月別アーカイブ: 2011年12月

『魔法少女まどか☆マギカ』批評

浅野です。

遅ればせながら『魔法少女まどか☆マギカ』(略して『まどマギ』)を見ました。何人もの人からすすめられていたので見ておかないとという義務感から始めたのですが、途中から引き込まれて一気に最後までいきました。

京都アカデメイアのブログなので『魔法少女まどか☆マギカ』を学問的に批評します。学問的といってもむやみに難しくはしないので安心して読み進めてください。

まず簡単に『まどマギ』のストーリーをご紹介します。ネタバレがあるのでご注意ください。

舞台は現代の日本で、主人公の鹿目まどか(かなめまどか)たちは平凡な中学生活を送っていました。そのような中、まどかは友人の美樹さやか(みきさやか)とともに魔法少女の魔女に対する戦いに巻き込まれてしまいます。同じ中学校で一年先輩の巴マミ(ともえマミ)らが、キュゥべえと呼ばれる生物と契約して願いを叶えたことと引き替えに命の危険を冒して魔女と戦っていたのです。

まどかとさやかは魔法少女になるか悩みながらマミの戦いを見学しますが、ある時マミは魔女との戦いに敗れて殺されてしまいます。それにもかかわらず、さやかは幼なじみでひそかに好意を寄せていた天才バイオリニスト上条恭介(かみじょうきょうすけ)の指が再び動くようにという願いを叶えて魔法少女になります。

魔法少女には戦いで殺される他にも、呪いを吸収しすぎて自らが魔女になってしまうという危険があります。さやかは自分ひとりであらゆる犠牲を引き受けようとして呪いを溜め込みすぎ、魔女になってしまいました。ライバルの魔法少女であった佐倉杏子(さくらきょうこ)の必死の試みもむなしく、最終的には杏子がかつてはさやかだった魔女もろとも自爆することになりました。

もう一人魔法少女が登場します。暁美ほむら(あけみほむら)です。転校生としてまどかたちの中学にやって来るのですが、謎の行動を取り続けます。特にまどかに対しては魔法少女にならないようにと何度も言い、魔法少女になる契約を取り結ぶキュゥべえを敵視します。というのも実はほむらは別の時間軸で、まどかが魔法少女となり殺されようとするのを目の当たりにして、「まどかを助ける」という願いで契約して魔法少女となったのです。

こうして時間を操る能力を手に入れたほむらはまどかを救おうと過去に遡るのですが、何度遡ってもまどかは救われません。たとえ魔女との戦いに勝利しても、結局は溜め込んだ呪いで自らも魔女になる運命だからです。そしてその時に得られるエネルギーが、宇宙の他の場所からやって来たキュゥべえの目的だったのです。それでもほむらはあきらめずに行動し続けます。

これらを知ったまどかは魔法少女になる決意をします。「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を生まれる前に自分の手で消し去ること」という願いを叶えるためです。普通であればそのような因果律を変えるような願いを叶えることはできないのですが、ほむらの時間の繰り返しによって力が集まっていたまどかにはそれが可能でした。

こうして魔女という存在そのものがなくなったわけですが、まどかの存在そのものもなくなってしまいました。ただほむらの記憶の中でのみ残り、家族の人たちの中にかすかな痕跡が残っただけです。そして魔女がいなくなっても魔法少女たちは魔獣と戦っていました。

というところでストーリーが終わります。ここからは批評に入ります。

『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメが原作の作品なので、アニメという分野でどのように位置づけられるかを探ります。

伝統的に魔法少女はアニメの定番でした。もともとは小さい子どもがそれを見て憧れるといったものだったのでしょうが、1990年代以降くらいからは成人男性が「萌え」るものだという意味づけも目立ち始めました。「萌え」と関連の深いいわゆるギャルゲーで多用される、時間のループという要素もこの作品には含まれています。

