高橋哲哉『沖縄の米軍基地』:哲学的な側面から考える

大窪善人


 

今年4月に沖縄県うるま市で発生した女性殺害遺棄事件。後日、在沖米軍関係者が逮捕されたのを受けて、改めて沖縄の米軍基地の問題に注目が集まっています。

「米軍よりも日本人による犯罪の方がずっと多い」といった声もあるようですが、しかし、事件への注目がもっている象徴的な意味を見過ごしています。ほんとうの問題の核心は、「沖縄に米軍基地が存在する」ということ、これでしょう。

翁長県政の誕生と「オール沖縄」で米軍基地反対の運動が高まるなか出版されたこの本は、沖縄の声に応える形で、在沖米軍基地の県外移設を主張します。なぜ基地を本土が引き受けねばならないのか、そして現実的に可能なのかなど、議論には非常に説得力があります。

ところで、高橋さんは哲学者J.デリダの研究者として有名な方で、本の中でもたびたびデリダの名が出てくるのですが、あくまでも政治的な議論に禁欲されているという印象です。ですが、内容をより深く理解するためにも、今回はあえて哲学的な側面から考えてみることにしましょう。


なぜ本土で基地を引き受けるのか?

そもそもなぜ沖縄に基地があるのでしょうか。

もちろん米軍基地は日本全国にもあります。しかし、沖縄には在日米軍施設の約74%が集中しています。ちなみに沖縄県の面積は日本全国のわずか0.6%に過ぎません。

素材加工用 沖縄

この圧倒的な数の不均衡は、歴史的な文脈において理解しなくてはならないでしょう。
太平洋戦争末期、本土決戦の時間稼ぎとしていわば「捨て石」とした沖縄戦の悲惨。戦後は日本の主権回復のために沖縄を米国に差し出す。そして、復帰後は本土にあった基地までも沖縄に押し付ける―。
米軍基地が沖縄に固められたことで、本土の住民にとって基地は”見えない”問題になってしまいました。

沖縄や本土に米軍の基地があるのは日米安保があるからです。最近のある世論調査によると、7割〜8割の人が、これからも日米安保を維持することに賛成だといいます。

高橋さんの論理は非常にシンプルなものです。つまり、もし大多数の日本人が日米安保、つまり、「日本に米軍基地が必要」だと言うなら、本土の人間としては基地の負担を引き受ける責任があるだろう、ということです。

ちなみに、軍事上の抑止力として沖縄に基地が必要だという主張に対しては次のように応じています。在沖米軍の主力は海兵隊ですが、本土では反対運動があり(もちろん沖縄でも!)、沖縄にしか置けないという「政治的理由」のためであると歴代の防衛大臣が公式に証言しています。

気になること

しかし、ここで少し気になることがあります。

いま紹介したような理由だけでも、米軍基地の県外移設は、合理的で倫理的にも充分正当なことに思えます。ところが、本土では県外移設の機運は、2010年に鳩山首相が断念して以降ほとんど盛り上がっていないように見えます。

むしろ、基地受け入れの見返りである補助金にまつわる話題とか自治体同士の負担の押し付け合いではないかといったような、ある意味、矮小な議論が幅をきかせているように思うのです。

比喩的にいえば、向かうべきゴールははっきりしているはずなのに、そこに行くという気持ちが高まらず寄り道ばかりしてしまっている、そんな状況なのではないでしょうか。

責任=応答可能性

なぜ現実は動かないのか…。
ここから少し哲学的に考えてみましょう。

先に、「本土は基地を引き受ける責任がある」ということを言いました。高橋さんは本書で繰り返し「責任」という言葉を使いますが、じつはこれはデリダの議論を念頭に置いたものなのです。どういうことか説明しましょう。

フランス語、あるいは英語の「責任」、つまり、”responsabilite”ないし”responsibility”には、責任と同時に「応答可能性」という意味もあります。普通、「責任をとる」というと、主体による決定、つまり、「私が責任をとる」という「私が」の部分が強調されるのではないでしょうか。

ところが、デリダはこれを反転させました。彼は、responsabilite/responsibilityがもつ両義性を重視して、「責任をとる」といった場合には、「私が」ということに先んじて「誰かが私に呼びかけている」、というのです。だから、「責任をとる」ということは、「私に対する他者の呼びかけに応える」ということであると。

