唱者である著者がエイブル・アートについて語る本です。
エイブル・アートというのは和製英語で、障害者による芸術を扱うムーブメントを指します。90年代に企業の後援も受けながら盛り上がりました。
欧米発祥のアール・ブリュット/アウトサイダー・アートの類似概念のようでありつつ、そちらへの言及はほとんどなく、むしろ民藝運動・限界芸術・宮沢賢治などの話が多く出てきます。たとえば柳宗悦の「不完全の美」という概念。また、自己表現に呪縛されると逆に類型的な表現を再生産することになり個性が失われる、というのも『工藝文化』において柳が主張していることです。
欧米のアール・ブリュット/日本のアール・ブリュットの相違はしばしば論じられていますが、殊に日本のアール・ブリュットをめぐる言説は、一方で病跡学的な天才論に接続しつつ、もう一方で民衆の手仕事を広く評価しようとする民藝や限界芸術の理念に接続しているのかな、と考えました。

なんか話が広がってきたので今日はこのへんで。

 

最近読んだ本(陰謀論)

おひさしぶりです。村田です。メリクリです。

「陰謀論」に関する本をいくつか読んだので紹介します。

● 烏谷昌幸『となりの陰謀論』(講談社現代新書、2025)

 

今年出た本でよかった本です。

様々な陰謀論が紹介されており、本書で初めて知るものもありました。たとえば「鳥は本物ではない運動」とか「ゴム人間陰謀論」とか。ネーミングを聞くだけでついつい「いやちょっとwww」と言いたくなってしまうのですが、本書はそうした説を揶揄するのが目的ではなく、陰謀論をグラデーションとして捉えようとする良書でした。

陰謀論には、多数の人に信じられているものと多数の人が荒唐無稽と感じるものがあります。前者はケネディ暗殺陰謀論など。後者は「は虫類人」「平面地球」など。著者もかつて、昨今は否定されているケネディ暗殺陰謀論を信じていたとして、陰謀論をスペクトラムで考えねばならないことに思い至ります。そして人々は皆、そのスペクトラムのどこかに境界線を引き、境界を超えた向こう側に対しては「烙印を押された知識」の態度を取っているのだとします。
これは自分の実感に照らしてもよく分かる考え方でした。たしかに、私から見て「陰謀論者」に見える人もより極端な陰謀論に関しては「自分はあんな陰謀論者じゃないですよ」的な言い方をすることがあるし、また私の世界観も、別の人から見れば陰謀論的に見えることでしょう(私はお金持ちとかはだいたい悪いことをしていると信じています)。
陰謀論を個人的誤謬でなく社会的問題としてとらえ、それは人々の「世界をシンプルに把握したい」欲望や剥奪感(大事なものが奪われる感覚、たとえば「外国人によって土地が奪われる」みたいなやつ)によって増殖するのだ、というのが本書の一貫した主張です。そのとき政治的立場は関係ありません(左右問わず陰謀論は広まりうる)。

一方、重要であるなと思ったのは以下の点。

「留意すべきは、陰謀論者が常に針小棒大な論理で物を考える事実があるにしても、現実政治において陰謀や謀略の果たす役割をあまり軽視し過ぎることも問題であるということです」(p.38)

実際に「陰謀論だと思っていたら本当に陰謀だった」パターンもあるわけで、だからこそ難しい。
では、何をもって「陰謀」と「陰謀論」を区別すればよいのか? といえば、「認識論的権威」に拠るしかないが、今日もはや「認識論的権威」が機能しない状況――大統領となった人までもが自らの影響力を高めるため陰謀論を利用する状況――があり、それこそが陰謀論の興隆を可能にしているのであると本書は言います。