アニメといえば主人公たちが仲間と共に戦って成長し、悪を倒すという勧善懲悪ものが一昔前までは定番でしたが、これも1990年代あたりを境にして傾向が変わり、最近では「けいおん!」に代表されるようなまったりとした日常を楽しむ作品が人気を得るようになってきました。あるいは世界の破滅を扱うにしても、極めて個人的な感情が中間的な社会を抜きにして一足飛びに世界全体と結びつくセカイ系と呼ばれる作品が主流になります。『まどマギ』もこの流れを汲んでいると言えるでしょう。

上で述べたようなアニメ作品の変質は社会の変質を反映しているのだと考えるのが自然です。1990年代と言えば冷戦構造が解体し、日本ではバブル経済が崩壊した時期です。それ以来、男性なら終身雇用で就職して西側陣営の一員として日本経済の発展に寄与する、女性ならそのような男性と結婚して子どもにさらに上を目指すような教育を施すといった物語の有効性が失われてきました。そうした状況下では将来の見通しを立てづらいので、ささやかな日常に楽しみを見出すという生き方が有力な選択肢になります。

しかし、そうしたささやかな日常が永遠に続くはずはありません。人間は誰しも年老いますし、いつかは死にます。さらに、日本の都市での生活などは、いくら見えにくくされていても地方や他の国での犠牲の上に成り立っているという側面を否定することはできません。食料やエネルギーを地方に頼っているわけであり、安い工業製品の背景には途上国と呼ばれるところでの低賃金労働があるのですから。もっと言うなら、動植物を含めた自然環境を犠牲にもしています。作中でキュゥべえが魔法少女は家畜と同じだと説明していました。そのシーンに典型的に示されているように、『まどマギ』は予定調和的な日常に疑問を呈している作品だと考えられます。

しかもその犠牲は契約によって自ら選んだものだとして正当化されます。確かにキュゥべえが主張するように、魔法少女は契約をすることによって犠牲を背負うのだから、家畜よりましだと言えはします。しかし魔法少女になるとはどういうことかという詳細な説明は契約の前になされませんし、自分や親しい人が死にかけていたりするような状況で契約をするというのはとても自由な選択とは思えません。

このロジックは現実社会でも同じように当てはまります。低賃金で働く人も契約によって働いているのだから問題はないではないかと正当化されます。しかし生産手段から切り離されて自らの労働力を売るよりほかに生きる道がない労働者にとっては事実上強いられた契約であるとマルクスは百年以上も前に喝破しています。

マルクスが考察の対象にしていた自由主義から、より現代的な新自由主義に移行してもこの構造は変わりません。むしろより巧妙になったとさえ言えます。現代の少なくとも日本では、生活保護に代表される生存権が一応は保障されているので、労働力を売らなくても文字通りに生きていけないということはあまりありません。それでも何らかのメカニズムによって各個人が企業のように主体的に契約を結んで生産活動を行うように駆り立てられています。それがどのようなメカニズムによってなされているかはフーコーを読めばわかるのかもしれません。

話が抽象的になってきたのでこの辺で具体例を出しましょう。さやかは魔女になってしまう直前に、電車の中で自分に好意を寄せるキャバ嬢をひどく扱う男性の会話を耳にします。魔法少女である自らをそのキャバ嬢に重ね合わせていると解釈できます。魔法少女もキャバ嬢も他人の負の部分を引き受ける仕事ですからね。昔はキャバクラで働くといったら生活のために仕方なくするといったイメージが強かったですが、最近では華やかで憧れの仕事といったイメージも増えてきました。先ほどの議論からすると、どちらにしてもまったくもって自由に契約をしてその仕事をしているのではないのですから、彼女たちに押し付けられる犠牲を当然のものとして正当化すべきではないというのが私の主張です。

