批評鍋 第10回の今回は「ヤンキー論」をテーマに、斎藤環、『世界が土曜の夜の夢なら』,『ヤンキー化する日本』について話し合いました。
参加者:
浅野直樹
岡室
大窪善人
浮網
百木漠
議論の内容はyoutubeに上げているので、ここでは議論を経て私(大窪)個人の考えたことを書き留めておこうと思います。
批評鍋録音(高音質版)
▼なぜ今ヤンキー(論)なのか
最近、「ヤンキー」が批評業界のキャッチ・ワードの一つになっている。今回取り上げた斎藤環、『世界が土曜の夜の夢なら』『ヤンキー化する日本』(いずれも角川書店)の他、原田曜平、『ヤンキー経済』(幻冬舎)、難波功士、『ヤンキー進化論』(光文社)など、ヤンキーについて論じた書籍が相次いで刊行されている。もちろん、それぞれの書物のアプローチや観点は異なるが、いずれもヤンキーを主題としている点では共通している。
ところで、ここで、関心を惹かれるのは、論壇のいくぶん総体的状況としてヤンキーに関心が集まっているという現象がどうして現れてきているのか、ということの方にある。というのは、ヤンキーは別に昨日今日現れてきた新しい現象ではないからである。日本のヤンキー≒不良文化は、遅くとも1980年代には確認されている。だから、そのような特段新しくもない「ヤンキー」という現象が、新しい装いでもって”再注目”されるのはどうしてなのか、ということが問われなければならないだろう。
▼ヤンキー=反知性主義?
そもそも「ヤンキー」とは何を指して呼ばれるのだろうか。斎藤環氏は著書の中でヤンキーの定義を行っている。それによれば、ヤンキーを特徴づける要素として、バットセンス(悪趣味)、コミュニケーション強者、気合主義、道徳性、反知性主義、ホンネ主義、ポエム・感情主義、今ここ主義、保守主義などが矢継ぎ早に列挙されている。
サブカルチャーの文脈では、矢沢永吉やX JAPAN、EXILEなどが代表的なアイコンとして挙げられる。他方、そうした傾向は、特定の階層・サブカルチャーに限定されるのではなく、ある意味で日本文化ないし日本人の意識構造の基層を規定している、というのが斎藤氏の観点である。
たとえば、戦中において今や悪名高い「インパール作戦」を指揮した陸軍中将の牟田口廉也は、兵站を度外視して、食料がなくても、弾薬がなくても、銃剣がなくても、最後には”大和魂”があると言って下士官を鼓舞し、その結果7万人もの飢餓・病死者を出した無能な軍人として歴史に記された(だがそれが当時通用したという事実の方が重要である)。また、戦後自民党政治を代表する政治家 田中角栄は利益誘導や金権政治のような「ムラ社会的」文化を体現してみせた。一見無関連に見えるこれらの人物だが、斎藤氏によると、彼らに共通するのは、論理や知性とは相容れないような、ヤンキー的要素を持っていることだという。加えてここに、問答無用に郵政改革賛成か反対かの決断を迫った小泉純一郎、あるいは大阪市市長 橋下徹なども加えられるという。
ひとまず、こうした斎藤氏の見立てを前提に置くとすれば、ヤンキー(性)にとって重要な要素の一つは「反知性主義」ということになるだろう。ここでいう反知性主義とは、平たく言えば、一般に知性や知識を信頼しない心性ないし傾向性のことである。ところで、何かを否定するということは同時に別の何かを肯定することでもある。それではヤンキーないしヤンキー性に親和的なかれらは知性を否定する代わりに一体何に対して信頼を置くのだろうか。それは、意志、すなわち「気合い」である。
▼「オタク」から「ヤンキー」へ―普遍的なものへの別のかたちでの挫折
1980年代から2000年代にかけて、日本の若者文化において最も注目を浴びた存在は、おそらく「オタク」だろう。オタクに対する一般に膾炙したイメージを再確認しておくと、マンガやアニメ、ゲームといったサブカルチャーに耽溺する若者たちのことである。オタクほどヤンキーから遠い(と思われている)存在も他にないだろう。しかしながら、逆に、ある種の共通性も見いだせるようにも思われる。では、その共通性とは一体何なのか。
