書名:聖なるズー = Saint Zoo
著者:濱野ちひろ
出版社:集英社
出版年:2019

 タイトルの「ズー」とは zoophile(動物性愛者) のこと、本書は文化人類学を学んだノンフィクションライターによる、動物性愛についてのルポです。
 動物性愛についてのルポというと、奇異な世界を覗き見するキワモノ本のようであり、実際私もそのテーマの目新しさに下世話な好奇心から読み始めたのでしたが、動物性愛というテーマを越えて、人間一般に関わるであろう普遍的な、あるいは現代的な諸テーマが次々現れる本でした。実際、著者の経歴と取材に至るまでの私的な体験が語られるプロローグでは、「人間の性的欲望の不可解さ」(p.15)への問題意識が背景にあったことが書かれています。賞を受賞し話題になった作品であるので、書評も既に多く書かれているとは思いますが、読み進める中で出遭ったそうした諸テーマを以下に記します。

 

● 人間と動物の関係とは? 性とは?

 本書の軸となるのは、ドイツの動物性愛者の団体「ZETA(Zoophiles Engagement für Toleranz und
Aufklärung:寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」への取材です。ZETAは2009年に設立され、著者が取材をした際(2016-7年)にはセクシュアリティ解放団体というよりも自助グループやサークルのような雰囲気であったそうですが、もともとの設立の経緯は、動物保護法で動物との性行為を禁じようとする動きを受けてのことでした。つまり、動物性愛=虐待とみなす見方に抗う形でZETAは設立されたのでした。さらに著者は、動物性愛への批判には、動物虐待という点からの批判だけでなく、キリスト教文化圏の道徳とも結びついた「『異常なもの』に対する生理的な忌避感」(p.23)があるのでないかとも指摘します。自分自身もある種の性的傾向をもつ人たちに恐怖感・嫌悪感を抱いた体験があることを述べたうえで、著者はこのように述べます。

 「人間のセクシュアリティやセックスに善悪はつけようがない、と私は思っている。人々が求めるセックスの背景には、さまざまな欲求がうごめいている。嫌悪感に基づいて短絡的に彼らのセックスを思考から追い出してしまえば、議論をそれ以上深めることはできなくなるだろう。考えるべきは、人間の本能的な部分が社会とのかかわりのなかでどのようにして齟齬をきたすかということ、また、社会の一部分であるはずの私自身が、なぜ特定の性的実践を受け入れられないのかということだ」(p.29)

 こうして、ZETAのメンバーを訪ねる取材の旅が始まります。
 まず、動物性愛と聞いて多くの人が抱くであろう疑問は、「とはいえ、動物とは合意を結べないのではないか?(それではやはり虐待ではないか?)」ということでありましょう。しかしこれに反して或るズーは、ズーの問題の本質は「動物や世界との関係性」であり「異種への共感」なのだと語ります(p.79)。
 取材の中でズーたちが、動物に「パーソナリティ」を認める、という表現をすることに、著者は気づきます。或るズーは、パートナーである犬に「パーソナリティ」を認め「対等性」にこだわったゆえにそのしつけに失敗したと語っています。すると、おや、この「対等性」の問題は、動物性愛者でなくとも、一般にペットを飼う人や動物好きの人の多くが行き当たったことのある問題ではないでしょうか。動物と人は対等でいられるか? 動物を人間のルールに従わせてよいのか? どこまで生活をペット中心に行なうか?
といったズーたちの問い、これは、「ペットは家族です」などという言い方も一般的になった今、多くの愛ペット家にも共通する課題であると思われます。
 性的場面においてもズーたちは、動物との対等性を守るため、行為のために動物を訓練してはならないとの倫理観をもっています(p.90)。動物性愛者といいながら彼らは必ずしも動物と性行為を行なうわけではないといいます(この点で「ズー」は「ビースティ(獣姦愛好者)」と区別されています)。では動物との性愛はどのようにして可能になるのか? といえば、ズーたちは、「動物が主体的に求めてくる・誘ってくる」という体験を語ります。
 「人間が都合よく犬の行動を解釈しているのではないか」(p.118)と釈然としない思いを抱いたことを著者が記しているように、多くの読者も同じ疑念を抱くのではないでしょうか。しかし、一方で著者は、むしろ自分はこれまで動物の性的欲求に気づいてこなかったのではないか、との疑念も記しています。取材の中で「ズーのセクシュアリティ観には『パートナーの性のケア』という側面もあるようだと私は感じ初めていた」(p.97)ともあります。そしてズーたちの動物観に、現代におけるペットの「子ども視」を対置させてみせています。たしかに「ペットは家族」と主張するとき、愛ペット家の多くはペットのポジションを子ども的なものとしてイメージしているでしょうが、そのとき、われわれは動物の「性」の側面を不当に無視しているのではないか? ……と、動物性愛は虐待ではないのか? と疑わしく読んできた読者はここで、むしろ自らの動物観・ペット観を問われることとなります。
 また、ズーたちの語りを読んで私が感じたのは、一般的な愛ペット家のあり方と動物性愛者のそれはどれくらい違うものなのか?ということでもありました。狭義の性的行為ではなくとも、広い意味での官能的なスキンシップをペットと行っている飼い主は多いのではないでしょうか。私自身、犬を飼っていたとき、愛犬の腹に顔をうずめたり布団に連れて入ったりという時間は濃密で幸福なものであり、「やりすぎやろ!」と家族から止められるなんてこともありました。こうした一般的な(?)飼い主の幸福とズーたちのあり方の違いは、量の差に過ぎないのでしょうか、やはり質の差であるのでしょうか。これは、「性とは・性的であるとはそもそもどういうことか」という大きな問いに帰着しそうです。

