月別アーカイブ: 2016年6月
第8回京都アカデメイア読書会のお知らせ
【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期)】
今日は新規参加の方2人を含め6人参加でした。新しくいらして下さった方には専門知識をお持ちの方もおられ、いろいろと勉強になった。驚いたのは、カトリックのなかには、世俗と区別された信仰に固有の領域などない、なぜならこの世界に住む人々はすべて救済の可能性の対象であり、その意味で信仰に関係ない領域など定義上存在しないから、という考えや、別の宗教の信者であっても(本人にはその自覚がなくとも)潜在的なキリスト者として終末において救われるよう神が定めている、という考えなどがあるらしいということ。普遍宗教ならではの責任感がそのような教義を産むのだろうか、と思った。また、カルヴァンの予定説は、少なくとも信者に対しては「もう救いが予定されているから大丈夫だよ」という慰めのために用いられたのであり、ウェーバーのように予定説がもたらした不安の側面を強調して資本主義の精神に結びつける議論は間違っているという説も聞けた。その他、前回に引き続きbelieve とbelieve in 、種子の比喩、回心体験、宗教体験と恋愛、信仰の有無とは何ぞ、聖霊と自由意志、遠藤周作、親鸞、鈴木大拙、臨済禅と曹洞禅、エリート凡夫など、話題は多岐に及ぶ。古代語に詳しい面子もそろってきて、京アカ聖書読書会はなかなか盛り上がって参りました。あと1回か2回ぐらいでルターは終わりそうです。次回は6月25日(土)10:00~@京大本部時計台下サロン。
シャルリ・エブドの否定神学(2):内田樹『他者と死者』書評のポストスクリプト的考察
【承前】こうした意味では、非西洋圏では人権思想や民主主義はある種の「暫定協定(Modus Vivendi)」としてもっぱら機能してきたと考えるのが、おそらく妥当である。それは不可譲という意味で絶対的な価値ではなく、状況次第で変化するほかのさまざまな価値とのバランスのなかで差し当たり採用された、条件つきの価値である。状況によって諸価値の関係性とバランスは変化し、プラグマティックな調整過程のなかで、人権も民主主義もときに最優先の地位から引き下げられる可能性があるということである。いわば「その程度のもの」としての人権であり、民主主義なのである。実際的には、多くの場合、否ほとんどの場合にこれらの基本的諸価値はできる限り擁護されている。それでも、原理的には、それらは不可譲で無条件の価値としては擁護されていないのである。
言論の自由という価値の絶対性――シャルリ・エブド事件のケース
シャルリ・エブドの襲撃事件は、この問題を考えるうえでよいケースである。その後2015年11月により大規模なパリ同時多発テロが発生したために、1月のテロ事件もこれと併せて、国際社会が今後テロの脅威にどう対峙していくかという文脈へと還元されて見られるようになった。けれども、シャルリ事件が、こうした文脈とは別に、日本である種の驚きと違和感をもって受け止められてもいたことはあまり記憶されていない。ヨーロッパの知性にとって言論の自由のような基本的価値がどれほど大きな意味をもつのか、日本のジャーナリズムや文化人はじつは把握しきれていないのではないかという戸惑いが、あのとき一部には見られたのである。
【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期)】
今日は四人出席。京都アカデメイア理事長の大窪さんが初参加。ルター『キリスト者の自由』の続きを読む。「信仰こそ第一義だが、だからと言って行為は何もせず好き放題にしたらよいわけではない」というルターの教説には、何だか護教的配慮からくる首尾一貫性のなさがある気がした。ところで、信仰が第一というが、イエスの数多くの教説のうち「何を」信じることが大事なのか、という私の問いに、私以外のメンバーが、「何を」とか対象化されないかたちでイエスを信じるということでは、との回答。宗教音痴の私は「??」となりつつも、そういえば「神を信じる」という表現は英語ではなぜbelieve Godではなくbelieve in Godなのか、どうして「あなたの言うことを信じる」I believe youの場合のように他動詞ではなく、自動詞なのか、という疑問が浮かんできた。