【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期):継承といふこと】

今日は各方面の学会が開催されている関係で、聖書読書会には不参加の方が多く、私と久しぶりにいらしたTさんの二人のみ。ルター『キリスト者の自由』の続きを読む。読んでいるうちに、本書タイトルの「自由」がいろんな意味合いで使われていることに気付く。ある場合には律法の拘束からの自由、あるときは信仰によって得られる原罪の重荷からの自由、あるときはAもBも選べるという自由意志における自由、ある場合には「自発性」という意味での自由。これら多様な意味の「自由」がルターの中でどのように関連しているのかを見極めるのがこの本の読み方の要諦なのでは、と思った。要再読。
また、今日はいったん信仰によって救いを得た人が隣人に対してどう振る舞うべきかということについて述べた箇所に入った。こういう箇所にくるといつも疑問に思うのは、自分の信仰を「布教」したいという願望とはそもそも人間のいかなる願望なのか、ということ。もちろん鎮守の森の神道のように布教しない宗教もあるが、救済宗教は基本的に布教する。素朴に考えれば「救済」という恵みを体験した人間が、かつての自分と同種の苦悩を抱える他者にもそれを分かち合ってほしい、という動機から布教するのだという説明にはなろう。
しかし、人間はどんな場合にも自分の体験した恵みを他にも分かち与えたいと思うわけではない。分かりやすい例で言えば、ビジネスチャンスなどは、他に教えることで自分の利益の分け前が減る可能性があるから、しばしば独占される。また、以前プロの格闘家の先輩が「自分が現役でいる間は、たとえ弟子にでも得意技のコツの本当の大事な部分までは詳しく教えられないが、引退すれば遠慮なく教えられる」と言っておられた。勝負の世界だから、これも当然のことと思う。また、自分が競技者ではなくても、心理的な抵抗(ライバル心)からよきものを共有できないこともあるだろう。あるピアノの先生が「よきピアノの教師になる必須の条件は、自分の弟子が自分よりうまくなることを心から喜べるようになることです。自分もこの壁を乗り越えるのが本当に大変だった」という意味のことを書いておられるのを読んで、うーんそれはいかにも大変そうだ、と思った覚えがある。
また、表向きは他者に恵みを分かち与えるため、とは言いながら、実際にはそれが権力欲・支配欲の発露である場合もある。その際、自分が選んだ道の正当性に密かに疑問を持っているときほど、その不安ゆえに、他者にもそれを受け入れることを強圧的に要求することになる。納得のいかないまま家業を継承し人が、わが子に同じようにそれを踏襲させようとする場合のように。もっとひどいのは、本音は金銭欲なのに「この良い商品をみんなに知ってもらってみんなに幸せになってもらいたくて」と言って子ネズミを増やそうとするマルチ商法。あれでも言ってる本人は案外それを本気で言ってると信じてそうなところが怖い。
宗教の布教の際にも、布教を本心ではためらうこうした気持ちや、自己正当化・権力欲(さらには金銭欲)が幾分かの割合で混ざっていること(あるいはそれが大部分であること)は多いと思われる。最初はそうでなかったところにこうしたものが入り込んでくるようになることもあるだろう。とはいえ、そうした諸々のものとは区別される、「自らが経験した恵みを分かち与えたい」「分かち合わねばならない」という純粋な使命感、布教願望というものがあると思われる。そうでなくては命を賭してまで布教する人々の存在が説明できないだろう。その願望とは何か?
それがわからなくていつもグルグル回っているわけだが、今日はルターを読みながら、学生時代にやっていたスポーツでの「技の継承」を願う気持ちが(むろん強度はまるで違うが)少しそれに近いのかもしれない、とフト思った。人間が「とほうもない恵み」と思える経験を享受した場合、「自分のところで絶やさずに継承してゆく責務がある」という気持ちになるのではなかろうか。その気持ちがどこから来るのかはこれまた難しい問題だが、布教の願望がそれに通じるところがあるのは確かだろう。
精神分析では、分析家の養成のための分析(教育分析)と患者の治療の分析に本質的な区別を設けない。言い換えれば、分析家となるためには患者として分析を体験しなくてはならない。以前に親鸞にとっての法然との出会いやペテロにとってのイエスとの出会いを「スーと近寄って来た渡し船にひょいと乗る」ような体験なのではないかと書いたが、それについて知人がラカンの分析家養成の仕組みであった「パス」も「渡し船」と同じ語だと教えてくれた。とすれば、布教も精神分析も、自分が渡し船に乗って向こう側に渡ったのち、同じ経験を伝承すべく今度は船頭になって向こう岸から元の岸へと戻って来るというイメージで捉えられるのかもしれない。親鸞の「還相廻向」も吉本隆明のように「知識人と大衆」という図式で考えるより、「船に乗って向こうに渡った人間が今度は船頭になって人を渡しにくる」というイメージで捉えるほうがよいのではないか。
などなど、そんなことを取り留めもなく考えた回でした。ルターは残りほんのわずかなので、あと1回で終了するのは確実です。次回の開催日はまだ確定していません。決まり次第、関係者諸兄姉にご連絡さしあげます。ルターが終わったらいよいよ第Ⅳ期。新約聖書「ヨハネ黙示録」です。

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