魔法少女=キャバ嬢という図式からも窺えるように、ジェンダーでいうと女性に犠牲が押し付けられがちです。その点興味深いのがまどかの母、鹿目詢子(かなめじゅんこ)です。詢子はいわゆるキャリアウーマンであり、夫の鹿目知久(かなめともひさ)が主夫として家事全般を引き受けている様子です。詢子はまどかに対して過度に厳しくするでもなく甘やかすでもなく接します。まどかはまどかで「自分には何のとりえもない」と思っているところでは母と違っている一方で、芯の強いところなどはよく似ています。さっぱりとした家族関係が現代的であり、こうした設定も暗黙のうちに押し付けられる犠牲に敏感であろうとする『まどマギ』ならではだと思います。

これだけサービス産業化が進むとキャバ嬢に限らず非常に多くの人が他人の負の部分を引き受けつつ仕事をしているのですから、この話は他人事ではありません。それにもかかわらず、お互いに競争することによって結果として総体的にますます苦しい状況に追い込まれているのではないでしょうか。ちょうど魔法少女たちがお互いに争っていたのと同じように。本当は協力したほうが全体としてはよいはずなのに協力できないのです。このあたりの苦しみは〈企画〉アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ(2011.04.16)で詳細に描写されています。

個人個人が自己完結した存在であってはこの状況を変えることはできません。ゲーム理論で言うところの囚人のジレンマに陥っています。自己の利益を最大化するためには非協力を選択するほうが合理的なのですから。この状況を打ち破るためには個人の枠を超えた神のような存在が必要です。神のためなら自己利益の最大化という合理性を超えて協力を選択することができます。そして他の人たちも同じように神を信じて協力を選べば全体の利益が増え、社会が成立します。言うまでもなく最後のまどかがこの神の役割を果たしています。その神自身は救われるのかという問題は依然として残りますが、ともかくこれでその他の人たちは協力して社会を築くことができるのです。

その証拠に、最後の場面では魔法少女たちが協力して戦っていました。協力するといっても世界中から悪が消え去るわけではありませんが、魔法少女同士で殺しあっていたときよりはましです。

このやり方がうまくいくかどうかは信仰をいかに共有できるかにかかっています。一人だけが信じていても妄想だとして退けられるだけです。作中ではほむらがまどか教を布教するのに成功しているようです。現実世界でそれが成功するかはわかりません。それでも少なくとも『魔法少女まどか☆マギカ』を見た人たちの間ではまどか教を共有できるはずです。一番最後で魔法少女たちの後姿が映されたのはそのことを暗示しているように思えてなりません。

a犬+b猫

ハロー、寒! (む)です。

百万遍と東一条に置いていたNFタテカンを撤収しまして、やっとNFも一段落した感であります。
タテカンは、もったいないので近々再利用する予定。また見かけたらよろしくね☆

そんな京アカですが、地味な会も諸々続いております。
NF企画のような大きなイヴェントもいいですが、地味な企画がほそぼそ続くのが、京アカのおもろいとこやとわたくし個人的には思うております。
写真は、the地味企画のひとつ、そろそろ開始から一年経ちます数学企画。
今回は参加者は少なかったのですが、「表現行列」やら「商空間」の話をみっちりして、集合論を使った説明によって、まったくわからんかった商空間の概念がちょっとは頭に入りました。

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真山仁講演会報告(2)

 

(承前)
以下は、僕(百木)の個人的な感想ですので、そのつもりでお読みください。

まず、具体的な代替エネルギーが見つからない限りは安易に脱原発を唱えるべきではない、という真山さんの主張について、確かにそれは一理ある考え方だけれども、その主張が必ずしも正しいとは限らないだろう、と感じました。多くの地震研究者によって、現在の日本が地震活発期に入ったことが指摘されておりこの30年のうちに東海大地震が87%の確率で、東京直下型地震が70%の確率で起こると予測されている状況のなかで「代替エネルギーが見つかるまでは原発存続せざるをえない」という消極的な選択は果たして合理的なのでしょうか。代替エネルギーが見つかる前にもう一度、東日本大震災なみの大地震が起き、福島のような原発事故が起こる可能性は決して低くないように思われます。そのようなリスクを考慮すれば、真山さんが仰るような消極的原発存続という選択が決して唯一の解答ではないし、すべての原発を一日も早く止めよという要請も、「原発が怖い」という非合理的な不安に基づくというよりは、現実的なリスク算定に基づくものだと考えることができるのではないか。