もうひとつ重要なのは、
「陰謀論の内容が馬鹿げていることは、かえって恐ろしい効果を生み出す」(p.159)
というところ。
荒唐無稽な陰謀論に「いやちょっとwww」と言いたくなる、と冒頭で書きましたが、しかし実はそれらは荒唐無稽だからこそ、「踏み絵」として機能するということ。
著者はナチスの例を挙げていますが、たしかに「馬鹿げた言説にのれるかどうか」で忠誠を試す踏み絵は、身近でもいろんな集団で用いられますよね。わざとけったいな新人研修をさせる企業とか理不尽な部活のルールとか。

 

● 雨宮純『あなたを陰謀論者にする言葉』(フォレスト出版、2021)

こちらは陰謀論ウォッチャーによる、最新の陰謀論とその周辺の見取り図が描かれた本です(といっても4年前の本なのでここからまた状況は変わっているのでしょうが……)。
表紙には「ジョブズ」「量子力学」「ビートルズ」「ボードゲーム」といった、それ自体では陰謀論と関係ないワードも書かれており、陰謀論への入口が意外なところに潜んでいることが示されています。同時に、狭義の陰謀論だけでなく、カウンターカルチャーやニューエイジへ、ニューソートから自己啓発へ、というムーブメントの系譜が示され、現在「陰謀論」と呼ばれるものが複数の流れの融合の上にあることが分かります。
ひとつひとつの事項の解説は完結ですが、大きな見取り図として勉強になりました。

とりわけ私が関心があるのは、「スピリチュアルが右翼も左翼も包摂するのはなぜか」ということと「精神性を追求するはずの自己啓発が金儲けと結びついてしまうのはなぜか」ということだったんですが、本書がそれを整理する一助になりました。
マメ知識的にも初めて知ることが多く興味深かったです(特に、「『金持ち父さん貧乏父さん』ボドゲや『七つの習慣』ボドゲが存在して多くのボドゲ会で持ち込み禁止になっている」という話)。

余談ですが、ビジネス書(?)をメインで扱っている出版社のようで、この本に挟まっていたチラシに、本書で触れられている「引き寄せ」を唱える人が載っていたのがちょっと面白かったです。

● 斎藤貴男『カルト資本主義 増補版』(ちくま文庫、2019)

上の本で知って読んだルポ本です。2000年の文庫の増補版なのでベースになっている話は古いものが多いのですが、大変勉強になりました。これについては長くなりそうなので、また別に書きたいと思います。

『あなたを陰謀論者にする言葉』では、「大企業が悪いことをしている」という価値観が陰謀論につながる一面を持つことが指摘されていますが、本書では、大企業が超能力研究や永久機関研究に関わっていたり、大企業の経営者がニューエイジやニューサイエンスに接近していたり、という一面が取材されています。

上述の「精神性を追求するはずの自己啓発が金儲けと結びついてしまう」という現象や、上掲書で雨宮氏が昨今のヨガや瞑想ビジネスのターゲットとして挙げている(かつての反近代合理主義者とは違う)「既存の体制や保守的な価値観からは自由になろうとしますがテクノロジーは大好き」な人々、「資本主義や市場経済を否定することは」ない人々、という類型がずっと気になっていたのでしたが、まさにそうしたことについて書かれていました。
詳しくはまた。

最近読んだ本

おひさしぶりです、村田です。暑いですね。
ひさしぶりにブログ書きます。
たまたま、日本近代文学に関する本を続けて読んだので記録&紹介です。

***

■ 小森陽一『〈ゆらぎ〉の日本文学』NHKブックス、1998

ずっと積ん読状態であったのをやっと読みました!
「日本=日本人=日本語=日本文学」という四位一体を再生産し続ける装置でもあった「日本近代文学」の中に、その等式の「ゆらぎ」となりうるものを見つけていく……という本です。
少し前(1998年って「少し前」でええんかな…)の本であり、これ以降も「日本」の非自明性はさかんに言われてきたことであるとは思いますが、「『純粋な日本人』でない」と見なされた芥川賞作家にヘイトがぶつけられる……などということも起こっている現在、未だ重要な切り口でしょう。

