書名:素敵な人生ありがとう
著者:鶴谷到暉子
出版社:北国新聞社
出版年:2018

 私の字は読みにくく、お世辞にも上手いとは言えない。そのことは、私の授業の板書を写すのに苦労した面々が一番よく知っている。ところが、その私が書道の有段者であると聞けば誰でも呆れるに違いない。この意外な事実に関係するのが、『素敵な人生ありがとう』の著者、鶴谷到暉子先生である。

 もちろん自分では覚えてはいないが、私が四歳のとき、母は「習字と楽器、どっちが習いたい?」と訊き、私は「習字」と答えたらしい。その後中学を卒業するまでの十一年間、毎週水曜日の夕方には自宅から数キロ離れた鶴谷到暉子先生の書道塾へと、四歳年上の兄と二人で通い続けることになる。当時、鶴谷先生は五十歳に近かったことになるが、「ニッテンサッカ」として高名な先生らしいということは、大人たちの会話から聞いていた。

 鶴谷先生の指導はとても厳しく、叱咤されることもしばしばであった。合格とされる水準の字が書けない限り、小学生であっても何度も何度も書き直しを命じられた。長く書き続けるほどに集中力は失われるので、合格水準に達する字はますます書けなくなってくる。ようやく合格がもらえたときには夜の十一時頃、ということもあった。

 母からは「自分から書道をやると言い出したのだから」(!)続けなさいと言われ、「そうなのか」と思って私たちは通い続けるほかなかった。そのため、この毎週水曜の「恐怖の習字」の時間を何とか乗り切る手だては一つしかなかった。集中力が持続する最初の一枚か、多くても二枚までのうちに、全精神力を注ぎ込んで合格水準の字を書くことであった。

 おかげで集中力はつき、字もうまくなったので級はどんどん上がり、十年以上も続けたので気づいたら有段者(たしか四段)になっていた。子供のころは体の成長が遅く小柄だった私は「これを一枚で仕上げたか。小粒の唐辛子やな。」と先生からほめていただいた。しかし、元来自分から好きで始めたことではないので、書道塾以外の場で練習の成果を生かそうとする気持ちはついぞ起こらず(とくに硬筆は苦手なのだ)、今に至るというわけである。それでも、商店街や柔道大会の看板の字を書くよう頼まれ、役に立ったこともあった。

 中学卒業以来縁のなかった鶴谷先生のことを突然思い出したのは、先日、昭和初期の出来事について書いたある本を読んでいたところ「昭和三年のことなので当時を知る人も少ないだろうが」という文言に出会ったときであった。鶴谷先生は指導の傍らお弟子さんのご婦人方と雑談するのが好きで、書道を習いに来ている子供たちの耳にも自然とそれは入ってくる。そのなかに「私らは昭和三年生まれ」という言葉があったのを思い出したのである。鶴谷先生はどうされているだろうか。昭和三年といえば一九二八年。河合隼雄や網野善彦や宇沢弘文と同い年であるから、あるいは。。。そう思いつつネットで検索してみたところ二〇一八年に北国新聞社より刊行された『素敵な人生ありがとう』の著者として、鶴谷先生の名が見つかったのだ。

さっそく注文して届いた本の帯を見ると、「90歳現役女流書家 後世に残すメッセージ」とあり、「かっ子ちゃんがいるので死のうと思った。かっ子ちゃんがいたから頑張れた。素敵な人生ありがとう。」とある。

 数十年の時を経て「かっ子ちゃん」という名が、鶴谷先生の声とともに私の脳裏によみがえってきた。お弟子さんたちとの雑談の中で先生の口からよく出た、重度の障害を持つ娘さんの名である。

 『素敵な人生ありがとう』によれば、鶴谷先生は昭和三年、金沢の長田町に、銭湯と文房具店を営む家に生まれた。女学生時代に終戦を迎え、二十歳のときに父親は近所の人の勧めに従って鶴谷先生を京都に嫁がせたとのこと。嫁ぎ先も、嫁ぐ相手も知らないままの結婚である。やがて長男が生まれ、その後二人目を妊娠するも、婚家は妊婦の先生に碌な食事も与えず先生は栄養失調になったという。このままでは死んでしまう、と泣く泣く長男を残して金沢に逃げ帰ったとのことだ。

 このときに先生の腹の中にいた子が「かっ子ちゃん」こと長女和子さんである。栄養失調の身での出産は無理だからと中絶をすすめられるも、中絶には京都の夫の同意書がいるため叶わず。一か八かの出産の結果、和子さんは無事生まれる。しかし、生後八か月で罹った脳膜炎により、和子さんは重度の障害を抱えることになる。一命をとりとめたものの、続けて和子さんはハシカにかかってしまう。そして、脳膜炎とハシカが重なるとほぼ絶望的だと医師から宣告される。

