こんにちは。村田です。すっかり暑くなりました。最近読んだ本紹介シリーズです。
・繁田信一『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー、2018)
・藤野裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書、2020)
暴力つながり(?)で選んでしまい禍々しい感じになってしまいました。しかし、内容はいずれも真面目な良書です。
『殴り合う貴族たち』は、2005年柏書房から、2008年角川ソフィア文庫から出たものの増補改訂版。今年の大河ドラマとの関連で話題になっており、タイトルが面白そうだったので読みました。
平安時代の貴族といえば雅やかでお上品なイメージであるが、それに反して実際は盛大に乱闘したり下々の者に暴力をふるったりそれをもみ消したりしていたのだ、という本でした。『小右記』などに基づくエピソードが事件録のような形で収録されています。仕事で平安期の古典に触れることが多いのですが、優美な文化を担っていた人々が一方でこんなことしてはったんやなあ、と勉強になりました。
種々の暴力記録の中、広義の暴力というべきか、法成寺や道長の邸宅を建造するため平安京(の民たちの生活)が破壊されたという話が特に印象に残りました。現代の諸々と重なったからかもしれません。
『民衆暴力』は、明治~大正期の4つの出来事(新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺)を取り上げ、民衆による暴力の諸相を考察してゆく本。2021年の新書大賞にも選ばれたそうで、大変良い本でした。
現代、暴動って言葉は「もう暴動でも起こしたいわ(※起こさない)」的な決まり文句専用のもののようになってしまっていて、すっかり暴力は権力に集約化されている……ことにすら気づかないほど。そんな中、かつての民衆による暴動や騒擾は、野蛮なものとしてイメージされる一方権力への抵抗として称揚されたり憧憬されたりもします。そういや私も子供の頃に社会で「一揆」とか「米騒動」とかを習ったときは「かっこええ~!!」とテンション上がった記憶があります。しかし本書は、単純に野蛮なものでもなければ単純に称揚されるべきものでもない民衆による暴力の諸相を描いてゆきます。
たとえば、第1章で取り上げられる「新政反対一揆」は、上から押し付けられる新たな規範への反発であったという点で権力への抵抗といえます。実際ひと頃の研究では、民主主義的で進歩的な闘争として評価されていたそうです。しかしその過程では「異人」をめぐるオカルト的な流言があり、さらに、支配者に対する暴力だけでなく、「賤民廃止令」によって解放されようとしていた被差別部落の人びとへの酷い暴力が起こりました。この理由を本書は、もともとの差別意識に加え「異人」への不安が他者の排除へ転化したのでないかとしています。何かが変わりゆく中で誤ってマイノリティが権威と同一視され攻撃の対象となるのは、現代も同じかもしれません。
関東大震災での朝鮮人虐殺を取り上げた第4章・第5章は、弱者への一方的な暴力であるという点で第3章までのテーマとは一見異なるように見えますが、本書で最も読まれるべき章と思います。それに、マイノリティを攻撃者と見なしてしまうメカニズムは第1章に書かれたそれと相似であるし、虐殺の主体となったところの自警団の結成は第3章で触れられています。
この出来事は、災害下でパニックに陥った民衆の流言による、とされがちですが、実際には軍隊や政府の主導がありそれが暴力のハードルを下げたこと、その後に証拠隠滅の指示があり民衆による犯行だけが裁かれたことがまず書かれています。そのうえで、日本の民衆がいかなる論理で虐殺に至ったのかを、実際に記録された証言などから拾ってゆきます。
本書はそれを心理学的に分析する本ではないですが、そこに見られる「投影同一化」のような心理(攻撃している側なのに攻撃を受けている側であるように感じる)や報復を恐れるゆえにより殺害を進めるしかなくなってしまうというメカニズムは、現代でも他人事では無いものだと思いました。
さらに、このできごとの中で、朝鮮人を保護した人びと、知り合いは保護したが見ず知らずの相手の虐殺には加わった人びと……とさまざまな行動を取った者がいたことが記されます。朝鮮人への暴力が警察署への暴動に転じた事件なども。「権力に抵抗する民衆」か「被差別者を迫害する民衆」か……「こうした事実は、そのように民衆像を二分させて歴史を捉えることには問題があるのだと教えてくれる」(p.200)。
また、暴力の被害者を完全に無力な客体と見なすのでなく、その抵抗の痕を探ろうとする姿勢も本書の特徴でした。
コロナ禍の中の執筆の大変さや迷いが伝わるあとがきも良かったです。