漱石、荷風、谷崎、賢治……etc、さまざまな作家が扱われていますが、特に、最終章と中島敦の章が勉強になりました。
中島敦は「戦時の影響を受けなかった孤高の作家」と高校生のときは習ったのでしたが、その後その南洋滞在経験を知り気になっていたので。
「山月記」は高校教科書に採用されて広く知られていますが、本書は『古譚』のひとつとして読むことを重視します。「山月記」をそこから切り離した国語科教育の道徳的解釈、すなわち、李徴の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に注目して物語を知識人の自意識や文学者の業に回収する解釈は、山月記の「歴史性」を隠蔽しているのでは? とします。そして、「人間性」を前提としたうえで李徴の虎化を「人間性の逸脱」とする戦後の受容に対して、次のように問います。

しかし中島敦が小説を書いた戦争の時代において、はやして、戦後的視点からの「人間性」なるものが、どこにあったのだろうか。あるいは『古譚』に収められた他の三作が、人間が人間であるがゆえに、血で血を洗う権力闘争と侵略戦争をしつづけてきたことを、人類の歴史の起源にまで遡って記述していることをどうとらえるのだろうか。(p.252)

■ 宮下隆二『イーハトーブと満州国――宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』PHP研究所、2007

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宮沢賢治の「イーハトーブ」と石原莞爾の思い描いた満州国を、日蓮宗(国柱会)という二人の共通のバックボーンから考察し、ひいては日本の近代、日本の戦前戦後を考える、という本でした。賢治のことも莞爾のことも国柱会のこともぼんやりとしか知らなかったので読んでみました。

イーハトーブという理想郷を追い求めて農村の変革を目指したものの、限界に阻まれた賢治。一方、満州に新たな国家を建設することでユートピアを求めようとした軍人の石原。石原にとっての満州国もまた、政治的意味をもつと同時に法華経に基づく宗教的ユートピアであり、「王道楽土」「五族協和」は石原にとって宗教的理想だった、とされます。それが瓦解したのは政治的軍事的理由であると同時にやはり「この世に存在し得ない理想」(p.208)であったからとしつつも、「賢治が光で石原が闇という単純なものではない」(p.202)というのが筆者の主張。
終盤の章では、賢治の内なるユートピアと石原が外に求めたユートピアを止揚していくことが現代の課題であるとして、現代文明批判に至ります。しかしこれらの章は近代以前の日本(江戸)をちょっと美化しすぎでは、とも感じました。「ニート」「フリーター」の話も2007年当時の語られ方という感じで、今なら違う書き方になっていたかも。

賢治作品って好きだけどよく分からんしちょっと怖いな~とずっと思ってきたので、法華経的観点からの読解の章が勉強になりました。「有機電燈交流」は「万物は縁起によって存在する」という大乗的な存在論である、等。

 

■ かまど&みくのしん『本が読めない33歳が国語の教科書を読む』大和書房、2025

上の二冊とはちょっと違うタイプの本ですが。
ウェブメディア「オモコロ」発の「読書実況」本。ウェブライター(注)だが読書が苦手、というみくのしんさんが、読書好きの親友兼同僚のかまどさんにサポートされながら本を読む様子を収めたシリーズの二作目。一作目(『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』)でファンになったんでこれも読みました。
注)フルーツサンドの記事が好きです。

「本が読めない」とはどういうこと? と思いながら読み始めたはずがいつしか、いやむしろ「読める」とはどういうこと? 「読める」と思っていたのは本当に読めていたのか? と考えさせられる点は前作同様。みくのしんさんはおそらく文章から映像が広がったり登場人物の声がきこえたりするときに「読める」と感じていて、いったんそれが始まるとその想像力は留まることがなく、彼の脳内のスクリーンを一緒に見せてもらっているような感覚が本書の楽しさのひとつです。
たとえば「山月記」(また「山月記」だ!)を読む章では、序盤の用語の難解さにキレつつも、

