月別アーカイブ: 2016年7月

堀内進之介 『感情で釣られる人々』:カモられないための戦略とは?

大窪善人


 
ポケモンGOと都知事選

先日日本でも配信が始まったスマートフォン・ゲームアプリ「ポケモンGO」。またたくまに社会現象を巻き起こしており、22日のニューヨーク・タイムズによると、配信初日だけで国内で1000万人の人がアプリをダウンロードしたといいます。東京に住んでいる人のほとんどがポケモンで遊んでいる、と喩えると規模の大きさがわかります。

都知事選の候補も、ポケモンGOの影響力を無視できなかったようです。ある候補者は街頭で、「ポケモンを探しに外に出たついでに(?)投票にも行ってほしい」と呼びかけたほど。完全に話題をポケモンに持って行かれた格好です。
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【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅳ期)】

今日は第Ⅳ期「ヨハネ黙示録」の初回。キリスト教学がご専門の波勢さんがイントロダクションのレクチャーをして下さいました。ヨハネ黙示録についてはあらゆる点で分からなかいことだらけで諸説入り乱れているということがたいへんよくわかるレクチャーでした。そして今日の参加者は何と12人!最多記録を塗り替えました。次回からいよいよ本文の輪読に入りたいと思います。次回は来週7月23日(土)10:00~@京大本部時計台下サロンです。どなたでもご参加ください。飛び入り参加・飛び石参加歓迎です!

ジジェク『大義を忘れるな』:「他者」に背いて他者を救う

大窪善人


 
非常識な友情?

本書はスロヴェニア出身の哲学者 スラヴィオ・ジジェクの著作で、内容は、現在グローバルに展開する資本主義、先進諸国で行き詰まりをみせる民主主義の問題について、毛沢東からロベルピエール、スターリン、チェ・ゲバラなどの革命家、そして、フロイト・ラカンやマルクス、ヘーゲル、ハイデガーといった名だたる思想家・哲学者の議論を、彼独特のスリリングな語り口でもって、批判的に吟味しながら検討していきます。

ところで本書にはユニークな謝辞が添えられています。
おもしろいのでそのまま引用しておきます。
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高橋哲哉『沖縄の米軍基地』:哲学的な側面から考える

大窪善人


 

今年4月に沖縄県うるま市で発生した女性殺害遺棄事件。後日、在沖米軍関係者が逮捕されたのを受けて、改めて沖縄の米軍基地の問題に注目が集まっています。

「米軍よりも日本人による犯罪の方がずっと多い」といった声もあるようですが、しかし、事件への注目がもっている象徴的な意味を見過ごしています。ほんとうの問題の核心は、「沖縄に米軍基地が存在する」ということ、これでしょう。

翁長県政の誕生と「オール沖縄」で米軍基地反対の運動が高まるなか出版されたこの本は、沖縄の声に応える形で、在沖米軍基地の県外移設を主張します。なぜ基地を本土が引き受けねばならないのか、そして現実的に可能なのかなど、議論には非常に説得力があります。

ところで、高橋さんは哲学者J.デリダの研究者として有名な方で、本の中でもたびたびデリダの名が出てくるのですが、あくまでも政治的な議論に禁欲されているという印象です。ですが、内容をより深く理解するためにも、今回はあえて哲学的な側面から考えてみることにしましょう。

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7月29日 第10回Academeia・cafe「やらない善か、やる偽善か」を開催します。

7月29日金曜日の午後8時から、カモガワラボさんで第10回Academeia・cafe「やらない善か、やる偽善か」を開催します。

古来より善とは倫理学の最も重要なテーマであり、多くの人が善について考えてきました。また近年では震災ボランティアの普及、増加を通して善と偽善という問題は話題になっています。古くて新しいこのテーマについて一度ざっくばらんにお話ししてみませんか?

〜Academeia・cafeとは〜

Academeia・cafeとは日常の中に眠る気になる話題に対して、少しだけ掘り下げて考えてみようという試みです。哲学カフェという名前で全国各地で幅広いテーマで行われています。京都アカデメイアでも学びの場の提供の一環としてAcademeia・cafeを開催しています。実践哲学的試みですが前提知識は一切不要、誰にでも開かれた場を提供していきたいと考えています。

<第10回アカデメイアカフェ>
日時:2016年7月29日(金)午後8時~9時半頃
会場:カモガワラボ(〒604-0000 京都府京都市上京区駒之町, 京都府京都市上京区中町通丸太町下がる駒之町561-4, 河原町スカイマンション 105、京阪神宮丸太町駅から河原町通りへ徒歩5分)
参加方法:ドリンク一杯で参加できます。途中入退出も自由です。当日 直接会場までお越しください。
主催・協力:NPO法人京都アカデメイア/カモガワラボ

 

 

