月別アーカイブ: 2024年5月

宮本輝『灯台からの響き』のなかの森鷗外『渋江抽斎』

6月1日(土)20時からのオンライン輪読会で読み始める森鷗外『渋江抽斎』が、
宮本輝『灯台からの響き』(集英社)という小説に出てくると知り読んでみました。

主人公(康平)が友人から薦められて読み始めるくだりでは、
「実在した渋江抽斎という江戸時代の学者の周りにいた人々の履歴や、どうでもよさそうなエピソードや、その係累のそれぞれの個性や特技などが事細かく描かれていて」
「退屈で、……何回その文庫本を放り出そうとしたかしれない」
「だが、最後の数ページにさしかかったときき、康平は、ひとりの人間が生まれてから死ぬまでには、これほど多くの他者の無償の愛情や労苦や運命までもが関わっているのかと……」
という紹介でした。

その他の箇所でも
「自分が知り得たものをありのままに書いたればこそ、優れて史伝文学となった」
「『渋江抽斎』のように調べに調べて書いたら……」
「『渋江抽斎』は、夥しい死というものの羅列と言ってもいいくらいだ。……しかし、死んでも消えないものを残していく」
などの記述があります。

渋江抽斎やそのまわりの人々への森鷗外の関心を、輪読会で一緒に読む人たちや自分の関心と重ね合わせれば読み進められる!?
予習不要な輪読会ですので、『渋江抽斎』じたいはその場で味わおうと思います。
お気軽参加者募集中。ご関心のある方は京都アカデメイア kyotoacademeia@gmail.com まで。

6月1日(土)20:00より、森鴎外『渋江抽斎』の輪読会を始めます

京アカオンライン輪読会では6月1日(土)20:00より、森鴎外の史伝『渋江抽斎』の輪読会を始めます。どなたでも参加できます(無料)。
予備知識も予習も不要、一回だけの参加も歓迎です。本は各自でご用意下さい。お問い合せはkyotoacademeia@gmail.comまで!

森鴎外の史伝『渋江抽斎』

 

『昭和史 新版』読み終わりました

京アカオンライン輪読会は昨年12月からの 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史 新版』(岩波新書、1959年)が5月18日で読み終わりました。「新しい戦前」というコトバも使われ出しているこの時期に京アカのメンバーと読め、考えを深める楽しい時間を過ごせました。個人的にいまとくに印象に残っている内容は下記の6点です。

・明治維新以来の「帝国主義」~国外の植民地・領土を増やしていくことが豊かになる道という価値観(満州の夢!)が、農村の凶作、世界大恐慌などでリアルに感じられていたのか。

・自由民権運動の流れを汲んだ大正デモクラシーの時期はいまと遜色ない進歩的・民主的思想や軍縮思想も生まれていたが、政府側がコソコソと少しずつ進めてきた団体活動の取締や新聞雑誌や個人の思想への統制のために、開戦、国家総動員体制に公然と異を唱えることができなくなった。

・張作霖爆殺、盧溝橋事件、五一五事件など軍部の「やったもの勝ち」を許してしまう、だらしない政党政府・藩閥政府内部のパワーバランス。二二六事件で鮮明になる陸軍の皇道派と統制派の争い。ノモンハン事件、ミッドウエー海戦、ガダルカナル敗退などの敗戦が現場からきちんと伝えられず失敗をかくす風土など、組織のあり方。

・陸軍内部の教育、北一輝などの右翼思想、吉野作造の民本主義、大杉栄のアナーキズム、京都学派の哲学など当時の思想を原典で読んでみたくなった。

・戦争に負けてアメリカの占領を歓迎したのもつかの間、中華人民共和国建国、朝鮮戦争の時代から、アメリカの要求をどうかわすか呑むかの国際政治のかけひきをしていたが、近年どういう外交政策を日本政府がとろうとしているのだろうか。

・総じて、現代の政府や組織のあり方は、当時を思い起こさせるものが多い。

「新しい戦前」というコトバが予言の自己実現機能を果たさないように、失敗を知り、失敗から学ぶことが必要ではないかとあらためて感じさせられました。昭和史に思いをめぐらす時間をいただき、ありがとうございました。(文責・古藤隆浩)

アジール論を読んでみたい(1)

皆さんは「アジール」にどんなイメージをお持ちですか? 時の権力が及ばない場所? 世間の価値観とは違う場所? 網野善彦の中世史の縁切寺、楽市楽座、芸能民、無縁・非定住のイメージ?