また、真山さんは「もし代替エネルギーが見つからないままに原発を止めるとしたら、我々は毎日階段を何十段も登るような生活をしなければならない、それでいいのか」という言い方をされていましたが、すべての原発を止めることになった際に、本当に真山さんが想定するような過酷な生活が待っているのかという点についても疑問を感じました。確かに代替エネルギーが見つからないまま今すぐ原発をすべて止めれば、今までのように使いたいときに使いたいだけ電気を使う、という生活は諦めなければならないのかもしれません。しかしそのことが直ちに、悲惨な貧しい生活状況をもたらすという強迫観念的な予測には「本当にそうなのかなぁ」と思ってしまいます。

今年の夏はたしかに例年よりは涼しい日が多かったものの、結局、事前に電力会社に脅されていたように強制的な大規模停電が起こるということはありませんでした。もちろん多くの場面での節電努力あってこその結果なのでしょうが、とはいえ日本人は(多少の不便さはあったものの)先進国レベルで見ても相当に豊かな経済レベルの生活を維持できたというのが実際のところではないのか。むしろ原発推進を今後も続けていきたい電力会社によって、事前の電力不足予想が高めに見積もられていたのではないか、という疑念も払拭しきれません。実際に先日、東電は来年夏の電力供給を原発ゼロで賄いきれるという試算を出していますし、それなら一体あの計画停電騒ぎは何だったのか、と感じてしまいます。

10月の原発稼働率が20%を切ったというニュースもありましたが、過ごしやすい季節とはいえ、原発がその程度の稼働率でもほとんど以前と変わらないレベルの経済生活ができてしまっているという現実をどう考えるのか。原発なしでも、日本の電力需給はきちんと賄っていけるという専門家の意見もいろんな所で耳にします。その他に、原発は他の電力供給よりもコストが安いから経済効率的には原発存続しかありえない、という意見についても、それは地元への莫大な補助金や放射性廃棄物の処理にかかる費用を入れていない金額だし、万が一事故が起きた際のコスト計算も含められていない。最大で10万年かかると言われている放射性廃棄物の処理方法についてもいまだに解決策や廃棄場所が見つかっていないし、もんじゅなどの再処理施設についてはまともな稼働の見込みが立たないまま無駄な研究開発費を垂れ流している。などなど、最近次々と問題点が指摘され、議論が活発化している原発存続のリスクを鑑みれば、「代替エネルギーが見つかるまでは原発存続」という選択を行うほうが日本の政治経済、国民の安全保障にとって損害を招きうる、ゆえに一日でも早く脱原発を進めよ、という主張にも十分に理はあるのではないか。

ただし、以上のような脱原発派からの反論・主張が絶対に正しい、と言い切る自信も素人の僕にはありません。どちらかといえば、個人的には上記のような脱原発派の主張のほうに理があるように感じますが、当然その主張に対する再反論もあるでしょうし、原発存続の主張にも一理あることを認めるにはやぶさかではありません。それにそもそも、真山さん自身がいわゆる「原発推進派」なのではなく、地熱発電の利用可能性を含めた「長期的には脱原発依存、短中期的には原発依存やむなし」という考え(現在の野田首相の方針と同じですが)であることも理解しています。そのような状況をふまえた上で、今後はさらに原発存続派と脱原発派のあいだをつなぐ議論を深めていく必要があるし、真山さんにももっとそのような疑問をぶつけてみたかったなぁ、ということを感じました。本当は質疑応答の時間内にそのような議論を深められればよかったのですが、その場ではうまく考えをまとめることができず、筋道を立てて反論をするまでには至りませんでした。