 気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。
少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。
自分は初め眼を信じなかった。

から、「川を覗くとトラの顔がゆら~っと映ってて……。そんな自分を信じたくなくて水面をバシャッって殴るんだけど、その手もトラの前足になってて……」(p.176)と李徴のトラ化をつぶさに想像し、

 時、残月、光冷ややかに、白露は他に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた

から、「湿った空気が涼しくて、霧雨っぽく視界がぼんやりしててさ。ざぁざぁ……って葉っぱが擦れる音も聞こえて、遠くで笛のようなフクロウの鳴き声が聞こえてて……」(p.198)とイメージを広げ、終盤は李徴に叫びながら語りかける。「アツい」読書なんですが、かと思えば、多くの者が共感するであろう「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のくだりは、通り過ぎる悩みだよ、とサラッと流しているのがクールです。

■ 石原千秋『打倒!センター試験の現代文』ちくまプリマ―新書、2014

アンチセンター試験のセンター試験本です。センター試験はもう無いですが(現在は「大学入学共通テスト」)。

上掲本(『本が読めない33歳~』)がとにかく自由に本を読む!読書に正解なんてない! という書であるとすれば、センター試験というのはその逆。五択の中から唯一の正解を選ぶことを求められ、そのためにできるだけ一定の読み方をすることが要求されます。
一定の読み方とは、「できるだけ解釈を入れない・できるだけ字義通りに近い読み方」ということ……のはずなんですが、そして本当にそうであれば一定の意義はあると思うのですが、しかしできるだけ字義通りに近い読み方を求めるなら本文をそのまま記した選択肢が正解になってしまうのであり、それを避けるためにあれこれ工夫することで国語の選択式試験は必然的に悪問になってしまう……。で、「できるだけ解釈を入れない・できるだけ字義通りに近い読み方」を目指していたはずが、結局「出題者の意図に沿う読み方」を目指すことになってしまう……。
仕事でセンター試験(共通テスト)の説明をすることがあるのですが、「作品の読解を伝えている」というよりはだんだん「出題者をなだめている」「出題者の擁護を(何の義理もないのに)している」という気分になってくることがあります。つまり「変な問題だし納得いかないけど許してあげてね、たぶん出題者はこうこう考えてこんな問題を作らはってん、出題者も苦労してはるねん、分かってあげてね」みたいな。センター試験(共通テスト)は、出典の選定には出題者の魂を感じて感心することがある一方で、せっかく良い作品が選ばれていても悪問奇問で台無しになっていることがあり、これじゃ、出題者・受験生・作品の作者、だれも幸せにならないよ……とよく思います。

なんかただの愚痴になりましたが、そのような機微もふまえたうえで、本書で特に面白かったのは「センター試験の小説問題が解釈を許容するのかしないのか」(p.82)というところでした。解釈を入れず単に傍線部を「翻訳」(言い換え)しているだけの選択肢があればそれを「正解」とする、というのが基本ではあるのですが、年度によってはむしろ出題者の解釈が入っている年度もあり、著者によるとそれはその年の出題者によって異なるとの由。そしてその際、それ(出題者の解釈が入っていること)を、「少しだけ文学になっている」と著者は表現しています。
センター試験が「文学」ではないことを示す(「文学」は解釈から始まるから)というのが本書の主旨ですが、その過程で、センター試験がちょっとだけ「文学」であることもあることが分かる、という本になっているのです。

その他面白かった箇所:
「作問するときには『正解』とは逆のダミーを作りがちだし、ダミーがたくさん作れないときには、苦し紛れにセットになるようなダミーの選択肢を作ってしまいがちなのである。人間は四回も嘘をつくようにはできていないものだ」(p.79)。至言。たしかに五択って単に受験生の時間を奪うためだけのシステムだし、作問者もつらかったと思います。今年度は四択になったので、嘘の重圧から一つ分だけ解放されたかな……と想像します。