【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期):継承といふこと】

今日は各方面の学会が開催されている関係で、聖書読書会には不参加の方が多く、私と久しぶりにいらしたTさんの二人のみ。ルター『キリスト者の自由』の続きを読む。読んでいるうちに、本書タイトルの「自由」がいろんな意味合いで使われていることに気付く。ある場合には律法の拘束からの自由、あるときは信仰によって得られる原罪の重荷からの自由、あるときはAもBも選べるという自由意志における自由、ある場合には「自発性」という意味での自由。これら多様な意味の「自由」がルターの中でどのように関連しているのかを見極めるのがこの本の読み方の要諦なのでは、と思った。要再読。
また、今日はいったん信仰によって救いを得た人が隣人に対してどう振る舞うべきかということについて述べた箇所に入った。こういう箇所にくるといつも疑問に思うのは、自分の信仰を「布教」したいという願望とはそもそも人間のいかなる願望なのか、ということ。もちろん鎮守の森の神道のように布教しない宗教もあるが、救済宗教は基本的に布教する。素朴に考えれば「救済」という恵みを体験した人間が、かつての自分と同種の苦悩を抱える他者にもそれを分かち合ってほしい、という動機から布教するのだという説明にはなろう。
しかし、人間はどんな場合にも自分の体験した恵みを他にも分かち与えたいと思うわけではない。分かりやすい例で言えば、ビジネスチャンスなどは、他に教えることで自分の利益の分け前が減る可能性があるから、しばしば独占される。また、以前プロの格闘家の先輩が「自分が現役でいる間は、たとえ弟子にでも得意技のコツの本当の大事な部分までは詳しく教えられないが、引退すれば遠慮なく教えられる」と言っておられた。勝負の世界だから、これも当然のことと思う。また、自分が競技者ではなくても、心理的な抵抗(ライバル心)からよきものを共有できないこともあるだろう。あるピアノの先生が「よきピアノの教師になる必須の条件は、自分の弟子が自分よりうまくなることを心から喜べるようになることです。自分もこの壁を乗り越えるのが本当に大変だった」という意味のことを書いておられるのを読んで、うーんそれはいかにも大変そうだ、と思った覚えがある。
また、表向きは他者に恵みを分かち与えるため、とは言いながら、実際にはそれが権力欲・支配欲の発露である場合もある。その際、自分が選んだ道の正当性に密かに疑問を持っているときほど、その不安ゆえに、他者にもそれを受け入れることを強圧的に要求することになる。納得のいかないまま家業を継承し人が、わが子に同じようにそれを踏襲させようとする場合のように。もっとひどいのは、本音は金銭欲なのに「この良い商品をみんなに知ってもらってみんなに幸せになってもらいたくて」と言って子ネズミを増やそうとするマルチ商法。あれでも言ってる本人は案外それを本気で言ってると信じてそうなところが怖い。
宗教の布教の際にも、布教を本心ではためらうこうした気持ちや、自己正当化・権力欲(さらには金銭欲)が幾分かの割合で混ざっていること(あるいはそれが大部分であること)は多いと思われる。最初はそうでなかったところにこうしたものが入り込んでくるようになることもあるだろう。とはいえ、そうした諸々のものとは区別される、「自らが経験した恵みを分かち与えたい」「分かち合わねばならない」という純粋な使命感、布教願望というものがあると思われる。そうでなくては命を賭してまで布教する人々の存在が説明できないだろう。その願望とは何か?
それがわからなくていつもグルグル回っているわけだが、今日はルターを読みながら、学生時代にやっていたスポーツでの「技の継承」を願う気持ちが(むろん強度はまるで違うが)少しそれに近いのかもしれない、とフト思った。人間が「とほうもない恵み」と思える経験を享受した場合、「自分のところで絶やさずに継承してゆく責務がある」という気持ちになるのではなかろうか。その気持ちがどこから来るのかはこれまた難しい問題だが、布教の願望がそれに通じるところがあるのは確かだろう。
精神分析では、分析家の養成のための分析(教育分析)と患者の治療の分析に本質的な区別を設けない。言い換えれば、分析家となるためには患者として分析を体験しなくてはならない。以前に親鸞にとっての法然との出会いやペテロにとってのイエスとの出会いを「スーと近寄って来た渡し船にひょいと乗る」ような体験なのではないかと書いたが、それについて知人がラカンの分析家養成の仕組みであった「パス」も「渡し船」と同じ語だと教えてくれた。とすれば、布教も精神分析も、自分が渡し船に乗って向こう側に渡ったのち、同じ経験を伝承すべく今度は船頭になって向こう岸から元の岸へと戻って来るというイメージで捉えられるのかもしれない。親鸞の「還相廻向」も吉本隆明のように「知識人と大衆」という図式で考えるより、「船に乗って向こうに渡った人間が今度は船頭になって人を渡しにくる」というイメージで捉えるほうがよいのではないか。
などなど、そんなことを取り留めもなく考えた回でした。ルターは残りほんのわずかなので、あと1回で終了するのは確実です。次回の開催日はまだ確定していません。決まり次第、関係者諸兄姉にご連絡さしあげます。ルターが終わったらいよいよ第Ⅳ期。新約聖書「ヨハネ黙示録」です。