京アカ以外に居場所妄想会という活動に参加している私は、最近、自分でアジールをつくりたいのかな、と思い始めました。そこで検索をかけると京アカ・舟木徹男理事長のアジールに関する著作も出てきました。まず、手始めに、

舟木徹男著 「第7章 精神の病とその治療の場をめぐる逆説――アジール/アサイラム論の観点から」(松本卓也・武本一美編著『メンタルヘルスの理解のために』ミネルヴァ書房、2020 所収)

を読んでみました。感想メモを記しておきます。

舟木氏は本稿でアジールの主な機能として「庇護」(不可侵の避難所)と「治癒」(聖なるものにふれて癒される場)をあげます。そして、狂気の庇護と治癒の場としての「精神科病院」が「アジール」の英訳語の「アサイラム」とも名付けられていることに着目し、そこに2つの逆説が隠されていることを示唆します。

1)自由で非権力的で平和な「アジール」が管理的・抑圧的な「アサイラム」に転化すること。

2)管理的な「アサイラム」(病院・監獄)が病者にとって現実社会からの庇護をもたらす「アジール」に転化すること。

この逆説を私たちはどう考えればよいのでしょうか。アジールづくりの実践のなかで、今後追求してみたい課題です。

本章には他に「刑法39条・医療観察法」「社会的入院と世間」の課題が、本書他章には「岩倉の精神医療」「スピリチュアルペイン」など他書ではあまりお目にかかれない視点が書かれていて、精神障がいにも関心のある私にはおもしろく読めました。

本章を導入にして、オルトヴィン・ヘンスラー 著 舟木徹男 訳・解題『アジール―その歴史と諸形態』  (国書刊行会)を読み解き、現代のアジールの実現の可能性/不可能性を考えてみたい、と思っています。(文責・古藤隆浩)

最近読んだ本

村田です。最近、連続して韓国の小説を読んだので紹介します。どれも話題作だったものです。

● ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』加藤慧訳、イースト・プレス、2022.

原著は2019年。作者・訳者ともに1986年生まれ。

別れた彼女が知らないうちに「メガル」(先鋭化したフェミニストを指す韓国のネットスラング)になっていた! という話。韓国の若者風俗やネット事情が分かるのが良かったです。
「僕」は「イデオロギーとしての『フェミ』には理解を示さないが悪いやつではないし共感力もある」みたいな男性像でリアルでした。「僕」の視点から「彼女」の様子が描かれるのですが、「僕」の一人称語りを徹底することで彼女の内面に直接触れられないようになっているのが面白かったです。

物語の本筋には関係ないかもしれない細かいところですが、印象的だったのは「課長」の話。「彼女」が「課長」の話を始めたとき私も男性をイメージして読んでしまっていて、ここで自分もジェンダーによる固定的イメージ(「管理職=男性」)にとらわれてた!と気づいてはっとなったのでした。多くの読者もそうではないかな? とすると、本書を読む人は「フェミ」寄りの意識の持ち主が多いと思われますが、ここで語り手の意識に沿うことができるようになっているのかなと思いました。(まあ最初から非男性を想定して読んでいた人もいるかもですが……)

 

● チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』斎藤真理子訳、ちくま文庫、2023.

原著は2016年、ハードカバー版邦訳は2018年。映画にもなった(未見)話題作ですが今更読みました。ヒット作なのでもっとポップな小説なのかと思ったら、こんな本だったのか!と吃驚。

ひとりの女性「キム・ジヨン氏」の半生と家族の歴史が淡々と語られるのですが、何か目立った大事件は起きません。大きな不幸や珍しい不運もなく、大学にも進学できて苦労はしたが就職できて善良な男性と結婚したキム・ジヨンは、どちらかといえば恵まれた人に見えます。しかしその人生の中にいくつも、女性であるゆえに蒙らざるをえなかった理不尽が潜んでおり、註の形で付された歴史的背景や統計資料により、それが彼女ひとりの問題ではないことが浮き彫りにされます。

「キム・ジヨン」は1982年生まれの韓国の女性に最も多い姓名とのこと。私はジヨンよりやや年上ですがほぼ同世代。ジェンダーをめぐる日本と韓国の事情は、よく似ているところと異なるところがあると思われますが、自分にも覚えのある出来事や思いがいくつもありました。そうした「あるある」ゆえのヒットなのでしょう。「お母さんは自分の人生を、私のお母さんになったことを後悔しているのだろうか」という前世代の女性である母への思い。品質が向上する以前の生理用ナプキン。学校やバイト先でのセクハラ(些細であるゆえに告発しづらいものも含む)。存在はするのに使うのに気が退ける制度(戸主制度はなくなったのに特別な理由のない限り母方の姓は選びづらい)。などなど。
物語は、ジヨンの解離のような憑依のような症状(?)から始まるのですが、その症状の中で複数の女性が現れるのは、本作が多くの女性の物語になっていることの隠喩のようであるなあと思いました。

文庫版では、作品の歴史的背景、作品発表時とその後の韓国でのフェミニズムの状況、また作品内の或る仕掛けについての解説が付されています。

 

● ハン・ガン『菜食主義者』(新しい韓国の文学01)、きむふな訳、クオン、2011.

