書名:造反有理 精神医療現代史へ
著者:立岩真也
出版社:青土社
出版年:2013

 ここで造反とは主に1970年前後の精神医療改革のことを指しているようです。当時の運動についてこれまで評者はまったくの無知でした。どこかで気にはなっていてもちゃんと調べてみようとしたこともありませんでした。しかしちゃんと調べてみればわかるのかといわれるとそうではないらしいことがこの本を読むとわかります。語られたり書かれたりしてこなかった多くのことがあるらしいということがわかります。
 評者の拙い要約を載せるよりも実際に読んでいただいたほうが誤解が少なく理解も早いかと思われますので、ここでは評者の雑然とした感想だけが述べられることになるかと思います。なお買ってしまってから知ったのですが、著者のホームページで注文すると著者の他の書籍が半額で買えるようです。『ベーシックインカム』とか気になります(http://www.arsvi.com/ts/2013b2.htm#top)。

 どこから始めようかと思うのですが、個人的に特に関心のあるところから述べさせてもらいます。まず反精神医学。ざっくりいうと造反派というのは反精神医学と同じでしょと思えるのですが、それはやはりざっくり言い過ぎのようでどちらかといえば「体制側」に貼られたレッテルであることのほうが多かったようです。実際には造反側の人が熱心に反精神医学の関連書籍を読んでいたわけではなかった。造反側も体制側もナイーヴといえばナイーヴだったと考えることもできる。それでも著者はどちらに理があったかということをはっきり書いている。それは造反側への皮肉として読めないこともないかと思います。理があると言われて嬉しくない人だって当然いるわけです。
 本書では中井久夫の文献がよく引かれています。昨年2013年には文化功労賞も受賞した人です。引用の一つに『日本の医者』という本の中の「革命家は別の入り口へどうぞ」という一節があります。『日本の医者』は医療改革に関心のある関係者にもよく読まれたそうですが、医療改革側に対する批判も同時に込められていた。しぶしぶ書いたらしいレインの書評だったか追悼文だったかするものも別の箇所で引用されています。レインに対して、そしてフーコーに対しても彼は冷ややかな態度をとっていた。これはどういうことだったのか。
 本書にはなかったと思いますがその文の中で中井は、レインはサリヴァンのいう「自己」という概念を「偽自己」としてしまった、ということを書いていたように記憶しています。いま少し思い出しましたがこれは追悼文ではありませんでした。念のため。
 同じことですが少し角度を変えてみます。レインはひとびとが現実と思っているものはほんとうの現実ではなく幻想にすぎない、というようなことをどこかで書いていたと思います。現実に括弧をつけたということになるでしょうか。これは先ほどの自己を偽自己としたのと同じ理屈として理解できます。こういう物言いをしてしまうと偽自己やら括弧つきの現実の外側にはあたかも本当の何かがあるかのように聞こえます。そうしてそのほんとうの何かを見出した後にはもういかなる目標を据える必要もないかのようなのです。中井が冷ややかにならざるを得なかったのはこうした口ぶりの中にあったのかもしれません。
「そのときまで医療の中でどういうことをつみ重ねてゆくか、であり、そのことの努力の中でしか、諸条件の成熟はあり得ないだろう」と若かりし日の彼は言います。

 この「現実」の外側に真の現実なるものがあるのだというこの口ぶりだけ取り出してみればこれは中学生くらいになれば誰もが言い出しそうなことでもあります。大衆映画の中にもこういったテーマはいくらでも見出せるのではないでしょうか。なにより真の現実という概念は人を安心させるものであろうと思います。この「現実」がどうも現実らしくないと感じたときにこれとは別に真の現実があるのだぞという考えが吹き込まれたらつい飛びついてしまいたくもなるかもしれません。不安よりは恐怖のほうがまだまし、とよく言われます。対象があるかないかの違いですが、これは大きな違いなのでしょう。あるいは恐怖を妄想や幻覚と言い換えてもよいでしょうか。

 本書では何が言われたかだけではなく、どう言われたかということ、つまり物言い、言い草についても語られています。正確な表現は忘れましたが、造反側の物言いは自己否定的、内省的であり「体制側」は得てして感情的であり自己肯定的、権威主義的、威圧的であるようです。
 しかし中井の書評には体制側とされる臺(うてな)弘について「著者ほど毀誉褒貶を多く受けた精神科医もまれであり」と冒頭で誤解されることの多かった人物として述べられてもいます。評者は体制側とされた人たちの著作を読み込んでいる者ではないので誤解があるというのならやはりじゅうぶん確かめてから物をいう必要はあるのだろうと思います。しかしたいして読んでないのに批判するなという批判とは別の理由からとこれを考えます。

 体制側とされる人たちの態度についてもう少し言えば、彼らは「生理的要因と社会的要因の両方があるとしつつ、その証拠、『原因』を結局身体に求めたいよう」であり、「その『原因』、機序が統合失調症について明らかになっていないことを認めつつ、やがて発見されることを期待し続ける」ようなのです。「疾患の『実在』を身体・脳に『原因』が(まだ特定されていないが)あるに違いないことに求める」、こうした態度が特徴的であるでしょう。志向性の問題といえるでしょうか。評者が拙い言葉で何事か言うよりも伝わるものがあるかと思いますので、フーコーの言葉を少し引用しておきます。

連続的歴史とは、主体から逃れたすべてのものが主体に返還されうるであろうと保証してくれるものであり、時間が何を分散させようとも、主体は、組み立て直された一つの統一性のうちに復元されるであろうという確信を与えてくれるものであり、差異によって遠方に置かれている事物のすべてを、主体がいつの日にか―歴史的意識のかたちで―再び我が物とし、自らの統御を立て直して、自らの住処と呼びうるようなものをそこに見いだしうるであろうと約束してくれるものであるということだ。
歴史的分析を連続的なものに関する言説に仕立てることと、人間の意識をあらゆる生成およびあらゆる実践の根源的主体に仕立てること、これは、同じ一つの思考システムの両面である。
(ミシェル・フーコー『知の考古学』)

 造反側が自己否定的になりがちであるのは理由のないことではないようです。薬物療法について、身体拘束について、もっと広く言ってしまえば治療について、そこでそれらのすべてが拒否されているわけではないからです。ではどうすればよいのでしょうか。何も手を加えないのが最良であると常にいうことは難しい、そう感じていたからこその自己否定であったはずです。薬物療法をしない医者が最良か。薬なしで済まされるのは多くのものから目をそらしてこそと知っていたからこその自己否定であったのではないでしょうか。ではどうすればよいのでしょうか。ここに答えはありません。
 狂えばよいとある人は言うかもしれません。しかし狂えばよいというときのその狂うとはどういうことでしょうか。おそらくそれは全然狂っていない、むしろ誠実すぎるほどの言動であるかもしれません。それこそ狂気であると言うことはいつでも可能でしょうが、単なる定義の問題になります。

 当時の事情を大方把握されていてじゅうぶんな時間が割けないという方は第5章だけ読んでも要点は掴めるかと思います。

(評者:ひねもす無為)

更新:2014/04/04