【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期)】

今日は四人出席。京都アカデメイア理事長の大窪さんが初参加。ルター『キリスト者の自由』の続きを読む。「信仰こそ第一義だが、だからと言って行為は何もせず好き放題にしたらよいわけではない」というルターの教説には、何だか護教的配慮からくる首尾一貫性のなさがある気がした。ところで、信仰が第一というが、イエスの数多くの教説のうち「何を」信じることが大事なのか、という私の問いに、私以外のメンバーが、「何を」とか対象化されないかたちでイエスを信じるということでは、との回答。宗教音痴の私は「??」となりつつも、そういえば「神を信じる」という表現は英語ではなぜbelieve Godではなくbelieve in Godなのか、どうして「あなたの言うことを信じる」I believe youの場合のように他動詞ではなく、自動詞なのか、という疑問が浮かんできた。きちんと調べてはいないが、もともとbelieveという動詞は対象をもたず、主体の何らかの心理状態を表す自動詞だったのではないだろうか?そして、そのような状態が何か(誰か)のもとにinあるときに生じることをbelieve in ~と表現しているのではないだろうか?とすれば、何か「を」信じる以前に「信じる」という心理状態そのものが「~」によって惹起されているのであり、それは根源においては、いわば「信じさせられ」る受動的体験なのだろう。選民思想と言うと鼻持ちならぬエリート意識のようにとらえがちだが、本来的にはそういう一方的に「選ばれ」「信じさせられる」体験であり、大魚の腹で眠ったヨナがそうであったように、選ばれた側からすればいささか迷惑なことですらあるかもしれない。「信じる」ということをめぐる受動性と能動性について、ぼんやりそんなことを考えたりしました。次回は6月11日(土)10:00~@京大本部時計台下サロン。

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