きちんと調べてはいないが、もともとbelieveという動詞は対象をもたず、主体の何らかの心理状態を表す自動詞だったのではないだろうか?そして、そのような状態が何か(誰か)のもとにinあるときに生じることをbelieve in ~と表現しているのではないだろうか?とすれば、何か「を」信じる以前に「信じる」という心理状態そのものが「~」によって惹起されているのであり、それは根源においては、いわば「信じさせられ」る受動的体験なのだろう。選民思想と言うと鼻持ちならぬエリート意識のようにとらえがちだが、本来的にはそういう一方的に「選ばれ」「信じさせられる」体験であり、大魚の腹で眠ったヨナがそうであったように、選ばれた側からすればいささか迷惑なことですらあるかもしれない。「信じる」ということをめぐる受動性と能動性について、ぼんやりそんなことを考えたりしました。次回は6月11日(土)10:00~@京大本部時計台下サロン。
シャルリ・エブドの否定神学(1):内田樹『他者と死者』書評のポストスクリプト的考察
内田樹『他者と死者』の書評の末尾の部分で、評者は次のようなことを示唆した。西洋ではヘブライズムの一神教的伝統が近代社会にあってもどこまでもつきまとうために、そこからの逃走ないし脱構築のポストモダン的実践は、いくらフランス流のエスプリをきかせてもその身振りとは裏腹にどこか深刻なものがついてまわる。この点で、日本のニューアカデミズムの称揚したポップさとそれとはじつは似て非なるものだったのではないか、と。
だとすれば、近代の普遍性をまずは額面通りに受けとらず、その文化的・文明的なバックグラウンドに慎重に目をむけることがなお必要だというべきである。ここでは、こうした点についての簡単な考察を行ってみたい。世俗性を表看板とする近代社会を非西洋圏で確立させるうえで、キリスト教への「改宗」がそのための要件とはされていないのはもちろんである。しかし、少なくとも西洋世界の一神教的背景を知っていなければ、世俗的な理念――人権や民主主義――にたいして彼らが示す、ほとんど宗教的に映じるほどの強いコミットメントの源泉は理解できないだろう。
世俗化された近代的理念が、しかしある面では絶対的で超越的な価値として理解されていると考えなければ、たとえばシャルリ・エブド周辺のジャーナリストたちが示した「蛮勇」の本質はとらえることができない。自己保存を旨とする個人のもっぱら合理的な選択の結果として正義を考えるのでは、自己の生命を大きな危険にさらしてでもこの種の価値の実現に奉仕しようとする人びとの行動は、とても説明できないからである。 続きを読む
第7回京都アカデメイア読書会『人間の条件』を開催しました
新倉です。
5月29日は、GACCOHさんのスペースをお借りして、京都アカデメイア読書会を開催しました。今回の課題は、アーレントの『人間の条件』。近年、アーレントは映画化され、関連書籍が多く出版されるなど、にわかにブームになっていました。しかも今回は、アーレント研究をしている百木さんによる報告ということもあり、多くの方に参加していただきました。そして、参加者の皆さんの参加動機として、アーレントの『人間の条件』はいつか読まないといけないと思っていたけれど、なかなか機会がなくきてしまったので、今回の読書会をきっかけにして読みたい、と仰っている方が多かった印象です。
さて今回は、1章から3章を範囲としていましたが、時間の都合上、主に1章2章を中心に議論をしました。『人間の条件』は、人間は何によって条件づけられているか、ということが主題となっている本です。有名なのが、活動的生活を構成する「労働」「仕事」「活動」という三つの営みですね。アーレントは、西洋形而上学の中で「観照」に対して、「政治」の地位が低かったことを指摘します。そこで、「活動」の地位を見直すこと、つまり「政治」の重要性を説いている本であるということができます。今回は、どういった発想からアーレントがこのような区分を行っているのか、などを中心に議論が行われました。
多くの人に参加していただきました。
徐々に講義形式になっていく百木さん。
次回は、『人間の条件』4章から6章です。