最近読んだ本

高田裕美『奇跡のフォント――教科書が読めない子どもを知って UDデジタル教科書体開発物語』時事通信社、2023

フォントにも「ユニバーサル・デザイン」があることを知ったのは不勉強ながらわりと最近で、新紙幣(そういえばまだ見てない!)に使われているのがユニバーサル・フォントであると知ってからでした。
ユニバーサル・デザインのことって全然ちゃんと知らないな~、フォントや文字というものも好きなはずなのにそういえばよく知らないな~と思って読み始めました。

著者は書体デザイナーとしてフォント開発に打ち込んできた人。あるときロービジョンの子どもたちの問題を知り、さらにその後にディスレクシアの子どもたちの存在を知ったことから、専門家と連携しエビデンスを求めながら誰にとっても読みやすいフォントの開発を目指すことになります。
既存のフォントには、明朝体のはねやはらいの先端の尖りが視覚過敏の子には恐怖に感じられストレスになる等、さまざまな躓きがあることを知りました。

上記のような関心から読み始めたのでありましたが、人脈作りや周囲の人との折衝、業界や会社の事情による紆余曲折、など、お仕事本、ビジネス書としても読める本でした。
私はビジネス書ってほぼ読んだことがないのですが(自分が仕事ができないため仕事のできる人の自慢話を聞かされるようでつらい、というしょぼい理由による)、この本は「成功した人の自慢話」的な雰囲気はぜんぜんなく、子どもたちにUDフォントを届けるため、困難を乗り越えてゆく著者の一途さに最後は一緒に拍手したくなるみたいな本でした。著者は本当にフォントの仕事が好きなのやなあ、と分かる文章で、フォント作成の具体的な工程(気の遠くなるような作業の数々!)の一端が分かるのもよかったです!

ぜんぜん違うジャンルのお仕事本ですが、去年読んだ、岡崎雅子『寝ても覚めてもアザラシ救助隊』(実業之日本社、2022)を思い出しました。

著者の熱量と、それによって知らない仕事の世界を垣間見せてもらえた、という感想が同じだったので思い出したのでした。こちらは、子どもの頃からあざらしが好きであざらし関連の仕事を目指してきたという人による本で、終始著者のあざらし熱に圧倒されました。
秋草愛さん(『どうぶつのおっぱいずかん』の方!)によるイラストも可愛いです。

最近読んだ本

村田です。暑いですね。最近読んだ本シリーズです。

ミン・ジン・リー『PACHINKO』上・下、池田真紀子訳、文春文庫、2020

最初は装丁の美しさに惹かれわわー! と思っていたらば映画化もされて話題になった小説ですが、やっと最近、文庫版で読みました。

日本統治下の朝鮮半島の小さな島から始まり1980年代の日本、四世代に渡る長い物語。
自分と異なる人の人生をまるで体験したかに感じられること、書かれているのはひとり(か何人か)の物語のはずであるのにそれを通してその向こうに広がる数多の人の人生に触れたように感じられること、が小説を読むときの醍醐味だと思いますが、そういう意味で、「小説を読んだ!!」という満足感をたっぷり得られる小説でした。

日本へ渡ったソンジャが商売を始めるところはドキドキする冒険譚のようだし、ハンスは『風と共に去りぬ』とか『嵐が丘』とかに出てきそうだし(どっちも読んだの昔過ぎて話を覚えてませんが…)、全編面白いのですが、しかし「面白い」というときにひっかかるのは、多くの「日本人」読者がそうであろうように、登場人物たちの経験する苦難に自分の国の加害の歴史が関与しているから。そもそも、自死した在日コリアンの高校生が卒業アルバムに差別的な落書きをされていたという事件が作品の着想のひとつになっていることを作者は語っており、かつそうした状況は今でも無くなってはいない。上巻の帯には「いろいろな人に響く、普遍的な”救いの物語”」とあって「普遍性」が強調されていたり、文庫版解説でもわざわざ「日本人を糾弾する物語ではない」ことや善良な日本人も登場することが注記されていたり、いずれもたしかにその通りではあるのですが、こういった免罪(?)がないと、われわれ世代の日本人はこうした物語を読みづらいのかもしれないな、という懸念を感じました。