「落胆する一方、私の心の中には悪魔がすんでいるのでしょうか。この苦しみから、ようやく解放されるのかもしれない。そうなれば、きっと楽になる。和子ももう苦しまなくてもすむようになる。正直、そんな気持ちがこみあげてもいました。

 魔が差した私に和子はしっかりとメッセージを送ってきたのです。『決してあきらめてはいけない』。和子は奇跡的にハシカに打ち克ったのでした。苦難を乗り越える和子の生きる力に、私の考えの甘さや心の弱さを見透かされた思いでした。和子は死の淵からたくましく私のもとに戻ってきたのです。深い悔恨と懺悔、そして子を持つ母の喜びは複雑に胸の中で交錯したのでした。」(53頁)

 和子さんの生還とともに訪れた次なる課題は、生活してゆくことである。和子さんはまたいつ体調を急変させるかわからず、いざというときの入院費もためておかなくてはならない。そのためにも手に職をつけなければならない。鶴谷先生は得意の編み物の教室を開き、また、当時子供の習い事として流行し始めた書道を自ら修練しつつ近所の子供に教えることで、生計の足しにしてゆく。銭湯を切り盛りしながら書の練習をし、銭湯の二階で編み物教室をし、午後の遅い時間には子供に書道を教えるという生活の中で、番台に座っている間も書の練習をされたという。

「銭湯の手伝いをしながら書の稽古に励んでいた時代から私は午前二時、三時ごろに眠りにつくのが日課でした。銭湯を手伝っていた頃は、掃除と後片付けを終えてからが、真剣に書に打ち込む時間となりました。そして書の稽古をする仕事場と隣の部屋を結ぶドアはいつも開け放ったままで、筆を走らせます。隣の部屋には寝たきりの和子がいるからです。和子に何があってもすぐに気が付くようにと、書に集中しながらも、どこか神経を配りながら作品に向き合っていたのでした。」(120頁)

 やがて中田幸子さんという良きライバルとの出会いに刺激を受け、書の道を究めたいという思いを強くした先生は、日展入選を目標として、多くの師に恵まれながら書の道一本をひた走ってゆくのであった。そして昭和41年、悲願の日展入選。その後も続けて入選(10回)され、書道界での鶴谷先生の存在は確固たるものとなる。

 この本を読んでいて、私がむかし耳にした先生の雑談を思い出した。

 「私ね、このお習字の仕事が終わったあと、かっ子ちゃんの世話してあげて、そしてかっ子ちゃんを寝かして、一日の最後に、風呂に入るやろ。そのときに自分に言うがや。『あー。あんたは今日も一日、本当によう頑張った。今日の努力を表彰する』って。そして、自分に毎日一枚、表彰状を授与するがや」

 外国人が大相撲の優勝力士に「ヒョーウ ショーウ ジョーウ」と言って賞状を授与する場面が人気を博していた頃だったかもしれない。私が知っている鶴谷先生はすでに書の大家であったが、著名な日展作家となってからも和子さんの世話は毎日続いていたのであり、それは和子さんと先生がともに暮らしている限りは、いつまでも続くことなのだ。書の世界では不動の地位を築かれていた先生も、障害を持つ子を抱えたひとりの母親としては、自分に毎日表彰状を授与し激励し続ける苦闘の日々を生きていたのだ。

 女手一つで子供を育てる苦労だけでも大変なものであろう。しかもそれが障害を抱えた子であればなおのことである。鶴谷先生のほんとうに偉大なところは、だからと言って「どんな仕事でもやる」というのではなく、自分を魅了し慰安を与えた「書」という芸術によって生計を立てようと決意したこと、そしてその実現のために並々ならぬ努力をされたということである。

「江戸時代の剣豪、宮本武蔵は兵法について記した著作「五輪書」の中で次のように書いています。『千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす』書であれ剣であれ、その道の奥義を究めるには、一にも二にも稽古に打ち込む、鍛錬するしかないということだと私は思います。(中略)少しでも字がうまくなりたいと思えば、どうか日々の仕事に追われる中で、わずかでも時間を割いて、書に向き合い、筆を持つ時間を作ってみてください。」(136頁)

 耳が痛い言葉である。泣く子も黙る、あの鶴谷先生の妥協を許さぬ気迫は、「かっ子ちゃん」とともに生き抜くこと、そして、それをあくまで書の鍛錬を通じて成し遂げようと覚悟し、そして実現してきた、その自負と一体のものであったのかもしれない。

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 数十年前にしぶしぶ書道塾に通っていた不肖の弟子が、鶴谷先生の苦難が始まった京都でこのように無礼な書評をしたためていることを知ったら、先生は昔のように叱られるであろうか。あるいは、苦笑とともに赦して下さるだろうか。鶴谷先生と和子さんのご健康を願ってやまない。(了)

(評者:舟木徹男)

更新:2021/01/22