たとえば、オタク趣味のひとつに鉄道というジャンルがある。一般には彼らは「鉄道オタク」と呼ばれるが、その志向は、車両を対象にしたものから、写真、切符、時刻表収集、汽笛や車内アナウンス、鉄道設備の研究・収集など多様である。
また、別の例としては、90年代にオタクを中心に一大ブームとなり、現在も続編が制作中であるアニメーション『新世紀 エヴァンゲリオン』を挙げることができる。もちろん、メインキャラクターやヒロインたちの人気にも牽引されているということは言うまでもないが、ここで注目すべきは、作中で描かれる「電線」や「高圧鉄塔」などに対するフェティッシュなまでの描写である。あるいは、物語の舞台となる「第3新東京市」が敵の襲来を迎え撃つ際に、武装したビル群が地面からせり上がる様子の細密な描写である。
こうした例から引き出すことができる含意は、オタク文化には「現在」、「今この場所」を相対化するような強烈なモメントを見出すことができるということだ。交通手段としての鉄道は「現在」を空間的に相対化し、経済成長を連想させる鉄塔やビル群の屹立は「現在」を時間的に相対化する。そして、それらは、煎じ詰めて言えば、ある意味で普遍的なものを先取りするようなかたちで行われる。
しかし、他方で、オタクに対する典型的なイメージの重要な要素として、オタクが極めて限定された趣味空間の範囲でしか関心を持たない、というものがある。その直感をそのままベタに受け取るならば、つまり、オタクの趣味空間における情報の蓄積や利用といったものは、その上位の水準における意味的な保障を全く必要としないということになるだろう。言い換えると、オタクたちの趣味は、ある種の普遍的なものへの回路が開かれている、あるいは、それを志向する要素と結びついているにもかかわらず、しかし、それは達成されることなく、結局のところ個別の趣味の領域において閉じていってしまうのである。
▼「土曜の夜の夢」から「月曜の朝の憂鬱と希望」へ
では、他方でヤンキーの方はどうだろうか。ヤンキーにも「今ここ」を相対化する要素はある。というよりも、むしろそのような傾向こそが一方でヤンキーのヤンキー性を規定していると言っても過言ではない。それを理解するには、なぜヤンキーが「バッドセンス」(古い言い方では「つっぱり」)に拘るのかを考えればよい。その理由は「今ここ」つまり現状に対する不満であろう。マンガやアニメなどにおいてたびたびヤンキー的なキャラクターが主人公に選ばれる理由もそこに求めることができる。なぜなら、「今ここ」を相対化する視座こそが物語の進行を動機づけうるからである。あるいはそこにヤンキーと「伝統」文化との強い結びつきを付け加えてもいいかもしれない。
しかし、そうした性格を持つと同時にヤンキーは保守的な傾向を持つとも定義される。それは具体的には、現に存在する家族や仲間、土地、あるいは絆に対する固執に端的に現れている。つまり、ヤンキーもまた、「今ここ」を相対化する志向を持ちながらも、ある意味でそれに挫折するのである。
さて、ここでようやく、最初に立てた問い—なぜ今ヤンキー(論)なのか—に対する暫定的な答を得ることができる。ひとまずは、オタク論とヤンキー論の時系列的な関係注目したい。つまり、オタクが注目された後にヤンキーに対する注目度が高まってきたという順番がポイントである(ところで、斎藤環氏もかつてオタクについて盛んに論じていた)。人々がヤンキー論に注目するのは、それがもしかすると「今ここ」を相対化してくれるかもしれない、と期待した、少なくとも、そうした欲求が背景にあったからではないだろうか。だが、もちろん、そうした見通しは現時点においては過大な要求に思えるのだが。
大窪善人