また講演が終わってからお聞きしたお話ですが、京大ではいたる所で脱原発に関するイベントや展示会が行われていたのに対し、真山さんが関わっておられる東大の勉強会では、圧倒的に原発推進派の意見が強いそうです。東大と京大ではそれほど原発にたいする雰囲気が異なるのだなぁということにもびっくりしましたし、機会があればいちど東大の学生さんたちと原発についての討論会などを企画してみるのも面白いかもしれないなぁと思いました。原発にせよ震災復興にせよ日本の政治状況にせよ、絶対的にこれが正しい、という満場一致の答えを導き出すのが難しい問題については、とにかく前提となる情報や知識を共有し、それをベースとして議論を戦わせていくしか方法がないし、そのような学びと議論の場を今後も京都アカデメイアが作っていきたいな、というのが今後に向けた抱負です。学生や一般人の側から、そのような機会を作っていくことこそが、真山さんのいう「新しい政治への道筋」ではないかと個人的には考えていますし、そのような機会を経てさらに政治についての関心を深めていくことができれば少しずつ社会を良い方向へ変えていくことも可能ではないか、という楽観的展望をもっています。

素人ながら、いろいろと勝手な疑問や反論も述べさせていただきましたが、いずれにせよ、このような思考のきっかけを与えてくださった真山さんの講演に改めて感謝をしたいですし、今後もこのような思考や議論を次に繋げていくことが我々の課題だと考えています。長々と書きましたが、このブログを読んでくださった方にも、これらの問題についてさらに思考を深めるきっかけとさせて頂ければ幸いですし、もし思うところがあればコメント欄で意見・反論などいただければありがたいです

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生け花男子の積田くん。素敵ですな。

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積田くんが生けた花。オレンジの薔薇がきれい。講演中もいい味出してました。

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当日は暖かいくらいの良い天気で、紅葉もきれいでした。

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真山仁講演会報告(1) 

 

百木です。
先週の土曜日に開催したNF特別企画・真山仁講演会にはたくさんの方にご来場いただき、ありがとうございました。立ち見がでるほどの盛況で、窮屈な思いをさせてしまった方々には申し訳なかったのですが、今後の反省材料にしたいと思います。お忙しい中、京都までお越しいただき、素晴らしい講演をしていただいた真山さんにも改めてお礼を申し上げます。

当日の講演内容を簡単にまとめて報告させていただきます。ただ、僕自身の記憶も頼りないものですので、もし不十分な点がありましたらコメントなどで指摘していただけるとありがたいです。一部、僕(百木)の個人的な感想やコメントなども付け加えさせていただきますが、この点についてもなにかお気づきの点や反論などありましたら、遠慮なくコメント下さい。

講演の前半は「なぜ・いかにして私は小説家になったのか」というお話でした。小説家の方から直に小説家になった動機やその経緯などを詳しくお聞きできる機会はなかなかないので、とても面白く聞かせていただきました。真山さんは子どもの頃から何かにつけ、周囲の大人や友人の考えや行動に疑問をもち、その疑問を周囲にぶつけていくような天邪鬼な性格だったそうです。世間や学校で決められたルールとしてみんなが従っていることにも疑問や反発を覚えることが多く、そのような性格が小説家を志すことの大きな動機になったとのこと。

興味深かったのは、真山さんが「小説家になりたいから小説家を志した」のではなく、「世間や周囲の人びとにたいして自分の考えや疑問を伝えたい」という思いがまず先にあり、そのための手段として小説家という職業を選んだ、というお話でした。最近の新卒が「3年以内に3割がやめる」ことが社会問題として話題になったことがありましたが、そのような状況にたいしても、自分が就職したい会社や就きたい職種から志望動機を考えるのではなく、自分が何をしたいのか・将来どのような到達点に達したいのか、という目標から逆算して、希望する会社や職種を考えていくほうが良いのでは、というアドバイスがありました。ちょうど就職活動解禁が数日前のニュースになっていましたが、就職活動を控えた学生や今後のキャリアを考える若者にとっては将来を考えるヒントになるアドバイスだったのではないでしょうか。