特に印象的だったところ:
・逮捕されていたイサクが帰ってくるところ
・「日本人に金を払わせるのがどれほどむずかしいか知っているかね」
・ソンジャの容貌の描写
・「両親がアメリカに渡ったときにはまだ、朝鮮半島は一つの国だったし」
・自死した高校生の遺族に春樹が会うところ
・母の、死の直前での、娘への突然の言葉

 

 

アジール論を読んでみたい(3)

引き続き『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談2 これからの「働く:を考える」で印象に残った箇所を紹介します。

まず、百木さんが紹介するアーレントの「労働=食うため」「仕事=自分を超えたパブリックな世界をつくるため」「活動=他者との対話・議論・コミュニケーションするため」の3分類のうち活動を重視する「活動的生(Vita Activa)」の考え方が紹介されます。
現代は「労働」が重視され、生産性のない人はいらないとされます。社会のあらゆる領域を経済論理、市場論理で埋め尽くそうとする新自由主義は、この感覚をどんどん推し進めます。

日本で新自由主義を乗り越えるためのヒントとして対談で語られるのが、網野善彦の描き出した「公界(くがい)」の考え方。公界は、国家や社会の主従関係などの枠組みからあふれた「無縁」の場で、神社・仏閣などの宗教施設の境内で、漂泊者、商人、行者、芸能人、遊女なども集まり、そこが「市場」になってさまざまな交換が行われていた、とされています。こういう市場だと、怪しげ(?)な人も排除されない感じ、生きていける感じがしていいですね。

現代では、新自由主義、資本主義の「外部」を、アーレント的、マルクス的、網野的、寅さん的、青木さん的にいろいろな形でつくっていくという点に、アジールの可能性が語られます。
「一つの論理だけで社会を埋め尽くされてしまうと、あっという間に全体主義になってしまう。気をつけなくてはいけないと思います」という対談の最後の百木さんの言葉は、心に留めて、活動していきたいな、とあらためて思いました。 (紹介:古藤隆浩)

 

アジール論を読んでみたい(2)

今回は『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談6 ぼくらのVita Activa-マルクス・アーレント・網野善彦」を紹介します。

アジールとは、本書では「時の権力が通用しない場」、数値化やそれによる序列が優先される現代社会(此岸)において「そうでない原理が働く場」(彼岸)です。そして、彼岸と此岸、生産と消費、生と死、男と女、昼と夜、右と左、敵と味方、文化と自然、秩序と混沌のような「2つの原理」が補完しあっていること、その2つの間を行き来することの大切さ、寅さんがその代表例であることが本書の冒頭で述べられます。

京都アカデメイアの監査役・百木漠さんと青木真兵さんの対談6では「いかに楽しく日々を生活できるか」を考えるときに、網野善彦の「アジール」、マルクス的な「脱成長・脱資本主義」、貨幣と商品交換に取り込まれない「コモン(共有地)」がヒントになることが語られます。

百木さんが提唱する「欲望の方向性や質を、物質的・消費的なものから文化的・学問的なほうに転換していく」という方向、人間がどうしても「過剰なもの」を作り出してしまう(バタイユ)とき、それを戦争や宗教や貨幣・商品に向かわせず。文化的・学問的豊かさを含めた別の方向に向けることは、とても大切な気がします。青木真兵さんが東吉野村で大学中心とは違う仕方で人文知を開こうとしている私設図書館ルチャ・リブロをはじめ、この京都アカデメイアの活動もその一つでしょう。