 

● 対等性とは? 性的合意とは?

 さて、「対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ」(p.104)とあるように、「対等性」という概念は、人間と動物の関係のみならず、人間同士の関係を考えることにもつながってきます。
 「性的合意」というワードが、昨今ますます重要視されるようになりました。動物と人間の大きな違いは言語の有無であるからには、人間の合意の確認は人間-動物間よりも簡単であるように思われますが、実際はそれは、言語だけでないさまざまな微妙な方法で成り立っているものでありましょう。というと、嫌よ嫌よも云々という卑近な慣用句が思い出されますが、逆に、著者が自分の体験として述べているように、言葉の上で合意していてもそれが「偽物の対等性」(p.174)であるケースや、そのことに事後的に気づくケースもあります。「動物と性的合意が結べるのか?」という問いを通してわれわれは、「ではそもそも人間同士は合意を結べるのか、どのようにして合意を結べるのか」という問いへ連れてこられることとなり、問題はぐっと身近になります。

 

● 暴力とは何か?

 動物性愛者はZETAのメンバーばかりではありません。第3章ではZETAを脱会したメンバーが取材されており、ズーといっても多様であり、ZETAも一枚岩的コミュニティではないことが分かります。(本書の『聖なるズー』というタイトルは、この脱会メンバーがZETAを揶揄した言葉に由来しています。)
 ズーの中にも、パートナーとする動物の性別によりゲイ、レズビアン、バイ、ヘテロと異なる指向があり、性行為における立場によりパッシブとアクティブの別があります。当初、著者がZETAの取材で出会うのはゲイ・パッシブのズーばかりだったといいます。パッシブ・パートのズーたちには「動物の性のケア」という感覚がある一方で、アクティブ・パートの人たちは、その行為が暴力・虐待と見なされかねないがゆえの語りにくさ・後ろめたさを抱えており、ズーの中でも表に出づらいのでないか、というのが著者の仮説です。
 そしてここでは、「では暴力とは何か?暴力は何に由来するか?」という問いが問われています。社会には、ペニスそのものに暴力性を帰す見方があり、そうした感覚をズーの人たちも共有しており、そんな暴力観がここであぶり出されているのではないか。しかし、性暴力の本質は、ペニスという器官ではなく他のところにあるのではないか? というのがここでの著者の問いです。たしかに、男性による性犯罪が起こった際に、われわれはしばしば「去勢してしまえ」というような言い方をします。これは言い換えれば、暴力を身体的・生得的なものに帰しているということかもしれません。だが、「短絡的にペニスに暴力性を見出だしていては、セックスから暴力の可能性を取り去ることはできない」(p.162)。これは、性暴力を批判する際に陥りがちなミサンドリー(そこには一概にそれを否定しきれない経緯があるとは考えますが)への問題提起にもなっているでしょう。

 

● セクシュアリティは生得的か? 異常/正常とは?

 さてズーの多様さといえば、5章では、女性のズーも取材されています。この人は、もともとは動物に性的欲望を感じたことはなく、後天的に「ズーになることを選んだ」という人でもあります。彼女は、かつて男性との性行為では自分が暴力的になってしまうことに気づき、「レズビアンになる」という選択をしました。さらに、ズー・レズビアンの女性との交流の中で動物の性について考えるようになり、ズーになることを決意します。セクシュアリティによって人を差別してはならないと言うとき、われわれはよく「選んでそうなったわけじゃないから、先天的なものを差別してはいけないから」というロジックを用います。しかし彼女において、レズビアンになる、ズーになる、というセクシュアリティの選択は、「よりよく生きるための手段を選択すること」「理想とする生き方を叶えるための、新たな方法」(p.214)であるのです。