また、真山さんは小説家を志すにあたって、いろいろな小説家の経歴を調べてみた結果、多くの小説家がまず新聞記者のキャリアを経てから小説家に転身していることに気づき、自分自身もまず新聞記者を10年続けてから小説家を目指そう、と決意されたそうです。このあたりも自分が抱いていた小説家志望者のイメージとは違い、ユニークかつ実践的な考え方だなぁと感心しました。そして就職活動の結果、実際に中部読売新聞社に入社し、警察取材などを中心に精力的にお仕事をされていたそうです。真山さんは新聞記者としても非常に優秀だったそうですが、いろいろと考えるところがあり、当初10年続けるつもりだった新聞記者を2年7ヶ月で退職し、その後はフリーライターとして仕事をしつつ、小説を書き続けておられたとのこと。このあたりの詳しい経緯はこちらのインタビューでも答えられているので、関心ある方はご覧になってみてください。その後『ハゲタカ』シリーズでの大ヒットを皮切りに、原発問題を扱った『ベイジン』や地熱発電を扱った『マグマ』、初の政治小説にチャレンジされた『コラプティオ』など、現代日本の政治経済問題に鋭く斬り込む作品を発表され続けています。

講演の後半は、3月11日の東日本大震災および福島の原発事故に関するお話が中心でした。真山さんは震災後、twitterやブログなどを通じて、菅内閣の政治対応を厳しく批判するとともに、安易な脱原発運動と原発推進の主張の双方にたいして問題提起を行なっておられます。この点についての真山さんの主張をまとめれば以下のようになります。震災後の菅元総理は自身の政権延命のためだけに場当たり的な政策対応を繰り返し、日本の政治にたいする信頼を決定的に失わせてしまった。さらに現在の脱原発運動は、具体的な代替エネルギー案を考えることなしに、ただ「原発が怖い」という理由だけで感情的に脱原発を唱えるだけで有効性を持ちえない。また、太陽光発電や風力発電は天候や時間帯によって発電量が左右されるがゆえに到底ベースエネルギーにはなりえない。真山さんが考える唯一有効な代替エネルギーは地熱発電だが、その有効性は社会的にまだ十分に理解されているとはいえず、道のりは遠い。そうであるとすれば、現状では(明確な代替エネルギーが見つかるまでは)原発の存続を認めざるをえないのではないか。

真山さんは3年前にリーマン・ショックが起こったときに、これで「経済が社会の主導権を握る時代」は終わりを迎え、「政治が社会の主導権を握る時代」がやってくると直感的に感じられたそうです。経済の論理ではなく、政治の論理が社会の進むべき方向性を決定し、議論の中心となる時代がこれからはやってくる(或いはもう訪れている)。しかし現在の民主党政権はその「政治の時代」に対応できているとは到底言えない。多くの国民が政治にたいしての信頼や興味を失っている。本来は政治家が、日本が長期的に目指すべきヴィジョンを掲げ、その目標に向けた現実的な政策運営を行なっていかなければいけないのだが、誰もそのようなことができず、つまらない政局闘争にばかり時間を奪われている。このような状況をいかにして打開できるか。明快な答えはないけれども、まずは我々ひとりひとりが政治的な関心を高め、誤った政治判断を行わないよう意識を高めていくしかない。自分の小説がそのような思考のきっかけになればこれほど嬉しいことはない。

以上がおおまかな講演内容のまとめです。不十分な点が多々あるかと思いますが、僕個人ではこれが限界なので許してください。コメントなどで補足いただければ幸いです。個人的な感想としては、後半部の原発問題や日本の政治状況についてのお話にはいろいろ考えさせられるところが多く、大いに共感させられる点と、いくつか疑問に感じられる点がありました。その点について、人文系の院生である僕が素人ながらに感じた疑問点について書いてみます。(つづく)

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