聖と俗、健常と障がい、中心と周縁、都市と農村など2つの原理を行ったり来たりする人をもっと増やすこと、2つが分かれていながらもたまに交じりあったり、入れ替わったりを増やすことも提唱されています。この世のゲームの外に出て別のゲームを始めることは容易ではありませんが、この対談では「山」というコモン、自然のなかで人間が住める場所を見つけて住まわせてもらっていることに着目します。不便な山の中ならば欲望の暴走を防げそうです。余地・余白がある場所を増やせば、2つの原理を行き来できる人や時間を増やせそうです。

アジールも2つの原理の行き来も、寅さんのように生き方で示していくしかないのかもしれません。同じく百木さんと青木さんの本書の対談2では、寅さんのことがより詳しく述べられ、網野善彦の扱った中世では「無縁」が社会のしがらみから逃れる点で価値をもっていることも述べられます。無縁と有縁も行ったり来たりできると楽に生きられそうですね。   (紹介:古藤隆浩)

【京都アカデメイアの過去ページにも、アジールの紹介があります】
アジールの現在と未来

最近読んだ本

こんにちは。村田です。すっかり暑くなりました。最近読んだ本紹介シリーズです。

・繁田信一『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー、2018)
・藤野裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書、2020)

暴力つながり(?)で選んでしまい禍々しい感じになってしまいました。しかし、内容はいずれも真面目な良書です。

『殴り合う貴族たち』は、2005年柏書房から、2008年角川ソフィア文庫から出たものの増補改訂版。今年の大河ドラマとの関連で話題になっており、タイトルが面白そうだったので読みました。
平安時代の貴族といえば雅やかでお上品なイメージであるが、それに反して実際は盛大に乱闘したり下々の者に暴力をふるったりそれをもみ消したりしていたのだ、という本でした。『小右記』などに基づくエピソードが事件録のような形で収録されています。仕事で平安期の古典に触れることが多いのですが、優美な文化を担っていた人々が一方でこんなことしてはったんやなあ、と勉強になりました。

種々の暴力記録の中、広義の暴力というべきか、法成寺や道長の邸宅を建造するため平安京(の民たちの生活)が破壊されたという話が特に印象に残りました。現代の諸々と重なったからかもしれません。

『民衆暴力』は、明治~大正期の4つの出来事(新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺)を取り上げ、民衆による暴力の諸相を考察してゆく本。2021年の新書大賞にも選ばれたそうで、大変良い本でした。

現代、暴動って言葉は「もう暴動でも起こしたいわ(※起こさない)」的な決まり文句専用のもののようになってしまっていて、すっかり暴力は権力に集約化されている……ことにすら気づかないほど。そんな中、かつての民衆による暴動や騒擾は、野蛮なものとしてイメージされる一方権力への抵抗として称揚されたり憧憬されたりもします。そういや私も子供の頃に社会で「一揆」とか「米騒動」とかを習ったときは「かっこええ~!!」とテンション上がった記憶があります。しかし本書は、単純に野蛮なものでもなければ単純に称揚されるべきものでもない民衆による暴力の諸相を描いてゆきます。

たとえば、第1章で取り上げられる「新政反対一揆」は、上から押し付けられる新たな規範への反発であったという点で権力への抵抗といえます。実際ひと頃の研究では、民主主義的で進歩的な闘争として評価されていたそうです。しかしその過程では「異人」をめぐるオカルト的な流言があり、さらに、支配者に対する暴力だけでなく、「賤民廃止令」によって解放されようとしていた被差別部落の人びとへの酷い暴力が起こりました。この理由を本書は、もともとの差別意識に加え「異人」への不安が他者の排除へ転化したのでないかとしています。何かが変わりゆく中で誤ってマイノリティが権威と同一視され攻撃の対象となるのは、現代も同じかもしれません。

