![]() | 書名:漱石書簡集 著者:夏目漱石 編者:三好行雄 出版社:岩波書店 出版年:1990 |
漱石の書簡集のエッセンス版。誠実で一徹な、それでいて慈愛に満ちた人柄がうかがえる。
最初の方は青年時代の親友、正岡子規宛てのものを多く収録。子規の書いたものにいい加減なところがあるとけっこう厳しい苦言も長々と書く。それでもお互いに敬愛し信頼し合っていることが言葉の端々から伝わり、友情とは良いものだと素朴に感じさせる。
ロンドン時代の妻鏡子への手紙には、結構細かなことまで報告しており、仲が悪かったことで有名な妻からの返信すら心待ちにしていた様子からは、留学中はよほど孤独な生活であったのだろうと思わされた。
小宮豊隆や森田草平、鈴木三重吉らの弟子たちに対しては慈父のような温かみのある助言や励まし(ときには苦言)が、一人ひとりの資質に合わせて書かれており、しかもまったく偉そうでないところが偉いと感じさせた。
このように、小説よりも直接的なかたちで漱石の心情が吐露されているところも多いためか「漱石は書簡が一番面白い」という人がいるのもなるほどと思わされたが、私にとっては、漱石がどういう根本的な動機と覚悟を持って小説を書いていたかを、漱石自身が語っている狩野享吉への手紙がいちばん印象に残った。京都の大学で教えないかと誘う狩野に対し、以下が漱石の返信である。
「僕も京都へ行きたい。行きたいがこれは大学の先生になっていきたいのではない。遊びに行きたいのである。自分の立脚地から言うと感じのいい愉快の多い所へ行くよりも感じのわるい、愉快の少ない所におってあくまで喧嘩をしてみたい。これは決してやせ我慢じゃない。それでなくては生甲斐のないような心持がする。何のために世の中に生まれているかわからない気がする。僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてその内に立って花々しく討死にをするか敵を降参させるかどっちかにして見たいと思っている。敵というのは僕の主義、僕の主張、僕の趣味から見て世のためにならんものをいうのである。世の中は僕一人の手でどうでもなりようはない。ないからして僕は討死にをする覚悟である。討死にをしても自分が天分を尽くして死んだという慰謝があればそれで結構である。」
何だか物凄い気魄なのだが、こうした覚悟を持つに至った経緯は、狩野への次の書簡に書かれてある。
「御存じの如く僕は卒業してから田舎〔松山〕へ行ってしまった。(中略)僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下のことがある。――世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚い奴が他という事を顧慮せずして衆を恃み勢に乗じて失礼千万な事をしている。こんな所にはおりたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう――これが大なる目的であった。然るに田舎へ行ってみれば東京同様の不愉快な事を同程度において受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかったのか。彼らがかくまでに残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで死ぬまで勝負をすればよかった。余は比較的にハームレスな男である。進んで人と争うを好まねばこそ退いて一人(種々な便宜をすて、いろいろな空想をすて、将来の希望さえ棄てて)退いてただ一人安きを得ればよいという謙遜な態度で東京を捨てたのである。然るにもかかわらず彼らは余にこれだけの犠牲を敢えてせしめたる上になお前と同程度の圧迫を余の上に加えんと試みたのである。これは無法である。文明の衣をつけた野蛮人である。かかるものをして一毫たりとも彼らの得となるような事をするならば余は社会の一員として、それだけ社会の悪徳を増長せしむる者である。第一余が東京を去ったのからして彼らを増長せしめた源因を暗に作っている。余は余と同境遇に立つもののために悪例を開いた。自らを潔くせんがために他人のことを少しも顧みなかった。これではいかぬ。もしこれからこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで当の敵を打倒してやろう。いやしくも男と生まれたからにはそれ位な事はやればやれるのである。〔中略〕余は当時ひそかにこう決心した。」
漱石先生、いったい松山で何があったのですか?布団にバッタを入れられたのがそんなにこたえましたか?ともかく漱石はその後に洋行し、「英国人は馬鹿だと感じて」帰ってくる。狩野への手紙はさらに続く。
「英国から帰ってきて余は君らの好意によって東京に地位を得た。地位を得てから今日に至って余の家庭におけるその他における歴史は尤も不愉快な歴史である。十余年前の余であるならとくに田舎へ行っている。(中略)しかし、いまの僕は松山へ行った時の僕ではない。僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんなことがあろうとも十年前の事実は繰り返すまい。今までは己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼したことが一度もなかった。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しようとのみ生活していた。これからはそんなものは決して当てにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は一人で行くところまで行って、行き尽いたところで斃れるのである。それでなくては真に生活の意味が解らない。手ごたえがない。何だか生きているのか死んでいるのか要領を得ない。余の生活は天より授けられたもので、その生活の意義を切実に味わんでは勿体ない。(中略)天授の生命をあるだけ利用して自己の正義と思う所に一歩でも進まねば天意を空しうする訳である。余はかように決心してかように行いつつある。」
これが漱石をして最後の十数年のあいだにものすごい量の小説を書かしめた決心であったらしい。しかし、具体的にいったいどのような事件があって、どのような人(あるいは社会)が漱石の倒すべき敵となり、それとどんな風につながって男女関係の小説ばかりあれほど沢山書くことになっていったのか、そこはよくわからないままだが、その辺りは江藤淳が一生かかって執念深く調べていそうなので(『漱石とその時代(一)~(五)』)、そのうち読んでみたい。
その他、いくつか細かい点で印象に残ったのは、ロンドンの下層階級の言葉(コックニー)の聞き取りには漱石も難儀した様子であったこと、雑誌『変態心理』を創刊しフロイトやユングの初期の紹介者でもあった中村古峡がもともと英文科出身で、漱石の門下生であったこと、手紙からも分かるほど仲の悪かった妻鏡子との間に六人(?)も子供がいるのは現代の感覚では不思議な感じであったこと、などである。『こころ』を読んだ小学六年生からの手紙の返信に「あれは小供がよんでためになるものじゃありませんからおよしなさい」と丁寧に助言しているのも面白かった。
(評者:舟木徹男)
更新:2025/03/08