「韓国で最も権威ある文学賞、李箱(イサン)文学賞を受賞」したという作品です。原著は2007年。

表題作に続き「蒙古斑」「木の花火」の連作で、主人公である主婦「ヨンヘ」を巡る話が、それぞれ異なる登場人物に視点をおいて描かれます。

表題作はヨンヘの夫の視点から書かれ、「妻がベジタリアンになるまで、私は彼女が変わった女だと思ったことはなかった」という一節から始まります。平凡で地味な主婦であった「ヨンヘ」はある時から突然肉食を拒絶するようになります。それまで普通に肉料理(これらの描写が皮肉にも実にうまそう!)も作っていたというのに。

今回読んだ三作は(話題作ということで読んだので特に意図をもって選んだわけでないのに)偶然にもすべて、「変わってゆく女を男が眺める」という図式になっていました。『僕の狂ったフェミ彼女』は、普通の可愛い女から「メガル」になってしまった彼女を「僕」が眺め、『82年生まれ、キム・ジヨン』は、突然憑依を起こした妻を夫が眺め、本作では「菜食主義者」になってしまった妻を夫や父が苛立ちとともに眺める。

しかし本作でヨンヘがなろうとするのは、実は単なる「菜食主義者」ではなく、その肉食拒否は明確な理由は語られません。彼女が志向するのは植物への生成変化のようなものであることが連作の中で明らかになってゆきます。自分の身体が(というか身体があることが)厭で仕方なかった十代の頃に読んだらばより共感したであろうなあ、と思いながら読みました。どうやら食が「家族」と結びついているらしい点、ヨンヘの生成変化がそこからの離脱であるらしい点も。「木の花火」では視点がヨンヘの姉に移るのですが、この姉妹の関係は、どこか少し小川洋子『妊娠カレンダー』を思い出させました。

 

最近読んだ本

こんにちは。暑くなったり涼しくなったりの日々ですね。
今年は京アカブログにたくさん投稿しようと思いつつ既に挫折しておりましたが、最近読んだ本の紹介です。

白石良夫『古語の謎――書き替えられる読みと意味』中公新書、2010.

インパクトのある帯が気になって読みました。
帯の通り、第一章は、万葉集の柿本人麻呂の歌、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の謎の探索から始まります。
有名なこの歌はしかし『万葉集』では「東野炎立所見而反見為者月西渡」と表記されており、もともと何と詠まれていたかは分からない。実際にかつては「東野」を「あづまの」とするなど異なる訓で読まれていたのに、18世紀以降に現在の訓が定着した、とのこと。謎解きのようにその過程が探られていきます。

第二章以降はそれぞれ別のトピックが扱われているのですが、全体を通して分かることは、江戸期の古学・国学の役割とその影響力。
「文献を考証して古の言葉を知ること=オリジナルへの遡及」という考え方が提唱され、古の言葉を知るだけでなくそれを使いこなすべしとされ、かつそれが一般化する中で、「江戸時代に生まれた架空の古語」のようなものも登場します。古に遡及しようとする中で、偽書や贋物が現れたことも。しかし、そうした贋物を単にけしからん紛い物とするのでなく、学問の副産物としてポジティブにとらえその存在ごと歴史資料として認めようとするのが、本書の面白いところでした。

日本文献学の営みを問い直す終章では、「オリジナルこそ最も尊重すべき」とする考え自体が問われます。私は実は大学時代は国文科だったのですが、本文異同を検討したり註を付けたりという文献学的な授業を受けながら「自分が何を教えられているのかよく分からない」完全なる劣等生であったので、本書を通して少し、「あれはああいうことだったのか」と分かった気がします。

ところで贋物といえば、これも終章で扱われている「神代文字」の話は個人的に大好きなのですが(胡乱なものや架空の文字が好きであるため)、「神代文字」で検索すると夥しい書籍やウェブサイトがヒットしてしまい、未だ真面目に扱われ(たり商売に使われたりし)ていることが分かります。