関東大震災での朝鮮人虐殺を取り上げた第4章・第5章は、弱者への一方的な暴力であるという点で第3章までのテーマとは一見異なるように見えますが、本書で最も読まれるべき章と思います。それに、マイノリティを攻撃者と見なしてしまうメカニズムは第1章に書かれたそれと相似であるし、虐殺の主体となったところの自警団の結成は第3章で触れられています。

この出来事は、災害下でパニックに陥った民衆の流言による、とされがちですが、実際には軍隊や政府の主導がありそれが暴力のハードルを下げたこと、その後に証拠隠滅の指示があり民衆による犯行だけが裁かれたことがまず書かれています。そのうえで、日本の民衆がいかなる論理で虐殺に至ったのかを、実際に記録された証言などから拾ってゆきます。
本書はそれを心理学的に分析する本ではないですが、そこに見られる「投影同一化」のような心理(攻撃している側なのに攻撃を受けている側であるように感じる)や報復を恐れるゆえにより殺害を進めるしかなくなってしまうというメカニズムは、現代でも他人事では無いものだと思いました。

さらに、このできごとの中で、朝鮮人を保護した人びと、知り合いは保護したが見ず知らずの相手の虐殺には加わった人びと……とさまざまな行動を取った者がいたことが記されます。朝鮮人への暴力が警察署への暴動に転じた事件なども。「権力に抵抗する民衆」か「被差別者を迫害する民衆」か……「こうした事実は、そのように民衆像を二分させて歴史を捉えることには問題があるのだと教えてくれる」(p.200)。

また、暴力の被害者を完全に無力な客体と見なすのでなく、その抵抗の痕を探ろうとする姿勢も本書の特徴でした。
コロナ禍の中の執筆の大変さや迷いが伝わるあとがきも良かったです。

 

 

アジール論を読んでみたい(1)

皆さんは「アジール」にどんなイメージをお持ちですか? 時の権力が及ばない場所? 世間の価値観とは違う場所? 網野善彦の中世史の縁切寺、楽市楽座、芸能民、無縁・非定住のイメージ?

京アカ以外に居場所妄想会という活動に参加している私は、最近、自分でアジールをつくりたいのかな、と思い始めました。そこで検索をかけると京アカ・舟木徹男理事長のアジールに関する著作も出てきました。まず、手始めに、

舟木徹男著 「第7章 精神の病とその治療の場をめぐる逆説――アジール/アサイラム論の観点から」(松本卓也・武本一美編著『メンタルヘルスの理解のために』ミネルヴァ書房、2020 所収)

を読んでみました。感想メモを記しておきます。

舟木氏は本稿でアジールの主な機能として「庇護」(不可侵の避難所)と「治癒」(聖なるものにふれて癒される場)をあげます。そして、狂気の庇護と治癒の場としての「精神科病院」が「アジール」の英訳語の「アサイラム」とも名付けられていることに着目し、そこに2つの逆説が隠されていることを示唆します。

1)自由で非権力的で平和な「アジール」が管理的・抑圧的な「アサイラム」に転化すること。

2)管理的な「アサイラム」(病院・監獄)が病者にとって現実社会からの庇護をもたらす「アジール」に転化すること。

この逆説を私たちはどう考えればよいのでしょうか。アジールづくりの実践のなかで、今後追求してみたい課題です。

本章には他に「刑法39条・医療観察法」「社会的入院と世間」の課題が、本書他章には「岩倉の精神医療」「スピリチュアルペイン」など他書ではあまりお目にかかれない視点が書かれていて、精神障がいにも関心のある私にはおもしろく読めました。

本章を導入にして、オルトヴィン・ヘンスラー 著 舟木徹男 訳・解題『アジール―その歴史と諸形態』  (国書刊行会)を読み解き、現代のアジールの実現の可能性/不可能性を考えてみたい、と思っています。(文責・古藤隆浩)