つまり、県外移設についての本土の責任とは、本土の人たちが沖縄の人たちからの呼びかけに応えるというところにはじめて生まれるということです。

絶対的責任と倫理的責任

さらにデリダは責任概念を「絶対的責任」と「倫理的責任」という二種類に分けます。その際に(ユダヤ系でもある)彼は聖書にある「イサクの燔祭」というエピソードを引用します。

「創世記」ノアの洪水の後、はじめの預言者アブラハムは高齢で息子を授かります。ところが、神はそのイサクを信仰の証として生け贄に捧げよと命じます。アブラハムは神の声に応えて、モリヤの山に向かいそこでイサクを殺そうとするのですが、再びの神の呼びかけにより彼の信仰は証しされ、イサクは救われます。

アブラハムはイサクや妻には真実を告げず嘘をついてモリヤの山へと連れ出しました。家族や仲間など「われわれ」、共同体に対して負う責任をデリダは「倫理的責任」と呼びます。一方、神のような普遍的な他者に対して負う責任が「絶対的責任」です。アブラハムの秘密や嘘が暗示するのは、この二つの責任は互いに両立不可能である、ということではないでしょうか。つまり、一方の責任を果たそうとすれば、必ずもう一方に対する責任を裏切ることになるということです。

イサク

本書の中で高橋さんは、反戦平和を掲げる左翼の主張が、かえって沖縄の基地固定化を招いていると批判しています。反戦平和という譲ることのできない究極的な目標を目指すかれらにとって、在日米軍基地は日本のどこにあっても認められるものではありません。むしろ、県外移設によって、日米安保という根本的な問題が覆い隠されてしまうことを懸念するわけです。

ここでデリダの議論を持ち出すなら、ある種の左翼は、反戦平和という絶対的責任と引き換えに、沖縄の人たちへの倫理的責任を放棄してしまう、という構図になるのではないでしょうか。

あるいは倫理的責任の方についても上手くいかないでしょう。さしあたり基地の立地を個々の自治体で分配するというだけでは、今度はそれぞれの個別利害の対立が際立つだけでしょう。なぜなら、ある他者の呼びかけに応じるということは、別の他者の呼びかけに応じないということだからです。

特殊な他者から普遍な他者へ

ではどうすればいいのか。どのように理解すれば、よりよい実践へと結びつけられるのか。

高橋さんは哲学的議論としては、たとえ不可能なことであるとしても、絶対的責任と倫理的責任の両立を追求するべきだと主張します。

特異性と普遍性の二重の要求をどちらも放棄しないということ、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えるという要求をどこまでも維持するということ

高橋哲哉『デリダー脱構築と正義』

しかし、それはどうやって可能になるのでしょうか。

唐突にも、ここでマルクスの議論が役に立ちます。
彼は、フランス第二帝政における皇帝ボナパルト(ナポレオン3世)についてのルポルタージュを記しています(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、詳しい説明は「マルクスの正義論」/大窪 をご覧ください。)

ボナパルトは共和制の体現者となるのですが、ポイントはその方法にあります。
第二共和政において、すべての党は「秩序党」と呼ばれる政党に結集します。秩序党はすべてのフランス市民を代表するとされていました。しかし、いざ議論がはじまると、それぞれが個別の階級利害を追求しているのではないかという嫌疑をかけられ一向に議論が進展しません。

一方、ボナパルトは秩序党と正反対の戦略を取ります。むしろ彼は、あからさまに個別利害の代表者になるのです。保守的な「分割地農民」は政治に関心がないので無視されていました。しかし、ボナパルトは、はじめから政治的に排除され、共和制の矛盾をもっとも強く受けていたかれらを代表することによって、秩序党の共和制に対して、よりいっそう普遍的な共和制の体現者となったのです。

つまり、分割地農民という、もっとも弱い立場にある特殊な他者を代表することが、真の共和制の実現という普遍的な理念の達成と同じことであった、そのように解釈できるのではないでしょうか。

翻って、憲法と日米安保の組み合わせがもたらす矛盾をもっとも強く受けている地域はいうまでもなく沖縄でしょう。
特殊な他者の声に応えることが、普遍な他者の声に応えるのと同じことになるように、と。

おすすめの本


デリダ : 脱構築と正義

講談社(2024年10月04日)

 

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