 自らの思想や理想のために動物性愛を選ぶというのは一見奇怪に見えます。しかし、異性愛を含めた人々のセクシュアリティ(というか異性愛こそ)が実は社会的・政治的に構築されてきたものではないか?ということは、これまでもジェンダー・セクシュアリティ研究の中で指摘されてきたことでありましょう。
 本書で、そうした人間のセクシュアリティと社会・政治との関わりが特に明確に書かれているのは第4章です。第4章では、エクスプロア・ベルリン・フェスの取材で出会ったさまざまな性の様相が書かれたのち、「セックスは普遍的な行為にもかかわらず、世界中で政治による介入がある不思議な営為だ」(p.178)として、人々の性のあり方が法や政治との関わりの中で規定されてきたさまが触れられています。ドイツにおける動物性愛についての議論もまた、伝統ある動物保護の理念と性の自己決定権の理念の間でなされてきたこと、そして後者にはナチスの性政策への反省という特有の背景があることが述べられており、とりわけ読み応えのある章でした。
(さらに、動物保護先進国ドイツの動物保護法の歴史の記述では、それがナチス政権下ではユダヤ人の抑圧に用いられたことも触れられており、「法」の意図の一筋縄でいかなさに関しても興味深く読んだところです。)

さて、人間のセクシュアリティは社会の介入の中で構成されているゆえに(つまり「自然」な状態がそもそも存在しないゆえに)、それが異常か正常かという判断も困難であるのでしょう。「自分のセクシュアリティは異常か正常か?」という悩みは、性的にマジョリティに属する人の多くにも(マジョリティであるゆえに大々的に問われる機会が少ないだけで)無縁ではないでしょう。
 「動物性愛」は、DSM-5(アメリカ精神医学会による診断基準)ではパラフィリアの下位カテゴリとして位置づけられています。著者も、動物性愛が精神疾患に由来する可能性を精神科医から指摘されたとしていますが、それを「病気」として「線引き」してしまうことを拒否しています(p.252)。性において何を病理的とするか、というとき、精神医学の専門的知見はありましょうが、その基準は社会・文化的背景によって変転してもきました。そもそも、現行のDSM自体が、病理なるものを本質的に定義するという考え方を採っていません。「動物性愛は異常であるのか、病理的であるのか?」という問いは、そもそも異常/正常をどのように判断するのか? 診断とは何か? という問いへつながってくるでしょう。

 

● そして「愛」

 「動物性愛は異常なのか」「動物性愛は虐待か」「動物と合意が結べるのか」……といった疑問に、本書によって何かひとつの明確な答えが得られるわけではありません。ただ、それらの疑問を追ううちに、その疑問の構造自体が問われ、それが多くの人にとって身近であろう問題と関係していることが分かる、という本になっています。

 ズーたちへの取材は、形式張った形ではなく取材対象の家に泊まり込み食事をともにするというやり方で行われており、その交流の描写も本書の魅力のひとつですが、そうして行く先々で著者はドイツの郷土料理「クヌーデル」を食べさせられます。どこでも同じような味の「クヌーデル」と著者は格闘し続けるのですが、各家々で出されつつ単調なこの「クヌーデル」は、探求の中で出会う新鮮な問いが結局普遍的な「ベタ」に還ってきてしまうことの象徴のようでもあります。
 さまざまなズーとの出会いの末、最終章では、「ズーとは、自分とは異なる存在たちと対等であるために日々を費やす人々」(p.254)である、という所感に著者は至ります。であるとすればそれは、一方的な支配であるところの性暴力の対極にあるものです。また、人間同士のセックスが常に意味(たとえば婚姻関係の維持)をもつことを嫌うズーの言葉が、共感的に書き留められてもいます。しかし、その一方で、ズーたちのもつ保守的で古風な一面にも気づかれることになります。ズーたちは、けっして性的にラディカルであるわけではなく、むしろ、愛する特定のパートナーとのロマンティックな関係性を賞揚します。

「私はおそらく、意味を剥ぎ取ったセックスを求めていた。(…略…)セックスが抱え込むさまざまな意味や、セックスが生み出す人と人との関係性の鋳型から解放されたかったのだと思う。そして私はそれを、ズーたちのセックスに期待していた。人間ではない存在とセックスするという彼らに、私は明らかにエキゾティックなものを見るような羨望のまなざしを向けていたのだ」(pp.266-267)

 だが、そこで語られる「愛」は定型的なものであり、「意地悪な言い方をすれば、反論を赦さない愛を彼らは主張しているように思うのだ」(p.267)とあるように、おなじみの愛と性を一体とする言説でした。愛を性の理由(言いわけ)とするのであれば、それは、人間同士の性とどう違うのか。性暴力においても「愛」は言い訳に使われてきたのではないか? といって、「愛」なしに相手と対等であることができるのか? 人間同士の間の「愛」と動物との間のそれは異なるものなのか? 愛とは? ……人間的なしがらみから自由であるかと思われたズーの世界の探求が、最後に「愛」という人間独自の概念、いわば「ベタ」な概念に戻ってくるのです。

 

(評者:村田智子/むらたさとこ)

更新:2021/09/23